漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「読書」である。
めっきり読書をしなくなった。
何故かというと、言うまでもなく、ネットとスマホがあるからだ。
逆に言えば、ネットがない時代、友達と金がない田舎の中高生はマジで読書ぐらいしかすることがなかった。
あとはグレるぐらいしか選択肢がない。
つまり、田舎のイケてるグループ以外の学生は、ドンキに住むか、図書館に住むかの2択なのである。
その点で言えば、この世にネットというものがあって良かった。
ネットがなかったら、私は今頃、無職の引きこもりだっただろう。
つまり「大差なし」なのだが、もしかしたら「実家で無職の引きこもり」という今よりワングレード上の無職になっていたかもしれない。
今は読書もスマホでする人が多いかと思う。
確かに電子書籍は、場所を取らない、なくさない、劣化もせずどこでも読めるなど、利点が多い。
ちなみにこの利点は私が集めている「JPEGのイケメン」にも全て備わっている。まさに21世紀にふさわしいコレクションと言えるだろう。
かさばるイケメンの時代は終わりだ、と言いたいところだが、抱き枕のように「かさばりの美学」がある世界でもあるので、そこは「好みの分かれるところ」と言っておこう。
コンパクトな電子書籍にひきかえ、紙の本というのは、積み重ねて床に置くことにより、老親の骨折原因にすらなってしまう。
紙より電子が主流になってしまうのは自然の流れである。
しかし、スマホは目に悪く、さらに覚醒作用があるブルーライトを発しているので、休憩や入眠するための読書なら紙の本が良いという説もある。
よって私もできるだけ、読書は本でするように心がけながら、深夜2時までスマホで鬱映画のあらすじを読んだりしている。
そんな私の枕元に常備してある本はもちろん新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」である。
八甲田山の話がしたくて今置いたわけではない、本当にずっと置いているのだ。これが俺の抱き枕と言っても過言ではない。
むしろ私は今まで「八甲田山の話をしなさすぎた」と言っても良い。
だがこれは「今までしなかった」わけではない。過去2回ほど八甲田山についてのコラムを書いたのだが、両方大人の事情で掲載できなかったのである。
こんなことは前代未聞だ。
実写「デビルマン」の話は50回ぐらいしているが1度たりとも不掲載になったことはない。むしろ1回ぐらい止められても良いんじゃないかとすら思う。
まだお前は八甲田山を語るレベルに達していない、と言われてしまえばそこまでだが、登ろうとしなければ、いつまでたってもこの山は踏破できないのである。
そういう勢いで八甲田山に挑んだら200人ぐらい死んだ、というのが「八甲田山」の概要である。
一応、実際にあった事件を元にした話なのだが、あくまでフィクションの方のファンである。
どちらかというと、小説より、高倉健と北大路欣也が主演の映画版「八甲田山」の方が馴染み深いだろう。
そう言いたいところだが、八甲田山に馴染みが深い若人がいたら逆に不気味だし、実は私も八甲田山世代というわけではない。生まれる前の映画だ。
では、私がどこで八甲田山を知り、ここまでファンになったかというと、高校時代に友人に「プレゼン」されたからである。
世界広しと言えど、平成になって八甲田山をプレゼンするJKは他に存在しないと思う。
さらにそのプレゼンというのが「雪山で弟の遺体を発見した時の前田吟のモノマネ」だったのである。
こんな激シブのモノマネ、後にも先にも見たことがない。
しかし、それがあまりにも強烈に印象に残っていたため、「村にレンタルビデオ屋がない以前に家にデッキがねえオラだけど、大人になったら八甲田山さ観るだ」と強く心に誓ったのだ。
そこから実際八甲田山を観るまで10年ぐらいかかってしまったのだが、結果から言うと10年かけてでも観て良かった。
おそらく、そこで八甲田山の話を聞いていなければ、生まれる前の映画をわざわざ観ることはなかっただろう。10年残るプレゼンをしてくれた友人には感謝である。
「プレゼン力」というのは、自分の沼に仲間を引きずり込みたいオタクにとって不可欠なものである。
しかしプレゼンというのは、推しの良さみを、ただ早口でまくしたてれば良いというものではない。むしろそれだとウザがられる可能性の方が高い。
そうなると、推しているものまで悪印象になってしまう
真に優れたプレゼンというのは、「前田吟のモノマネ一発」で「それ絶対観るわ……」と思わせるのである。
プレゼンとは量より質、八甲田山の良さと同時にその友人から学んだことである。