漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
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今回のテーマは「リサイクル」である。
地球は我々に優しい。
まず、何にもしなくても酸素を出してくれているし、水もある。気温は最近「ついに殺しにかかってきた」という感じになってきたが、それも苦しんで死ぬ程度であり、即死というほどではない。
つまり、地球は人間が最低限生きられる環境をタダで提供してくれているのだ。
地球さんからしてみれば、全くそんなつもりはなかったのに、人間たちが「へえ、ちょっと狭いけど、イイ部屋じゃん? 」と勝手に住みつきはじめただけかもしれないが、それでも急に設定温度を上げたり下げたりして追い出さなかっただけ、優しい。
しかし、人間は何をトチくるったのか、そんな優しい地球の上に「社会」という厳しすぎなクソシステムを構築してしまった。
そのクソっぷりたるや、「働かないと死ぬ」を筆頭に、枚挙に暇がない。
人間が地球という素晴らしい土台の上にこのようなそびえ立つクソを建ててしまったせいで、「坊主憎けりゃ袈裟までファッキソ」の精神で、地球に対しても、憎むほどではないが、優しくする気がなくなってしまう。
よって、私は平素「地球に優しく」という発想があまりない。
住んでいる場所のことを顧みないというのは、自分ちに火をつけるようなものだが、まず自分の部屋がディストピアなため、地球というスケールのデカい所まで気を配る余裕がないのだ。
そもそも日本人は忙しすぎて、自分の健康にさえ気を配れない奴が多い、そんな人間が地球のことまで考えられるはずがないのだ。
地球に優しくしてほしかったら、まず社会が我々に優しくすべきなのである。
よって私は、地球環境保全の観点から積極的にリサイクルをしたり、リサイクル商品を買ったりはしていない、
ただ再生紙など、リサイクル商品に抵抗があるわけではなく「そんな元が何だったかもわからない物で俺様のケツが拭けるか」などとは思っていない。
しかし「中古品」は買わない。
人が使った物が嫌だ、というわけではない。何度も書いているが私は物が大切にできない人間である、本来100年使えるものでも私が使うと「人生50年……」という織田信長状態になってしまうのだ。
よって新品より寿命が短いであろう中古品を買ってもすぐ買い替えることになり、かえってコスパが悪いのだ。
だが、今でこそ新品しか買わないが、若いころは服などをリサイクルショップやヤフオクで買っていた。金がなかったのもあるが、理由はそれだけではない。
「古着」
個性派オシャレを目指した今は亡きKERAっ子とかなら、ピンと来たのち、羞恥で全身を掻き毟って死ぬ言葉である。
今も昔も何故かオシャレ上級者というのは、新品の高い服を着るのではなく、古着屋などで掘り出し物を見つけてコーディネートするものなのだ、という考えがあるのだ。
そもそも新品でも安価な服がいくらでも買える昨今である。わざわざ古着を買うのは1アイテム90円以下の時か、オシャレ目的以外ない。
実際、オシャレ上級者はそれでオシャレになっているのだろう。
逆に言えば下級兵が同じことをやると、俺たちのファッションセンターしまむらに行って「このボディが着ている奴一式くれ」と言ったほうがまだマシな風体になる。
当時の私は、古着屋で、誰が何を考えて作り、誰がどういうつもりで着ていたのかさっぱりわからない中古服を、全然安くない値段で買って着ていたりしたのである。
もちろん、古着屋にも、お宝はある。
だが、田舎のリサイクルショップに服を売りに来る人間など、イオンが全てを担っている田舎の人間である、デザイナーズブランドの掘り出し物など存在するはずがないのだ。
よって20代前後の私は、都会の古着屋というものに非常に憧れた。
それから約15年後、私は仕事で下北沢に来ていた。下北沢と言えば、古着屋が多く立ち並ぶ、まさに昔の私が憧れたオシャレ上級者の町である。
しかし、私はもう中年で、無地の明度と彩度が極めて低い服しか着ないようになっていた。求めているものというのは、いつだって求めている時には手に入らないのだ。
私は下北沢では何も買わず、羽田空港内のユニクロで、グレーのニットとヒートテックを買って帰った。