漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
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今回のテーマは「サウナ」だ。
最近サウナブームの気配を感じる。
サウナを題材にした漫画も増えたし、ドラマ化もするらしい、ネットでもサウナのすばらしさを説く記事をよく目にする。
サウナと水風呂を交互に繰り返すことにより、自律神経が「整う」を越えて「キマる」らしい。しかも他のキマるものと違って「合法」である、もはや行かない理由がない。
私もサウナ漫画やサウナ記事を読んで、サウナへ行く機運が高まったのだが、私の家から一番近いサウナ施設まで、車で30分もかかるのだ。
これは、ひきこもり感覚だと「グリーンランド」ぐらいに位置する。
田舎と言ったら、昔ながらの銭湯が多く残っているイメージがあるかもしれないが、逆である。
何せ人口が少ないのである。都会より田舎のほうが遥かに「古き良き昔ながらの施設」は生き残れないのだ。
田舎と言っても家に風呂ぐらいはある。それよりも我々が必要としているのは「イオン」なのだ。
銭湯がなくても死なないが、イオンがないと餓死者はもちろん、居場所や人間と触れあえる場が皆無となるため、難民と認知症患者も増える。
つまりイオンがなくなると、田舎の民は死に絶え、世界は核の炎に包まれるのだ。
イオンを建てるのに忙しくて、とても昔の銭湯を残す余裕がない。近隣にあるのも全て「スーパー銭湯」である。
ぜひサウナ常習者になりたいところだが、通うには遠い。
よって行きたくてもなかなか行けなかったのだが、先日仕事で上野に泊まることがあり、せっかくなので銭湯に行ってみることにした。
私は、仕事でよく東京へ行くのだが「ついでに、あそこに行ってみよう」ということはあまりせず、大体空港かホテルでじっとしている。
何故なら私は「方向音痴」なのだ。
こう言うと、どうにもできない生まれつきの疾患のようだが、もちろん方向音痴野郎には方向音痴たる理由がある。
まず「方向」という概念がない。
地図を見て、現在地と目的地がわかっても、自分から見てどちらの方向に目的地があるかわからないので、進む方向も見当がつかないのだ。
実を言うと私は「左右」も怪しい。毎回「箸を持つポーズ」を取って確認している、両利きでなくて本当に良かった。
方向感覚のなさ、は生まれつきかもしれない。
だが方向感覚がなくても「こちらに平将門の首塚があって、ためらい傷がより深手なほうが右だから、こっちへ行けば良いのだな」と周囲と地図を丁寧に見比べれば、進む方向はわかるはずである。
しかし多くの方向音痴野郎が「とりあえず歩いてみよう」と、地図を理解する前に動いてしまうという「実践派」なのである。
そして、見切り発車は速いが、方向転換は遅い。
「これ間違ってね? 」と思っても、しばらくはそのまま進む。何故か逆方向に進んでいても「歩き続ければ着く」気がしてしまうのだ。
確かに地球は丸いので、歩き続ければスタート地点には戻れると思うが、目的地には永遠に着かない。
また、曲がる時も「早い」か「遅い」かの二択だ、曲がるべき道の一つ手前で曲がるか、一つ行きすぎてから曲がる、それに気づいても高確率で「引き返さない」
方向音痴野郎の多くがこの「引き返す」という機能を搭載していないのだ。
「とりあえずスタート地点に戻ってやり直す」という発想がないので、間違った道からさらに間違った道へと進んでいく。
このように方向音痴野郎は自ら退路を断ち、常に「背水の陣」で目的地に向かっているのだ。覚悟を持って迷っているのである。
そういう奴なので、極力外をうろつかないようにしていたのだが、最近はスマホのナビのおかげで随分マシになった。
「とりあえず動く」をやればナビにより「目的地から遠ざかっている」ということがわかるため、「今歩いている方向と逆に進めば目的地に着く」というコナンばりの推理ができるからだ。
その方法で上野でも銭湯を目指したのだが、結論から言うと、道中で思いっきりコケた。
中年以上の人にはわかってもらえるだろうが「大人になってコケるとダメージがでかい」。
傷の治りも遅いが、メンタル的にも大きなショックを受ける。私も東京という異国の地で茫然自失と化した。
傷は数か所にわたり結構深い、しかも明日も仕事だ。「絶望」と言っても過言ではない。
正直、銭湯どころではなくなった、引き返そうかとも思った。しかし、すぐに思い直した「こんな時こそサウナ」だと。
約1時間後、さっきの絶望が嘘のように、晴れやかな顔で銭湯から出てくる私の姿があった。
もちろん傷は治ってない、だが「キマって」いれば傷など痛くないのだ。
サウナは効く、違法になる前に行くことをお勧めする。