今回のテーマは「運動会」である。
この俺様に運動会の思い出などがあると思ったのか、見くびられたものである。
言っておくが、私は運動が極端に出来ないわけではない。単純に走るとかなら普通、技術を要するものになると中の下、チームプレイになるといない方がマシという、どこにでもいるドッヂボールの場外要員だ。
だが、運動会などの学校行事で一番思い出がないのはこういうタイプである。スポーツが出来れば当然脚光を浴びるので思い出があるし、全く出来なかったら運動会のたびに腹を壊したり、バックれるために逆にダイハード並のアクションをしていたりするので記憶に残るのだ。
それが出来るわけではないが出来ないわけでもないとなると、徒競走では3位か4位、組体操ではピラミッドの中段、騎馬戦では騎馬の右か左など、思い出に残りようがないポジションばかり粛々とこなしているため、記憶に残りようがない。あったとしてもフォークダンスとかの時男子に手ではなく小指のみ握られたとか、握っているように見せかけて1センチ空間をあけられたとかのハートフルメモリーしかない。
自分自身に運動会の思い出がないため、さらに家族との思い出になると、いよいよ皆無になってくる。普通に両親とババア殿が弁当を持ってきて、普通に何の活躍もしない娘を見て帰っていたと思う。
だが唯一記憶に残っている運動会がある。それは小学二年生か三年生の時、記憶に残っていると言いながら定かではないが、どちらにしても坊主頭にランニングシャツで自我が昆虫レベルだったころだ。
その年の運動会の前日にとてつもない台風が来たのだ。わが故郷は、地味すぎて災害にまでシカトされることで有名だが、その時ばかりはすごかった。どのぐらいすごかったかと言うと、学校の二宮金次郎像の首と体育館の屋根が飛んだ。
もちろん学校だけでなく町全体の被害は大きく、商業施設含めのきなみ停電、軽い壊滅状態であった。
だが運動会は開催されたのだ。
確かに台風は過ぎ去った後であり、雨等は降っていなかったので雨天中止の原則には当てはまらないが、爪痕でかすぎな状態である。二宮金次郎の首の有無は関係ないかもしれないが、体育館の屋根というのは運動会において重要なファクターな気がする。
災害復興にポジティブマインドは不可欠だが、それにしても切り替えが早すぎるというか「それどころじゃないのでは」と誰か言わなかったのであろうか。
今の世の中なら、自粛厨が憤死するような話だが、何せ20年以上も前の田舎町のことである「死人さえ出てなければ自粛する必要はない」ぐらいの感覚だったのだろう。それか、台風の後片付けをした後に改めて運動会とかダルすぎるので、メチャクチャな内にやってしまおうと思ったのかもしれない。
ともかく運動会は開催されたのだが、何せ町は壊滅状態で二宮金次郎の首はない。個人宅はもちろんスーパーさえ停電しているため「弁当は質素に」にという自粛令が下ったのである。エレクトリカルパレードは断固やるけど、電球のワット数は落としたよ、みたいな話だが、本当にそういう伝達があったのだ
うちの親は運動会の弁当は結構ちゃんと作っていた方である。二段ぐらいのランチボックスにいなり寿司や海苔巻き、結構手の込んだおかずが入っていた記憶がある。しかし、その時の弁当ばかりは「からあげさえあれば文句はねえだろ」という代物だった。とにかく、からあげがあったことしか記憶にない。実際他には何もなかったのかもしれない。
子供というのは、結構災害や停電が好きなもので、今でこそ停電になると「エゴサができねえだろ」と、非常用電源を冷蔵庫ではなくスマホの充電に使うほどだが、その当時はいつもと違う状況に逆にテンションが上がっていたと思う。しかし親としては多分運動会より、家の周りの片付けとかしたかったと思う。それを押してのからあげであったのだ。
それから20年余り、今度は自分が弁当を作る側になったが、いなり寿司や海苔巻きなど作ったことがないし、からあげすら冷凍食品だ。
あのとき「災害時ゆえに自粛された運動会の弁当」という前世紀最大に矛盾したものを見たわけだが、あのときのからあげは多分冷凍食品ではなかった。それを思うと私が毎日夫に持たせる弁当は、日本沈没クラスに自粛されたものである。
<作者プロフィール>
カレー沢薫
漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全三巻発売中。