漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
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今回のテーマは「財布」だ。
どうせジップロックでも使っているのだろうと思われてそうだが、私は当然「ジップロックの口ちゃんと閉めない病」に罹っているので、ジップロックを財布にしたら私の歩いた後に1円と5円が落ちている、という貧乏くさいヘンゼルとグレーテルになってしまう。
私の財布は「BVLGARI」である。もしかしたら「ブノレガソ」かもしれないが、一応BVLGARIの店舗で買ったはずのものである。
もちろん、私は平素からブランド物を買う人間ではない。
「辞書で『安物買いの銭失い』を引いたら俺の名前が書いてあった」でお馴染みの私である。典型的、少額買いの浪費家なので、さけるチーズは100本ぐらい衝動買いするが、叙々苑で飯は食えないのだ。
よって単品で数万円もするブランド物など当然買えないのだが、この財布を買ったのは新婚旅行でのハワイだ。
新婚旅行といえば、人間の知能指数を肉眼では見えないところまで下げることで有名である。しかし私がこの財布を買ったのはそれだけではない。
初日に、日本語が大体通じるのが売りのハワイにて「全く日本語が通じないレストラン」に来てしまったのだ。
当然メニューも全て英語である、それで最初の飲み物を適当に選んだら、4万円のドンペリが出てきてしまったのだ。
英語は読めなくても、値段はアラビア数字で書かれているだろう、と思われるかもしれないが、3以上はたくさん、と教育されてきた俺様だ。
初日で若干暗くなってしまった我々だが、逆に「この旅行で節約しても無意味」と腹をくくることができたような気がする。
よって、いつもは寄り付かないであろうブランドの免税ショップに「新婚旅行で来た、そして二度と来ない」という日本人観光客丸出しの顔で訪れ、その中で値段を度外視して一番気に入った物を買った。それが今使っているBVLGARI、もしくはブノレガソの財布である。
高いと言っても5万円程度だったと思うが、いつもの私からしたら破格の買い物である。しかし、この買い物に関しては珍しく、全く後悔していない。
この財布の一番良いところは「丈夫」ということである。
おそらくBVLGARIの魅力はそんな軍手みたいなところではないと思うが、本当に丈夫なのだ。
この財布はすでに8年は使っている。私が8年も物を使えば、大体のものは原材料に戻っているはずである、それがこのBVLGARIの財布は一向に牛とかに戻る気配がなく、財布のままな上、目立った破れ、ほつれ、剥げなども一切ないのである。
これはBVLGARIではなくNASAなのでは。
使っている年数を考えると、たとえ高価でも元は取れている。高い物にはそれだけの品質があるのだと教えてくれた一品である。
となると、100円ぐらいで美味いさけるチーズはすごい、ということだ。
これともう一つ、私には忘れ得ぬ財布がある。ボットン便所に落としたマジックテープ財布だ。
いきなり高低差による鼓膜破裂を免れない話をして申し訳ないが、事実だ。
その時、私は20歳。専門学校を卒業し、新卒として4月1日から会社に入社するはずだったのだが、「車の免許が取れてない」という理由で他の新卒より2週間遅れて入社することになった。
コミュ障にとって2週間遅れというのは40年ぐらい遅れて入ったに等しい、還暦の新卒が入ってきたようなものだ。
しかも、免許は取ったが車がまだなかったので、私は最初「30分に1本」がデフォルトの田舎で電車通勤をしていた。
その駅の便所がボットンだったのだ。
パーカーの前のポケットに財布を入れていたため、立ち上がった時に落下したのである。その時の絶望感は筆舌に尽くしがたい。
ボットン故に、財布自体はまだ見えているのである。しかし手を伸ばして届く距離でもないし、駅は当然無人駅だ。
そして、これから出社しなければいけない、ただでさえ2週間遅れているのに、さらに遅刻するわけにもいかない。
それに、ここで深追いし、便ツボに入って抜けなくなり遺体で発見される、というような昭和の怪事件を起こすわけにもいかない。
「諦めた」
そこにあるものを、頑張れば掴めるかもしれないものを諦めたのは、それが初めてだったかもしれない。
「好きだけど、既婚者だから諦める」
大人になったら、そういった心ではなく理屈の「諦め」の連続であり、それができるのが大人なのだ。
あの時の「ボットン便所に落ちたマジックテープ財布」はそういう物だったのである。
その一件以来、私は二度とそのボットン便所には行っていない、便ツボを覗いてまだ財布が見えたら諦めきれなくなるからだ。
「未練を断ち切りたかったらもう二度と会わない」
その財布はそれも教えてくれたが、残念ながらその教訓を再び使うシチュエーションは未だ訪れていない。