漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
→これまでのお話はこちら
今回のテーマは「エイプリルフール」である。
ここ数年、エイプリルフールには参加していない。いつもの平日ないし休日として、気づいたら終わっているという感じだった。
特に今年は無職なので、さらに輪郭がぼやけ、気づいたら4月5日ぐらいになっていると思う。イベントごとに無縁で時間の経ち方が雑すぎるのが無職の生活である。
しかし子どもの時は、欠かさず「自分の嘘のおもしろさに堪えきれずに笑いながら嘘をつく」という、嘘そのものよりもその態度が寒すぎる嘘を親相手についていた気がするし、リアルで嘘をつく相手が1人もいなくなった後も、自分のHPやツイッターなどで割と最近まで何かしら嘘をついていたような気がする。
それがどうして「もうエイプリルフールに乗る必要ないな」となってしまったかというと、エイプリルフールのハードルが上がりすぎたからだ。
何故なら、だいぶ前からエイプリルフールというのは、大企業様がこの日のために予算を組んで作った、嘘という名の手のこんだジョークサイトを見て感心したり、いつもはお堅い機関がエイプリルフールに乗ったりしているのを見て「へえ、お前そういうところもあるんだ? おもしろいじゃねーの? 」と、夢小説状態に陥る日になりつつあるからだ。
誰が号令をかけるわけではなくみんなで「バルス」とつぶやいてサーバーを爆発させるのはおもしろかったが、公式がそれをやりだすと「そういうのじゃないんだよね」と参加しなくなる、謎のインディーズ思考である。
また、そのような風潮からエイプリルフールは、単純な嘘ではなく、人を笑わせたり、感心させたりする嘘をつく日というイメージになりつつあり、「5万円課金したところを1万円と言う」みたいなおもしろくもなんともない上にエイプリルフール以外でもついている嘘を言う日ではなくなってきている。
オチのない嘘でもつこうものなら「それで? 」と追及されそうで怖い。
しかし、そんな小粋な嘘はなかなか思いつかないし、企業のような手間のかかった嘘もつけない、無職なので時間はあるが金はないのだ。
それを考えると、エイプリルフールに嘘をつくのが正直、面倒くさくなってくる。
それよりは、大きな組織が満を持して繰り出てくるエイプリルフールネタを鑑賞するほうがラクだし楽しい。
細々と親しまれてきた「乳首相撲」がプロリーグ化され、資本を投じられたプロ乳首相撲選手が続々出てきたら、アマチュアとしてはそのプロ選手と戦うより、プロの試合を観戦したほうがいいやとなってしまうのだ。
つまり、勝手にエイプリルフールに敷居の高さを感じてしまったため、自分では嘘をつかなくなったという感じだ、
多分今でも、他愛のない嘘をついて楽しんでいる人はいると思うし、それが正しい。
誰も自分に企業級の秀逸な嘘を求めているわけないのはわかっているのだが、かけられてもいない期待に押しつぶされるのが、自意識過剰な人間という奴なのだ。
それに、許されている日といえども嘘は嘘なので、エイプリルフールは炎上の温床とも言える。
おそらく今年も「ついて良い嘘と悪い嘘があるだろう」という観点から、火の手が上がることが予想される。
ビッグウエーブに乗るのは良いことだが、ネット上のビッグウエーブは、そのまま火炎大車輪に突入したりするので注意が必要だ。
結局、最近の祭ごとは「見るだけの阿呆が一番賢い」という大きな矛盾が起こっている気がする。
しかし、絶対燃えない嘘をつけと言われたら、午前中に「大嫌い」と言ったのち午後に「大好きだよ」という、地球温暖化を瞬時に食い止められるような嘘しかつけなくなる。
だが、そういう嘘ですら午前中のうちに跡形もなく燃えてしまい、午後がやってこない、ということもある。
炎上というのは「前後を読まず一部切り取り」によって起こるケースがかなりあり、怒っている人ほど文脈を読まないので「最初に不謹慎なことを言い、後で良い話にして落とす」といった手法が使えず、ツイッターなら140字で全て決着させないといけないという厳しい世界なのだ。
そういう世界で、しかも「嘘」という題材でウケを取るのは難易度が高い、やはりエイプリルフールは傍観が一番なイベントのように思える。
しかし傍観者としても、エイプリルフールにもし「これは? 」と思うものがあっても、すぐに騒ぐのではなく、せめて前後や経緯を知ってから騒いだほうが良い。
踊る阿呆も見る阿呆も、状況を理解してから阿呆になることが大事だ