漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
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今回のテーマは「缶詰」だ。
おそらくこのテーマ、書くことがある人はすごくあると思うが、ない奴はまったくないと思う。
そういうデッドオアアライブはそろそろやめにしないとお前がダイすることになるぞ、と思うのだが、このコラムの担当は代々賭ケグルイなところがあるので、未だにそういうことをしてくる。
担当交代が多いのも、頻繁にロシアンルーレットに挑戦して死ぬからだろう。
ちなみに今回はデッドだ。完全に右こめかみから左こめかみの通気性が良くなっている、つまり書くことが特にない。
しかし、私にとって「缶詰」というのは、好きでも嫌いでもないというより、どちらかというと避けているもの、になるかもしれない。
何故かは、わかり切っていると思うが、缶を開けるのが面倒くさいからだ。
私ぐらいの面倒くさがりになると、動作が1工程増えるたびに寿命が1年減るのだ、つまり缶詰を使うことは命に関わる。
缶に限らず「開ける」という行為は何にでもあるだろう、貴様は盗んだ大根をそのままかじりだす15の夜なのか、と思われるかもしれないが、日本は秩序を重んじる国であり、こと「ゴミの分別」の関してはメロス級に敏感なのである。
よって、缶詰を使ったら、そのまま野放図に捨てるわけにはいかない。洗浄した後、乾かし、しかるべき日に捨てなければならない上に、缶が捨てられる日は限られている。
つまり缶詰を使うことにより、私の寿命は少なくとも5年は縮んでいるのだ、私に10個缶詰を開けさせたら、その日のうちに老衰で死ぬ。
だが、ここまで面倒くさがりのくせに、食事はほぼ自炊であり外食は滅多にしない。何故なら、外出が最も面倒だからだ。
このように日常というのは死の危険に満ち溢れている。できるだけ部屋から出ず、そして行動の工程は極力減らすべきだろう。
それでも「シーチキン」ぐらいは買うことがあるのだが、今まさに「開けるのが面倒くさい」という理由で半年放置されたシーチキンが冷蔵庫に安置されている。
缶詰の「どれだけ放置してもそうそう腐らない」という点は、「腐り手」の持ち主である私と親和性が高いのかもしれない。
一度「シーチキンとコンビーフのハイブリッドツナ缶」というのを物珍しさで買ってみたが、それを使ったところ、夫に「これは猫のエサかな」と言われたので、やはり慣れぬことはすべきではないと思ったし、おキャット様のお食事を人間如きに出すわけがないだろう。
しかし、最近の缶詰は進化しているようで、検索してみたら「缶詰女子」なるものもいるようだ。
しかし文化というのは「○○女子」が登場した時点で、終わりの始まりである。
もちろん、何かを嗜む女子が悪いわけではない、それを団子状にまとめて「今○○女子がアツい」とか言う奴が悪いのだ。
確かに、コンビニに行っても、小洒落た缶詰を見かけることは多いのだが、一度たりとも買ってみようと思ったことはない。
見た瞬間「開けるのが面倒くさい」という死の危険を感じるせいもあるが、どう見ても値段に対し量が少ない気がするのだ。
おそらく、缶詰女子はそのまま食べるのではなく、それを使って料理を1品作り出すのだろうが、私はどうせ料理しなきゃならないのなら、クックドゥとか「缶を開ける作業」がないものを選んでしまう。
単体で食べるとしたら、おかずというよりは、ツマミだろう、私は家で酒を飲まないので、ツマミはあまり必要ない、よってそれほど缶詰に用がないのである。
そんな私の得意料理は冷やっこである。それも、素材の味を楽しんでもらいたいので、薬味をのせることもあまりない。
冷やっこの良いところは、「腐ってない豆腐を使う」という最難関を突破できれば、あとは失敗することがなく、さらにそれで1品稼げてしまうところだ。
今まで夫に、飯の品数が少ないと言われたことはない。だが、できるだけ手間なく、たくさんおかずがあるように見せたいものである。
しかし、品数を増やすと当然、腐っている率も上がってしまう、冷やっこはリスク低めで品数を増やせる救世主なのだ。
刻みネギぐらいのせれば良いのにと思うかもしれないが、刻みネギほど「いつの間にか腐っているもの」はこの世に存在しない。
豆腐にも腐っている可能性があるのに、さらに高確率で腐っている刻みネギをのせるのは、いくらなんでもスリル狂すぎる。
それを考えると、少なくとも開けた瞬間は腐っていない缶詰はやはり私と相性が良いのかもしれない、ただそんな缶詰まで腐らせたら私もいよいよだな、という感じがする。