漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
→これまでのお話はこちら
今回のテーマは「独り言」である。
無職になって以来、1日のうち23時間30分は1人で過ごすようになり、そのうち68時間はツイッターをやっている。
このように、時空のねじれの中に1人でいることが大半なのだが、意外と独り言は言わないほうである。
だが、1人でいるということは、圧倒的に「いらんことを考える時間がある」ということでもある。
よって「あれはまだワシが左腕に『封印されしヤツ』を宿していた頃……」という黒歴史が突然あの夏の海から甦ってきたりする。
そんな時はさすがの私も「……コロシテ……コロシテ……」と声を出さざるを得ない
もしくは、己との朝まで生討論が白熱しすぎて、「社会を憂う」的な意識の高いことを考えてしまったあとに、バランスをとるため「ウンコ……ウンコ……」とつぶやいたりもする。
このように、ビックリしたおキャット様が毛繕いをするように、独り言というのは人の精神を落ち着かせるために必要なことなのである。
だが、これ以外ではあまり独り言を口にすることはない。
これは「無職のひきこもりでも、まだ1人でブツブツ言ったりはしてませんよ」という、エクスキューズではない、むしろもっと、自分のケツぐらいブツブツしたほうが良いと思っている。
「独り言」というのは「年を取って独り言が増えた」など、「ヤバさの前兆」のように言われがちだが、そんなことはないと思う。
むしろ、独り言を言うひきこもりと言わないひきこもりなら、絶対言わないほうが脳が衰えている。
何事も使わなければ忘れる、つまり独り言を言うことで、日本語忘れを防ぐことができるのである。
現に、あまり独り言を言わない引きこもりの私は、たまに他人と話すと「果たして私の言語はちゃんと通じているのか」と不安になる。
独り言さえ多ければ「これ、独り言で言った奴だ! 」という進研ゼミ状態になって、滑らかに話せるはずだ。
この「いかに自分と話せるか」は、現代の高齢化社会において必要なことだと思う。
先日『非リア王』という本を刊行した。
その内容は、非リア充が現代の勝ち組である、ということを理論的に書き切っていれば良いな、と切に願っている感じなのだが、そう思っているのは本当だ。
もちろんリア充的な生き方を否定するつもりはない、友達が多いのもBBQやパーティーが楽しいのも何よりだ。
ただコスパ面で見ると「精神的満足に他人の存在が必要」というのは、脳内で全部完結できる奴よりは劣るのである。
ミドリムシみたいに太陽の光と妄想だけで脳にセロトニンを作り出せる非リア充のほうが遥かに手っ取り早く、安上がりなのだ。
寿命が延び、最終的に1人になる可能性が高い現代だからこそ、「孤独耐性」は若いころから鍛えておいたほうが良い。
元々、人は孤独に弱く、年を取るとさらに弱くなるようだ。ただ人と話したいという理由でクレーム電話をかけたり、証券会社の営業に会って毎回新しい金融商品を買ったりする老人が一定数いるというから、本当に孤独というのは恐ろしいものである。
だがこの「誰かと話したいな」と思った時、それが「独り言」で済ませられたら最高ではないだろうか。
孤独を癒すために無駄な物を買ったり、ましてクレーム電話をかけたりするなどして、金や品性を失うのに比べれば、独り言というものは、何も失わず、誰も傷つけていない、寂しいどころかもはや「上品」と言って良い行為だろう。
そんなことで孤独がどうにかできるわけないだろう、と思われるかもしれないが、意外とどうにかなるのだ。
最近、1人で飯を食べることが原因で食欲が落ちたりうつになったりする「孤食」が問題になっているという
一緒に食べてくれる家族や友人がいない人でも、話を聞いてくれる人がいるキャバクラなどで飯を食うなど、解決法はあるが、それこそコスパが悪い。
それより、推奨されているのが「鏡で自分のツラを見ながら飯を食う」ことである。
この方法は実際「効果あり」という調査結果も出ているそうだ、意外と我々の脳も心も単純なのである。
しかし、昔は多くの仲間に囲まれていた、という人間はなかなかこの方法を試すことができないと思う。
その点、我々は若いころからネットサーフィンなどで画面越しに誰かのツラを見ながら飯を食うことに慣れているし、オタクともなれば、外食でさえぬいぐるみと一緒に食べるのも文字通り朝飯前だ。
人は1人では生きられないし、肉体的にはいつか誰かの世話になる日が来るだろう。
しかし、精神的には「できるだけ1人で大丈夫」なようにしておきたい。