漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
→これまでのお話はこちら
今回のテーマは「第一印象」である。
「第一印象から決めていました」という、昭和の人間にしかわからない決め台詞があるように、ファーストインプレッションというのは人間関係においてとても大事なものである。
しかし私は今までこの第一印象に翻弄されて生きてきた。第一印象で決める、どころか、第一印象で強制的に決まってしまうのだ。
私は、再三自分のことを「無職」「コミュ症」と言ってきた。
「無職」に関しては自分では本当にそう思ってはいるが、このような仕事をしている以上「丘無職」「ファッション無職」「Fラン無職」「四天王最弱の無職」「無職界の面汚し」と言われても仕方ないと思っている。
しかし「コミュ症」に関しては本物なのだ。
他のコミュ症はどうか知らないが、私の場合「第一印象が岸辺露伴級に動かない」という特徴がある。
初対面の人間と会って「こっこわっ! 」と思ったら、その人が一生怖いのだ。
一度「怖い」と思ってしまったら、私はもう自分からは何も発言できないし、何か言われたら「はい(命ばかりはお助けを)」と答えるしかできなくなるのである。
しかも私は、基本的に人間を恐れており全員追いはぎだと思っているので、9割の人間を第一印象で「こ、こわっ! 」と思ってしまうのだ。
この時点で人類の90%とコミュニケートできないのである。
こうなると、コミュニケーションはもちろんだが、全然「はい」じゃないことにも「はい」と言ってしまうので後から非常に困ったことになる。
だからと言って後から「さっきの『はい』じゃなかったです」とは当然言えないので、困りが隠しきれないほどでかくなってから、周囲に露見するということを繰り返してきた。
当たり前だが、このような性格は仕事では非常に困るし、こういう人間がいると周りも困る。
困り、困らせ続けて十数年、私は必然の結果として無職となった。
無職になったことで、人様に迷惑をかけることは少なくなった気がするが、未だに社会と関わらなければいけない時はこれで困っている。おそらく一生困り続けることだろう。
この手のコミュ症の厄介なところは前述通り第一印象が覆らない、という点だ。
常人なら、第一印象でどう思おうが、接していく内に「この人はスキンヘッドにドクロのタトゥーを入れているから最初は驚いたが、話してみると良い人だ」と印象を変えていくことができるのだろう。
しかし私の場合、たとえ子犬を守るためにその人が目の前でトラックに轢かれて見せられても「スキンヘッドにドクロのタトゥーを入れた人が突然トラックに轢かれた、怖い」という印象のままなのだ
仮に第一印象のままの人だったとしても、普通なら「慣れる」のだと思うが、それもできない、むしろ恐怖が増幅されていく。
この「時間が解決しない、むしろ時間が経つほど人間関係が悪化する」のが、コミュ症と人見知りの違い、と言われている。
逆に、残り10%の人に対しては第一印象で「この人は何を言っても大丈夫! 」などと判断してしまっているため、無礼なことを言って気分を害してしまうことが多い。
つまり100%の人間とコミュニケーションが取れないのである。
しかし、第一印象というのは、自分が抱くものだけではなく、もちろん抱かれるものでもある。
この「他人から見た自分」については、極力考えないようにしている。
何せ自分が、他人に対してほとんど言いがかりみたいなことを考えているのだ、他人も同じように自分に思っていたら怖すぎる。
私は印象だけに限らず「他人が何を考えているか」は怖いのであまり考えないようにしている。
「相手の気持ちになって考えろ」とはよく言う。しかしドラマ『ハンニバル』の主人公は「殺人犯の気持ちに完全に同調できる」という特殊能力を持っていたが、その能力のせいで、みるみる病んでいった。
このように、人の気持ちがわかりすぎる人というのは「病む」のである。大体考えたところで我々はウィル・グレアムではないので、それが合っている保証はない。
一生懸命他人の気持ちを考えた結果、的外れな上に、病むというのは全損すぎる。まして「今自分がどう思われているか」を逐一考えていたら、怖くて人間となんか話せない。
しかし、この「人の自分に対する気持ちを考えない」を徹底すると、自分では自分のことを何の特徴もない地味な人間と思っていたのに、他人からは「連日大奇行祭(ソロ)」と思われていたという、見解の激しい乖離が起き、ますますコミュニケーションに支障をきたすことがある。
つまり、人の気持ちを考えようが考えまいが、コミュニケーションというのは破綻する。
どうせ破滅するなら自分の楽な道を選んだほうが良い。