漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「花見」である。

しかしご存じの通り、現在コロナウィルスの影響で、あらゆるイベントが中止になりつつある。

ウィルスへの不安はもちろん、楽しみにしていたイベントはなくなり、ネットを開けばマスクが3枚9,000円で売られており、全く医療関係ではない者たちが、中止になったセンバツの分まで俺たちが戦い抜く、と言わんばかりに偽コロナ医療情報を巡ってインターネット甲子園を13回裏まで繰り広げているという有様だ。

100歳以上の御老人なら、「こんな腐敗した世界に長くいてもしかたねえ」と悲観して、ゴッズチャイルドしてもおかしくない状況である。

こういう時強いのが、私のような、平素より全く家から出ず、楽しい予定が皆無の人間だ。予定がなければ中止によるダメージを受けることが一切ないのである。

唯一、自分が主催する側のイベントが全中止になるという「逆転の発想」的な出来事はあったが、私が参加者として楽しみにしているイベントは全くないため、何が中止されても影響を受けることがない。

さすがのコロナウィルスさんも、ない予定を潰すことは出来ないのだ。これだけに関しては「勝った」と言わざるを得ない。

日ごろから絶望しておくことにより、世界が絶望に包まれても「いつもとあまり変わらない」と感じることが出来る、というライフハックである。

当然だが「花見」の予定もない。むしろここ数年、桜が咲いたことにも気付いていない。下ばかり向いているので、アスファルトにへばりついた桜の花びらを見て「いつ咲いたかは知らないが、散ったらしい」ということにだけは気付く。

だが、万が一「花見」の予定があったとして、それがコロナの影響で中止となったら、不謹慎であるが「ラッキー」と思ってしまうだろう。さらに、会場を居酒屋や焼肉屋に変更と言われたら「確変がきた」と感じる。

言うまでもなく「花見」「BBQ」など、屋外で動物の死骸を焼いて食うような蛮族のリクリエーションは苦手である。動物の肉片や臓物は屋内で焼きたい派だ。

ただし、私が花見やBBQを嫌いなのは、アウトドアが嫌い、準備片付けが面倒くさいから、という理由だと思っていたが、最近それは違うと気付いた。

昔「1人BBQ」をやったことがある、と書いたことがあったが、その時は楽しかったし、楽しすぎて、次の日もやってしまったくらいだ。

つまり、外で動物の死骸を焼いたり食ったりするのは嫌いというわけではないのである。

何故「1人BBQ」が楽しめたかと言うと「1人だったから」の一言に尽きる。よって、花見も1人なら多分楽しいと思うのだ。

他人と死肉を食ったり花を見たりするのが嫌なわけではない。「BBQ」や「花見」には必ず「共同作業」が発生し、それが苦手なのである。

その場にBBQ提督や、花見神審者がいて、誰が何をやるか完全に指示を出してくれれば良いが、大体「その場の流れ」で買い出しや場所取りなどの役割分担がされる。

その「流れ」に必ずといっていいほど乗れず、気付いたらその場に棒立ちなのである。その時の所在のなさと言ったら「初日で孤立した高校入学日の教室」に匹敵する。

「何かやることはあるか」と周囲に聞けば良いのだが、それを聞ける勇気があるなら、1人で動物の死骸を焼いたりしない。

結局何もやることがない時間が出来てしまい、周りからは「サボっている奴」と思われるだけなのだ。

また仕事がないかと聞くことも出来ないが、人に仕事を頼むことも出来ない。よって「場所取り」と「買い出し」という、細胞分裂でもしなければ、両立不可能な仕事を抱え込んでしまい、どっちかが出来ず、周りに迷惑をかけてしまったりもする。

つまり、花見やBBQに参加するというのは、己の評価をガン下げしに行く、社会的自傷行為でしかないのだ。そして当然だが、楽しくもない。

その点1人なら、動物の死骸の前で、棒立ちし、他人には見えない桜を見ていても、誰にも迷惑をかけない。

「ソロ」と言うのは、全て自分でやらなければならない代わりに「社会性」「協調性」という、我々が子宮に置いて生まれてきてしまった道具が不必要なのである。

運動神経のない人間が体育を嫌いになるように、協調性のない人間が協調性が必要なことをさせられたら、それを嫌いになるに決まっている。

よって私はBBQや花見が嫌い、ということになってしまったのだ。

逆にそういうタイプは、嫌いと思いこんでいることも、1人でやってみれば、存外楽しめるということもある。

よって、今年は「1人花見」をやってみようかと思う。

ただ、桜が咲いたことに気付けるかが問題だ。

場合によっては予定を変更し「アスファルトにへばりついた桜を鑑賞する会(1人)」にするつもりである。