漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。

などと書いてある記事の掲載が1月27日ぐらいだったり、逆に12月27日だったりするのは良くある話だが、このコラムの掲載日は正真正銘1月1日である。

ネットというのは時節が関係ないように思えるが、GWや盆といった連休中はアクセスが減るものなのである。

特に元旦なんて1年で1番ネットが閑散とする日なのではないか、ちなみに12月24日はラブホが1番繁忙する日だ。

つまり、ただでさえ誰が読んでいるか全く不明なコラムを、そもそも人がいない日に更新するという暴挙である。

オフィスに自分以外いない時、せっかくだから全裸になってしまうように、禁止用語を連発してやろうかと思ったが、何故かそういうのだけは正月でも見つかって炎上する。

ともかく、元旦にこの記事の更新に気づいてあまつさえ読んでいる、という人間がいたら悔い改めた方が良い。

幸い今年はあと355日残っているから明日から頑張れ。

今回のテーマは「年賀状」だ。

今日すでに年賀状が届いているところも多いだろう。

私はというと、当然のように出さないので、来るのは見事に出版社や、1回行っただけの美容室ばかりだ。

美容室というのは何故かスタッフ全員の集合写真を年賀状に使いがちなので、新年早々精神に悪い。

また、漫画出版社というのは大体作家にイラストを描かせているので「今年もこの仕事来なかったな」と思うだけだ。

担当が個人的に私に「年賀状を出してえ」などと思うわけがないので、おそらく出版社は今でも担当作家に年賀状を送るのが義務になっているのだろう。

このように、年賀状というのは、ネットがどれだけ進化してもなくなることがない「因習」である。

私も年始のあいさつなどメールかLINE、いっそSNSで良いではないか、と思っていたが、年を取るとこの「年賀状」というシステムは侮れないと思いはじめた。

メールやLINEで新年のあいさつを交わす相手というのは、平素からそれなりに交流のある相手だろう。

逆に年賀状というのは疎遠になった相手との最期の命綱と言って良い。

若いころは、リアルに友人がいなくても、ネットで気の合う仲間さえいればやりすごせる。

だが、高齢になると、リアル人間関係が重要になってくるのだ。これがないと、死んでも気づかれなくなる。

ネットの繋がりでも孤独は癒やせる。

しかし、どれだけ長くつきあっていても「相手の性癖以外知らない」ということが多いので「最近あいつ見ないけど死んでるんじゃないか?」となっても、名前も住所も知らず「小学5年生の男子が好き」という情報しかないため、確かめようがないのである。

その点年賀状というのは、ばっちり本名と住所が書いてある。

これは個人情報云々が厳しい世の中においては稀有な文化だ。

どれだけ疎遠になっても、連絡先さえわかれば「久しぶりに会おうか」ということも可能なのである。

ネットで言えばFacebookあたりがそれに近い。

我々古のインターネット戦士からすれば「ネットに本名や出身地、所属を出すなんてとんでもない」と、ドラクエで貴重な相手を売ろうとする勇者を叱責する道具屋の顔になってしまうが、あれは労力をかけずに人間関係を維持したい人にとっては非常に有用なツールである。

逆になんで私はFacebookが全く続かなかったのかわかった気がする。

「学校を卒業してから友人たちと疎遠になった」というが、半分は「疎遠にならないようにする努力を怠った」せいである。

年賀状というのはその努力の一環だ。

Facebookが嫌いでツイッターで性癖しか知らない人とばかり絡み、年賀状を出さない。

絵に描いたような、リアルな人の縁を大事にせず死んでも気づかれない人の典型である。

そもそも友人というのは年を取った方が作りづらくなるのだ。

コミュ症は、いかに昔作った友人を死守していくかにかかっている、と言っても過言ではない。

しかし、今更連絡を取ろうにも、すでに連絡先がわからなくなっている。

1年に1回年賀状さえ出していれば、そんなこともないのだ。

ただの、面倒くさい古い因習のように見えるが、年賀状というのは、己の生存や所在地、現在の名前を年一で、さらに不自然なく知らせることができる、ある意味貴重なツールである。

続けている人は今後も続けた方が良いだろう。

数年前、私もたまには年賀状を出そうと、私のキャラクターが集合している気合いの入った年賀状イラストを描いたことがあったのだが、夫が用意した年賀状が、すでにコンビニに依頼した図柄入りだったため、頓挫した。

よもや私が「絵を描く」などとは思っていなかったようだ。

友人たちにも存在を忘れられつつあるが、同居している夫にも職業を忘れられつつある。

定期的に自分のことを他人に知らせるというのは非常に大事なことだ。