漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
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今回のテーマは「衣替え」だ。
無職、そして引きこもりというのは「季節が俺を置いていく」でおなじみである。
久々の外出で初めて季節が変わったことに気付くため、大体ワンシーズン遅れた服を着ており、常に暑いか寒いのである。
私も昨日久しぶりに外に出たのだが、当然「5月異例の猛暑」などという下界の出来事は知らないので「極めて冬寄りの春」な格好で出てしまい、全身の自傷跡を隠そうとしている人のようになってしまった。
こうやって人は心身共に「近所の変わり者」になっていくのだ。
当然タンスは冬物と春物だけなので、そろそろ衣替えをしなければいけない。
夏物の衣装ケースを見てみると、入っていたのは私の作品のキャラTシャツ6枚、自分の顔が描いてあるTシャツ1枚、そしてよそ行きのキンプリTシャツ1枚である。
これはオシャレ、もはや「着道楽」と言っても過言ではない。
このように、ちょっとしたパーティにでも誘われない限りは、夏は服に困らない。
実はGW(ガッデムウイーク)にアベンジャーズEG(エソドゲーム)を見るべく、生活の全てを担う俺たちのイオンに行ったので、ついでに衣服も購入した。
買ったのはパンツ、半袖の涼しいババシャツ、世の中の女を堕落させた七つの大罪・怠惰(アケーディア)の罪を持った「ブラトップ」など、けっこうな点数を購入してしまった。
それを見た夫は言った。
「外側は買わなくて良いのか」と。
良い質問だ。
服というのは、大まかに分けると、インナーとアウターに別れる。インナーは下着だ。
下着というのは、ほぼ自分のために着るものだと思う。着なければ法律に触れるので社会のために着ていると言えなくもないが、下着はつけていなくても、その上にトレンチコートなどをキッチリ着込み、それを広げることがなければ、法には触れない。
私など、無職の引きこもりなので、正直日中全裸でもかまわないのである。
しかし、それでも下着を着るというのは、他人の目など関係なく「着た方が心身共に整う」という、紛れもない自分自身のために着ているのである。
片や、アウターというのは、もちろん自分自身の楽しみや快適さのためもあるだろうが、半分は他人、そして社会のために着る物ではないだろうか。
下着はつけていないがトレンチコートをキッチリ着ている人と、下着はガーターまで身に着けているが、アウターは全く着ていない人、どちらが周囲に恐怖や不快感を与え、ともすればお縄の可能性があるかというと、断然後者であろう。
また、人が人を判断する時、見るのは主にインナーではなくアウターである、インナーを見ようとしたらお縄だ。
アウターを見て、この人はオシャレだ、ダサい、清潔感がある、ない、サブカルクソ野郎、など判断するのである。
パンツがワンショルダーブーメランでも、そこを評価してもらえることはないし、逆にアウターが洗いざらしの真っ白なシャツなら、パンツにウンコがついていても、不潔とは思われないのである。
冬になると、防寒の観点から、社会とは関係なくアウターの必要性が出てくるが、夏はいよいよそれがない。
つまり、アウターというのは、社会生活を円滑に過ごすための鎧である。社会に関わりがない、無職の引きこもりにとってその鎧はもはや「不必要」と言って良いモノなのである。
さらに、自分の顔が描いてあるものをはじめ、鎧が8個もある状態で、新しい鎧を買うというのはもはや、無駄遣いのレベルであろう。
一週間毎日違う鎧を着ても1個余る計算だ、それ以上持っていても手に余る。
引きこもりにとって、重要なのは常にインナーの方なのだ。よって私は、インナーは割と定期的に買い替えている。
しかし、片付けができない人間には「古い物を捨てられない」という習性がある。
普通、新しいパンツを3枚買ったなら、古いパンツは3枚勇退してもらった方が良いだろう。
だが何故か、新人が入って来たあとも古株が現役続行を表明するため、現在私のタンスは、新旧入り乱れたインナーだけでパンパンになるという現象が起こっている。
そしてこれだけ着る物があるのに、いざちょっとしたパーティに誘われると着て行くものがないのだ。
ドレスコードが「インナー」ならかなり自信があるのだが、未だそういうパーティには呼ばれたことがない。
私は大体小汚いが、中学生のような服装をしているが、それでいてパンツはけっこう新品だったりする。
私に会う時はアウターだけではなく、その点も評価していただければ幸いである。
「人は外見ではない、中身」これは本体だけではなく、服装にも言えることなのだ。
むしろ無職の引きこもりほど、新しいパンツを履いていると思って侮らない方がよい