とある空港近くのバー。静かすぎるせいか、あまり人がいない。来ても時差ボケを直すために軽くひっかけて帰る程度。バーの雇われチーママ「サエコ」とバーテンダーしげさんも手持ち無沙汰だ。そんな時、ひとりの帽子を目深にかぶった男がふらりと店に入ってきた。襟には不似合いなかわいらしいペンギンのブローチがある。

一般の人材不足とはちょっと違う事情

サエコ: 「いらっしゃい(ペンギンのブローチ!?)。ご注文は?」


男:

「ドライ・マティーニ。ウオッカベースで」


しげさん:

「……(うなづく)」


「お客さん、パイロット?」


「どうして、そう思う」


「だって、腕時計がガーミンD2のチャーリーだから(※)」


「ああ、これは趣味だ。旅客機のパイロットは別にこんなものは必要ない。コックピットに全てそろっているからね。まあ、自分で小型機で飛ぶ人はしているかもしれないが……」


「うちのバー、よく航空関係者の方がいらっしゃるんですよ。それで、この前いらっしゃったパイロットの方もしていたなって。……そう言えばその時、『パイロット不足』とか言っていましたよ。確かに今は人材不足で、どの業界も空前の売り手市場ですもんね」


「(ドライ・マティーニをすすりながら)でも、パイロット不足は他の業界とはちょっと事情が違うんだよ」


「どうゆうことですか?」


「パイロットって一人前になるのに何年かかると思う?」


「2~3年ぐらいかしら」


「いいや、最低でも10年はかかるんだ」


「ええっ! でも、操縦学校はあるし、最近では大学で操縦を習える場所もあるって聞きましたよ」


「操縦学校は、車でいえば普通免許にあたる自家用免許。続いて車の第二種運転免許(営業用)にあたる事業用免許までくらいまでは教育してくれる」


「それで終わりではないんですか」


「それに加えて、エアラインの旅客機は計器で飛行するので計器飛行証明。そして、定期運送用操縦士免許が必要となる。さらに、機種ごとに免許を取る必要にあるんだ。これは就職してから取得することが多い。3年間はこれの取得のための訓練。後は副操縦士として7~8年勤務し経験を積み重ねてやっと機長……つまり、10年ぐらいでやっと一人前のパイロットとなれる」


「免許ってひとつじゃないんですね」


「バブル前、ジャンボ機が主流の時代は、便数がそれほどではなかったけど、2000年代以降から機材が小型化して多頻度で運航するようなスタイルが増えた。そして、10年代に入るとLCCが登場して、その傾向に拍車がかかったんだ」


「多頻度で運航? 便数が増えたってことですね」


「そう、その方がお客さんにとって便利だからね。それに応えるためには飛行機と人が必要だ。飛行機の方は月に何機も作れる。例えば、ボーイング787型は現在、月に10機程度のペースで生産されている。ではパイロットはいえば、そんな簡単には一人前にはなれない。そのギャップがある」


「そうなんだ……」


パイロットと医者、どちらが高い?

「ところで、エアライン・パイロットってなるにはいくらかかると思う?」


「う~ん、考えたこともなかったです」


「私立大学の航空学科操縦課程で4年間約2,000万円。海外で訓練を行うため、留学が必要な場合もあり、そうした渡航費、生活費は別。私学の医学部が3,000万円と言われるので、その比較としても高い」


「お金持ちしかパイロットになれないってことね」


「独立行政法人の航空大学校では2年で250万円ぐらい。寮費などは別だが。ただ、入学資格が大学2年修了以上で実質的には大卒後に入学するので、大学のお金もかかる。いずれにせよ、学生側の出費は大きい」


「どうすればいいんだろう」


「一応、2018年から航空会社で作る団体が、奨学金制度もスタートするが、ひとり500万円が上限。無利子で返還は10年と魅力的ではあるが、額はもう一声だね。さらに日本のパイロット不足には別の不安要因もあるんだ」


「別の不安要因?」


「パイロットの免許は基本的には世界共通なので、海外へ住むことや言葉の問題をクリアできれば、世界中どこでも仕事がある」


「国際的な仕事ですもんね」


「最近は中国をはじめ、アジアの経済成長が著しい国々は、ビジネスで移動する人が増えるから、当然航空便が増える。すると、高額のサラリーでパイロットの引き抜きなども起こっているんだ。これが、日本のパイロット不足にさらに拍車をかけることを懸念する人もいるね」


パイロットの世界の裏話

「……もう一杯いかがですか?」


「もらおうか。ところで、パイロットの世界ってどんな世界だと思う?」


「会社に属してはいるんでしょう。サラリーマンですかね」


「私が見るところ、一番近いのはシェフとか板前の世界だね」


「腕1本で世界を渡り歩くって感じですか」


「まあ、そうだね。会社への帰属意識より職能への帰属意識が高いとはいえる。最近は薄れる傾向もあるが、徒弟制的な部分もあって『操縦を教えてもらった教官や先輩は親も同然』と熱く語っている人も多い」


「へえ~」


「一方で、合わない人とコックピットに入ると地獄らしい。あるパイロットは副操縦士をしてた時、どちらから回してもいいツマミを左から回したら、機長からフライト中、ず~と『なんでお前は右からツマミを回さないんだ』『だからお前は下手なんだ』と理解不能の小言を言われ続けたそうだ」


「パワハラってどこにでもあるんですね」


「こんな話もある。それはある航空会社で役員にもなろうかといういわゆるグレート・キャプテンが、将来有望と見込んだある副操縦士を娘と付き合わせた。でも、うまくいかず破局。そのキャプテンは怒って『俺の目の黒い内はあいつは機長に昇格させない』と言って、本当にそのグレート・キャプテンが会社を辞めるまで機長になれなかったという。まあ、まだ、そうしたキャラのいた時代の伝説に近い話だけどね」


「そこまでいくと都市伝説……いや、コックピット伝説ですね(笑)」


「まあ、人間と人間の話だから、そこら辺は一般社会と同じだな。ただ、人数が多いエアラインだと、10年会社にいて初めて顔を合わせる人もいるので、その場限りということも多い。むしろ、訓練中の同期とか教官とかが腹を割った話ができる関係だ。さっき話した中国などからの引き抜きも、公募よりも先輩が後輩を誘ったりするなど、人間関係が移動のきっかけになることも多いという話だ」


「おっと時間だ」


「ありがとうございました。また来てください」


「お客さん……」


「うん?」


「知っているね」


イラスト: シラサキカズマ

※ガーミンD2はアメリカ・ガーミン社製の空港天気や位置のGPS表示ができる航空用デジタル腕時計。チャーリーはその最新型