今回のテーマは「制服」である。
私が先日まで勤めていた会社には制服があり、9年間ぐらいそれを着続けていたのだが、退職した瞬間にそれは全く無用の物となった。素材的に、中学校のジャージのように「部屋着にする」にも適さなかったため、その制服は会社を辞めた瞬間捨てた。
「あの娘ぼくが制服をゴミ箱にダンクシュート決めたの見て完全に引いてた」という曲を岡村さんに作ってほしいほどの爽快感だった。
しかし私は制服を捨てた瞬間、冗談ではなく「着る服がなくなった」ので、この夏はずっと己のキャラクターグッズTシャツのサンプルと、もらったキンプリのTシャツを着ていた、外に出る時はキンプリだ。
実は、今も自分のキャラTシャツを着ている、さすがにTシャツだけではもう寒いので、ババシャツの上からTシャツを着るという「あえてババシャツを見せる」玄人の着こなしをしている。
ファッションに対する姿勢がこんな感じなので、制服というシステムには「命を救われた」と言っても過言ではない。社会人になってからはもちろん、学生時代から救われ続けている。
不平等感を出さないために制服があると言う人もいるが、実はそんなことはない。
思い出してほしい、我々とイケているグループの奴、同じ制服を着ているはずなのに「歴然とした差」があっただろう、何の差かはわからないが、とにかく差があった、服というのは誰が着るかで同じ服ではなくなってしまうのだ。
しかし、「制服じゃなかったらもっと差がついた」のも確かだ。
学校という、容姿、コミュ力、学力、運動神経などの全てが比べられる場において、「ファッションセンス」まで問われるというのは酷過ぎる。
高校生ぐらいだと、まだ余裕で「お母さんが買ってきた服を着ている勢」もいるのだから、その差はとてつもないことになっただろう。
センスの差もあるが、当然、貧富の差もある。
制服の時はわかりづらかったことが、私服になることにより明るみに出てしまうこともあるのだ。また、そこが「マウンティングの場」になってしまうことも大いにあり得る。
親マウンティングゴリラ同士がマウントを取り合うのは仕方がないが、子ゴリラがそこに巻き込まれるのは可哀想なことだ。
つまり、いらぬ「学校に行きたくなくなる理由」を作らないために、「制服」というのは実に有用なシステムだ。
しかし、そのシステムに甘んじ過ぎたため、高校卒業後に突然私服で専門学校へ通うことになった私は、のちに担任教師から「これは要注意な生徒だと思った」と述懐されるようなスタイルで数か月を過ごすことになる。
その点、制服というのは何も考えなくてもとりあえず「標準的な格好」になれるのだから素晴らしい。
社会人になってからも、当然この制服には助けられた。
なぜなら、制服があると「毎日同じ格好」で良いのだ。社会人になって「昨日と同じ服を着ている」と、不潔か朝帰りと思われてしまう。
後者はある意味名誉だが、前者は致命的である、何が目的だろうと「ファッションはまず清潔感」だと古代エジプトの壁画にも描かれている。
だが制服は、毎日同じ服でも何も言われない、むしろ違う服を着てきたほうが何か言われる。
さらに、「そんなに洗わなくていい」という暗黙のルールが唯一まかり通っていると言っていい衣服だ。
シャツなどは別として、学ランやセーラー服などは1シーズンに1回洗うぐらいだっただろう、会社の制服も似たようなものだ。よって臭いとかはしなくても「よく見たら細かく汚ねえ」のが制服の特徴だが、「みんな汚ねえ」ので大丈夫なのだ。
そして何より経済的に助かる。
私は当時、手取り12万円のOLだった。そう言うと「安すぎる」や「いや地方の事務員なんてそんなものだ」など色々な声が上がるが、今は交通費込の0円なのでどちらにしても今よりマシである。
そんなOLが少なくとも週5日、不潔や朝帰りと思われない服を自腹で揃えるというのは相当な負担である。
できるだけ少ない駒で朝帰りに見えないようにしていくしかない、何故女性誌に毎回「着回し30日コーデ」があるかわかってもらえるだろう。
ただ、大体の着回しコーデに紹介されている服を揃えると、12万円以上かかる。
その点、制服があれば自分で揃えるのはパンツぐらいでいいし、制服代も会社負担な場合が多い。
つまり、オシャレに興味がない薄給OLにとって、制服か否かは死活問題であり、「ハンデ」と言ってもいい。
会社員時代に制服で本当に良かったと思っているが、仮に私服だったらもっと早く社会からはじかれて無職になれていたかもしれない。