漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「おみやげ」である。

今年のGWはコロナの影響により外出さえままならないというリアルガッデムウィークと化してしまったが、例年であれば、今頃オフィスでは、GW中行った場所のおみやげが、ソシャゲの長期メンテ明けが如く大量に配布されているところである。

会社で配られるみやげものと言ったら大体が菓子であり、良い意味で適当なものが多い。

もちろん銘菓と呼ばれる美味いものもあるが、みやげものにとって「美味さ」はマストではなく、どこに行ってきたかわかりやすければわかりやすいほど優勝な世界なのだ。「東京ばなな」など、名前に地名が入っているだけで、70点は堅い。

見た目も味も良いが、どこぞの物かさっぱりわからんしゃらくさいスイーツよりも「栃木」と焼き印が押された瓦せんべいが勝利してしまうのが、会社で配られるおみやげ界なのである。

世界一美味いとわかっていても、旅行先のコンビニで買ったブラックサンダーを配ってはいけないのだ。

その点、どこに行ったか一発でわかり、美味でもある「博多とおりもん」は5000兆点と言わざるを得ない。

つまり、自分はここに行って、おみやげを買うという社会性があり、それをお前らに配る誠意を見せた、というガチガチの「アリバイ」がおみやげというものだ。

しがらみの象徴のような存在だが、このおみやげがバカにならない。

「コミュ力」と一言で言うが、その内容は多岐にわたる。饒舌で明るい人間ならコミュ力があるというわけではない。

沈黙になると、とりあえずその場にいる、デブや独身者、しゃくれやスキっ歯をいじり出す奴のコミュ力が高いと言えるだろうか。

逆にしゃべらないからと言ってコミュ力がないわけでもない。

自分はしゃべらなくても、聞き上手ならばむしろコミュ力が高いと言われる。

しゃべらない上に人の話も聞いておらず、ヘルシェイク矢野のことを考えているのが本物のコミュ症だ。

つまりコミュ力というのは、どれだけ他人に興味、気遣いや配慮が出来るかということである。

「おみやげ」というのはそれを物理で示せる便利アイテムだ。

1,000円程度で「誠意」という菅原文太が真顔で詰めてくる代物を示せるなら安いものである。

コミュ症はそれがわかっていながら「まあええやろ」と手ぶらで参上してしまったりと、人間関係の築き方が基本的にずさんなのである。

もしくは、最初からみやげを持って行くという発想すらなく、頭の中が「オレ」と「ヘルシェイク矢野」のみで「他人」が一切いないのだ。

そういうタイプは人に何かもらっても「お返しをする」という発想もないため、そういう所から「あいつにはもう何もしたくない」と距離を置かれてしまうのである。

あと単純に「ケチ」と思われたりもするので、おみやげなど、時には他人に施すことも社会生活には必要なのである。

しかし「いやげ物」という言葉がある通り、何を施すかによって逆に手ぶらの方がましだったという事態も起こり得る。

「いやげ物」というのは、地名入りTシャツや、濡れるとヌードが現れる湯飲みなど、ダサい上に、飾るのも憚られるようなエロった物のことを指す。

「みやげは食い物」という鉄則があるのも、どれだけノーセンスでも食ってしまえばこの世から消滅するという利点があるからだ。

つまり、みやげや贈り物に「オブジェ」など、飾る以外用途がないものを選ぶのは悪手中の悪手ということである。

ダサければ飾りたくないし、だからと言って捨てるのも憚られる。

その点食い物には「腐る」という慈悲がある。もらって気に入らなかったら忘れたふりをして置いておき「腐ってしまったなら仕方ない」と捨てる理由がつけられるからだ。

ちなみに、もらった本人の前で腐らせてはいけない。あくまでこっそり、忘れていたという体で腐らせよう。

もちろん、食べ物を粗末にするのは良くないので、それは最終手段である。食べ物であれば腐る前に好きな人に「再譲渡」という対策もとりやすい。

だがオブジェというのは「生首」とかでないかぎり、腐らないので、捨て時が存在しない上、人にあげるのも「いらないものを押し付けて来た感」が強すぎて難易度が高い。

このように永遠に自宅のスペースを奪い続けるのが「いやげ物」である。

よってよほどセンスがあるか、相手のことを理解しているかでない限り、みやげものは食い物にしておくのが無難である。

しかし食い物でも、オフィスに切れ目が入っていないロールケーキやカステラ1本などを持って行ってはいけない。

それはおみやげではなく、受け取った女子社員の仕事を30分は滞らせる呪いのアイテムである。

おみやげというのは使い古された「つまらないもの」で良いのだ。

みやげ界でつまらないというのは「間違いがない」ということである。