漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「温泉」だ。
最近、どんなテーマが出て来ても「今はコロナで無理なんすけどね」という注釈を入れなければいけないのがツライところである。
ご存じの通り、旅行などしようものなら、芸能人じゃなくてもつみれになるまで叩かれてしまうご時世である。
確かに現在旅行をしたり、乱れたり交わったりするパーティを開くのは軽率と言われても仕方がないが、己が判断で自粛してないと思しき者を取り締まったり、まして罰したりする自粛警察というのはさすがにやりすぎではないかと思う。
自警団が生まれるとろくなことにならない、というのは「映画デビルマン」を見た人間なら全員知っていることである。
「温泉」についても、どうせ行けないし、とか、こんな時に温泉の話などけしからん、などと思うのではなく「オレ、このコロナが終わったら温泉に行くんだ……」という、希望、もしくは死亡のフラグを立てた方が建設的というものである。
しかし、私はもしコロナが終息しても温泉には行かないと思う。
大体、このコロナ禍の外出自粛で、時間が出来たことにより「時間さえあればやるのに」が完全な言い訳であることが判明してしまったという奴も結構いるのではないだろうか。
時間さえあればと言っている奴は時間があってもやらない。出来ると言ったら「時間さえあればもっとツイッターを見るのに」という今ドブに捨てている時間の量を増やすことぐらいだ。
「オレこの戦争が終わったら結婚するんだ」と言って、本当に結婚する奴はもちろん、死亡フラグ通り死ぬ奴ですら「デキるタイプ」であり、ボンクラは結婚もしなければ、死にもしない。
何年かたって「そういやお前結婚するとか言ってなかった?」と白木屋で友人につっこまれて「いや時間がなくて」という言い訳をするのが関の山だ。
よって「コロナが終息したら○○する」も、新しい挑戦の場合はしないと思った方が良い。
目標を立てるとしたら「オレ、コロナが終息したら、日高屋行くんだ」と、コロナ前でもやれていたことにしたほうが良い。
よって、外出自粛と言われなくても外出していなかった人間が、外に出られるようになったからといって、旅行や温泉などに行くはずがないのだ。
前に温泉旅行に行ったのはいつだったかというとおそらく10年以上前である。
夫と結婚前に別府に行ったのだが、そこで夫は何かに当たってしまったらしく、山手線で言えば「大崎で降りて吐いて、五反田で降りて吐く」というようなリアル地獄めぐりを帰路でやっていたのでよく覚えている。
しかし、今でこそ部屋からすら出たがらないが、20代前半ごろは旅行や温泉にも行っていたし、何と海にすら行っていた。
何故なら人間というのは、自立するのに20年前後かかると言う、生物レビューサイトがあったら「とにかくコスパが最悪です、デザインに優劣がありすぎるのも×で☆1です」とつけられる難あり商品である。
成長も遅いが、学びも遅く、牛とかであれば生まれた瞬間から誰に教えられたわけでもなく「俺は草しか食えねえ」とわかっているのだろう、それに対し人間は4歳ぐらいまでレゴブロックすら「とりあえず口に入れてみなければわからない」という自然界なら即死レベルの生態をしている。
ある程度すれば、それが食い物かどうか目視で判断できるようになるが、それが好きか嫌いかは相変わらず「口に入れなければわからない」という察しの悪さなのである。
つまり、己の好みや向き不向きすら、経験してみないとわからないどころか、経験しても再度やらかしたりする。
よって私が昔、旅行だの海だの行っていたのは現在の「自宅神推し同担当拒否過激派」という己のスタンスを確立するための礎だったのである。
もし「向いてないことに時間を費やして無駄した」というようなことがあっても、「ここは俺の場所ではない」という学びを得られたなら無駄ではない。
逆に言うと学ばなければ本当に時間の無駄であり、学んでないから「今回は何か良いことあるかも」という動機で、また合コンや同窓会に参加して時間を無駄にするのである。
「新しい挑戦」と言ったら、ポジティブな成果を得るためにやることのように思うかもしれないが「俺これ大嫌い」というネガティブな結果も「二度とやらねえ」という重要な答えを手に入れるためには必要なことである。
ちなみに温泉自体は嫌いというわけではない。
入った瞬間飽きており「温泉に入っている間何をしたら良いのか」という謎が解けていないので、温泉旅行と言いながら、リアル温泉滞在時間は5分とかになりがちだが、入った瞬間は好きである。
ただ「外出」そして「歩行」が嫌いなのだ。
よって温泉の方が「コロナが終息したらお前んち行くよ」と言ってくれるならやぶさかではない。
これがわかったのもやはり経験してきたからである。