企業などが従業員に支払う給与は、法律上は現金によることと指定されています。しかしそれだけでは不便なので、銀行口座や証券口座への振込も認められています。この4月1日から、この給与支払先として、PayPayや楽天ペイといった、いわゆるPay事業者が追加されました。
一般的に「デジタル給与払い」と呼ばれる仕組みで、これが4月1日に「解禁」されたとよく言われています。しかし解禁といっても、いきなり給与がデジタルで支払われるわけではありません。実際にデジタル給与払いが始まるのはいつになるのでしょうか。
デジタル給与解禁でどうする?
デジタル給与払いは、Pay事業者のような決済サービス事業者が給与支払先となり、従業員は自分の決済サービスアプリにおける残高などの形で給与を受け取るというもの。例えば毎月の給料20万円がPayPay残高として振り込まれ、そのままPayPayで決済などが行えるようになります。
メリットとしては、いつも使う決済サービスの残高が常に一定に保たれて、いちいちチャージをしなくても残高不足に悩まされることがなくなる点や、決済サービス経由で資産運用や保険などを利用している場合にチャージが不要になる点などがあります。
パンフレットを見る限り、給与を受け取る側にとって決して大きなメリットとは言えないような印象もあります。ただ、決済サービス事業者にとってはチャンスとなりうるため、特典などが用意されるようであれば一定のメリットにはなるかもしれません。また、銀行よりは決済サービスの方が手軽に個人間送金ができるため、親子間や友人間などの送金がより一般化する可能性もあります。
大前提として、雇用者側が勝手にデジタル給与払いを指定することはできません。必ず労使交渉が必要で、選択肢も「現金」「銀行(証券)口座(以下、口座)」「決済サービス」の3択または「口座」「決済サービス」の2択しか認められていません。また、ポイントや仮想通貨での給与支払いも不可です。
労使交渉で決定するので、よほどの会社でない限りは決済サービスでの支払いを強制(事実上の強制を含め)されることはないでしょう。支払先に設定できる決済サービスも、厚労省の審査をパスした指定事業者のみです。
逆に、デジタル給与払いにしたいという労働者がいても、雇用者が対応してくれないと利用できません。Payment Technologyの「給与DXエニペイ」のように、デジタル給与払いに合わせて「給与口座振り分けシステム」を開発した企業もあります。雇用者側が手軽に複数の振込先を指定して、労働者側の要望に応じた振込先に振り込めるというもので、こうしたサービスがあれば労使双方が納得できるかもしれません。
給与全額残高へチャージするのでも、一部だけをチャージするのでもできますが、エニペイのような仕組みがあるか、決済サービス側が全銀フォーマットなどで対応してくれないと、雇用者側も手間がかかるかもしれません。ただ、雇用者側の給与振込手数料が下がる可能性もあって、決済サービス事業者と銀行の競争も生まれるかもしれません。
なお、当初は銀行口座の作成が難しい外国人労働者などを想定していたデジタル給与払いですが、今回の仕組みは「労働者の銀行口座または証券口座が必須」です。たとえ決済サービスを選択しても、後述する払出口座を設定しなければならず、払出先の口座も、銀行であれば銀行法に基づく銀行に限られていて、外国の銀行は認められていません。結果として「日本で銀行口座作成が難しい人」は、そもそも対象から外れてしまいました。
デジタル給与払いはいつから?
では、実際にデジタル給与払いの利用はいつから始まるのでしょうか。4月1日から「解禁」とされていますが、それはあくまで4月1日から決済サービス事業者の申請受け付けを、所管する厚生労働省が開始する、というだけです。指定事業者になるには厚労省の審査をクリアしなければなりません。
その審査を受けるためにはサービス内容を確定をしなければならず、システムやUI/UXなどの開発、規約の改定など、様々な対応が必要です。厚労省のガイドライン(資金移動業者の口座への賃金支払に関する資金移動業者向けガイドライン)が出たのは3月8日になってからで、さすがに1カ月での開発は難しいところですが、昨年9月からデジタル給与払い解禁の方向性は出ていたため、それを踏まえて開発・準備を進めてきたところは早くに申請ができるでしょう。
申請だけであれば、その時点で開発を完了している必要はなく、審査後に改めて審査通りのサービスか確認したうえでクリアになるとされているので、その点も踏まえて早期に申請を出す事業者は出てきそうです。
本稿執筆の時点で、PayPayは4月1日に厚労省に対して申請を送信。楽天(楽天ペイ)やリクルート(COIN+)は4月3日に申請。auは「4月中に申請を予定」としています。ドコモ(d払い)も参入の方向性で、各社一斉に動き出しました。
とはいえ、厚労省の審査には数カ月かかるというのが現状。厚労省も初めての制度でどの程度の期間が審査に必要か分からないとしており、業界では早くても夏から秋にかけてのスタートというのが一致した見解です。審査完了後には労使の合意も必要なので、実際のスタートは秋ごろになるのではないでしょうか。
Pay事業者の対応
そんな決済サービス事業者の申請ですが、3月8日のガイドラインで、厚労省はデジタル給与払いに参入する事業者に対して様々な対応を求めています。以下、その内容を示してみます。
(1)6営業日以内に給与を全額返金できる資金保全
