今回のテーマは「ひまわり」である。夏といえばひまわり、というイメージだが、最後にひまわりを見たのがいつだったか覚えていない。
ひまわりというのは、あまり野良では存在しない、誰かが意志を持って植えない限りは勝手に耳とかから生えてこない。
また、ひまわりというのは、意外とダイナミズムのある花だ、雑誌で見ると華奢だが近くで見るとデカいモデルみたいなものだ。
しかし、スケールが大きい割には、薔薇のように1本では絵にならない、群生して初めてインスタ映えするという、大所帯アイドルみたいな花なのである。
よって、個人の庭でひまわりを育てている人はあまりいない、ひまわりというのは、地域ぐるみで「ここをひまわり畑にしてやろう」と企まれた土地か、学校などの施設でしかあまりお目にかからないものである。
つまり、社会との接点が「玉結び2個」ぐらいしかない私は、当然ひまわりを目にする機会がない。
それに、ひまわりと接点があった時も、花より枯れた後の種の方が好きだった気がする、ひまわりの種は、あの中央部にびっしりと生えるので、蓮コラとかがダメな人から見るとグロいと感じるかもしれない。
また、朝顔もやはり花より種だ、朝顔の種は、まだ茶色に熟しきっていない緑の状態で先端の棒状になっている部分を折ると、ボンドのような白い液体が出る。
だからどうした、と言われると「ボンドのような白い液体が出る」と、もう一回言うしかないが、四半世紀経った今でもそれを鮮明に覚えているのだから、当時の私は白い液体出しまくりだったのだろう。
私が猟奇殺人鬼になったら「幼少のころから奇異な行動を取っていた」という例でこのエピソードが出てきたと思う。
幸いまだ事件は起こしてないが「誰も理解できない遊びを一人で面白がる」という性質は死ぬまで治らないし、未来永劫友達が少ない、ということだけは覚えておいたら良いと思う。
ところで、今は知らないが、小学生の時、授業で「植物を育てる」というのがあったと思う。朝顔や水栽培など、1人1人鉢を与えられて育てるのだ。
突然だが、あれは止めた方がいいと思う。
運動会やテストの点で子どもに順位をつけるのよりも遥かに私は植物を育てさせることに反対である。
むしろ、運動や勉強で他者に差をつけられないと、自分に何の能力があるのか、ないのかわからないまま社会に出ることになってしまう。
順番をつけられる上に、出来不出来が一目瞭然な体育の授業がきっかけで運動が嫌いになった、という人も多くいると言うが、逆に言えば「運動が嫌いだと知る絶好のチャンス」とも言える。
自分の地雷は一刻も早く見つけた方が良い、そうすれば全力をあげてそれを避けることが出来る、学生時代には無理かもしれないが、大人になればそれが出来る。
人生は短いのだから、1秒でも多く、嫌いなものは避け、その時間をYouTube鑑賞とかに使った方が良い。
だが、植物を育てるのだけは違う。
あんなもの、ランダムで配られた種を、みんな同じ土で育てるのだから、差がつきようがないように思える。
しかし、起きるんだな「俺だけ芽が出ない」という現象が。
子どもだってバカではないので、自分は運動が出来ないとか、勉強が出来ないというのは早々に理解し、納得したり、諦めたりするものである。
徒競走でビリとか、テストで3点(名前が書けたから)というのはもう自分で予想がついているから良い。だが「同じ種で自分だけ芽が出ない」というのは、どうにも納得できない、運動や勉強で最下位をとるのとは比較にならない、焦りと劣等感を感じる。
水をやらなかったとか、私の夫のように水の代わりに日本酒をぶちまけたというなら仕方がないし「植物を育てるのに向いていない」という適性がわかって良いが、ちゃんと世話していて、なおかつ芽が出なかったとしたら、もはや種を配られる段階で、そいつが死んでいたとしか思えない、つまり「運」だ。
実際、世の中「運」が大きく物を言うし、どれだけ頑張っても成果が出ない時がある、しかし、そんなものはイチイチ教えられなくても、生きていれば嫌ほど学ぶ、しかも植物を育てさせるのはそんな「運による理不尽」を学ばせるためではないだろう。
私は、小学生の時、豆腐のカラ容器に脱脂綿を敷いてそこに豆を置き、芽を出させる授業で、自分だけ芽が出なかったことを今でも鮮明に覚えているし、「私は何をやってもこんな感じだな」と思ったことも覚えている。
そこで「自分はこんな感じだ」と諦めがつけば良いが、未だに「なんで私は何をやってもこんな感じなのか」と納得がいっていない。
よって、何も子どもの成長の役に立っていない。「どうしようもない謎の劣等感」が残るだけだ。