もともと、決済サービス事業者は資金移動業者という認可を受けており、資産保全が義務づけられています。破綻に備えるためですが、払い戻しまでの期間が半年ほどかかるため、厚労省ではさらに追加の資産保証を求めています。そのため、破綻時に「6営業日」以内に給与を労働者に返金できなければなりません。
銀行とは異なるとは言え、銀行並みの安全性が求められているので、給与の保全という意味では心配ないでしょう。
(2)100万円以上も受け入れて当日中に払出
デジタル給与払いでは資金移動業者のうちの第2種の事業者が対象。第2種資金移動業者は、残高として100万円までしか保持が認められていないため、給与支払いが数カ月続くと残高が100万円をオーバーしてしまう可能性があります。
そのため、100万円を超えた場合はその日のうちに超過分をユーザーの口座に出金する必要があります。ただ、オーバーするからといって給与を受け取れないと困るので、決済サービス事業者は、給与支払いの段階では100万円以上を受け入れなければならず、その上で「当日中に」口座に払い出さなければなりません。
ちなみに、その払出時の手数料を徴収することは、それが明示・周知されていれば認められています。
(3)不正取引時の補償
決済サービス事業者は、不正利用時にユーザーの過失がない場合は速やかに補償に応じることが求められています(資金移動サービスの不正利用防止に関するガイドライン)。これを踏襲し、デジタル給与払いでも「労働者に過失がない場合には、その損失額全額を補償する」ことが必要となっています。
決済サービスの不正利用を心配する声は根強いのですが、それが労働者に責のない悪用だった場合、基本的には全額補償されるので心配はいらないでしょう。
(4)10年間の口座維持
ユーザーがその決済サービスを使わず、給与も入金されなかったとしても、最後の利用から少なくとも10年間は口座を維持・保全しておく必要があります。「特段の事情」があれば10年間でなくてもいいのですが、その例としては「警察からの要請により口座の凍結等が行われる場合や労働者が虚偽の情報を指定資金移動業者に登録していた場合」といったように少し特殊なケースが挙げられています。
サービスが継続する限りは、一度設定すれば、最低10年間は給与を保管しておくことができるというのが原則です。
ただ、事前に告知をした上でデジタル給与払いの指定事業者を辞退すれば、サービスを停止するなどした場合に10年を待たずに返金は可能。この場合、利用規約であらかじめその旨を記載する必要はあるそうです。
(5)ATMなどで1円単位の出金ができる
1円以上1円単位で出金できなければなりません。ATMやCD(現金自動支払機)を使うか、指定口座への払出など、とにかく「1円単位で現金化」できなければなりません。
決済サービス事業者の場合、ATM出金に対応したサービスもありますが、コンビニATMなどは硬貨の出金が非対応。ただし、1つでも対応する仕組みがあればいいので、決済サービス事業者は銀行口座への払出という形で対応することになりそうです。
なお、ガイドラインでは「1日の払出上限額を設定することは差し支えない」とされていますが、この上限額より高額な給与を受け付けてはいけないことになっています。つまり、1日の払出上限が10万円の決済サービスに、給与20万円は設定できないようです(10万円の給与ならOK)。決済サービスに入金された給与は、必ず1日で全額払い出しできることが必要なためです。
(6)払出手数料は1回無料
少なくとも「毎月1回」は、口座に対して払出が無料で行えなければなりません。(1)の100万円以下にするための払出も1回に数えます。給与の払出はもとより、給与が振り込まれていない月であっても、そのユーザーに対しては毎月1回必ず無料の払出を認める必要があります。
給与支払先の口座として決済サービスを指定しておけば、給料の振り込みが一度もなくても手数料無料の出金が1回できる、というように読めてしまいます。さすがに厚労省は、このあたりは決済サービス事業者が何らかの対策を取ることは構わないとしています。
とはいえ、報奨金など不定期な給与振込先として決済サービスを指定しておけば、何もなくても毎月1回は無料で銀行などに出金できるというのはメリットになりそうです(そうした振り分けができるかどうかは雇用者側の判断になるでしょうが)。
(7)(8)その他
あと2つは、定期的な厚労省への報告体制と技術的能力・社会的信用があること、となっています。まあ、キャリア系など大手であれば問題ないでしょう。
さて、こうした審査の条件を見て、どのように感じたでしょうか。
少なくともいきなりサービスが終了して給料が消滅してしまうという心配はなさそうです。雇用者が決済サービスを指定できるので、自分の使いたい決済サービスが使えないといった課題は出てきそうですが、月1回の無料払出が可能なので、払い出した銀行口座から別の決済サービスへのチャージも可能です。
ただし、それなら最初から銀行口座への振込をすればいいので、デジタル給与払いは「万人に勧められるサービス」というわけでもありません。日払い/週払いの人が、現金ではなくPayで即日受け取るといった使い方は向いてます。
Payアプリで資産運用などの毎月課金があれば、毎月給与の一部をPayで受け取ってそれらに回す、ということもできるでしょう。使うPayアプリが決まっていて、雇用者側がそのサービスに対応するなら、給与の一部を設定するのは有効そうです。
いずれにしても、あくまで選択肢が増えるというだけの話です。これによって何かの社会課題が解決できるとか社会に変化が起きるなどというほどの仕組みではありません。雇用者側も労働者側も、自らの状況に応じて柔軟に利用を検討するのが良さそうです。