連載『中東とエネルギー』では、日本エネルギー経済研究所 中東研究センターの研究員の方々が、日本がエネルギーの多くを依存している中東イスラム地域について、読者の方々にぜひ知っていただきたい同地域の基礎知識について解説します。


アラブのリーダーとしてエジプト

若い読者にはさっぱりわからないだろうが、昭和の昔、「なせばなる、なさねばならぬ何ごとも。ナセルはアラブの大統領」という戯れ歌があった。ナセルとは正しくはガマール・アブドゥンナーセル、1956年から70年までエジプトおよびエジプト・シリアからなるアラブ連合共和国の大統領だった人物だ。地口として子どもですら記憶する名なので、その当時の日本人にとって、エジプトやナセルがいかに身近な存在であったかがわかる。ナセルは単にエジプト大統領というだけでなく、アラブ民族主義のチャンピオンであり、また非同盟主義を掲げる第三世界のリーダーでもあった。

エジプトはもちろん古代エジプト以来ずっと中東やアフリカ、あるいは地中海地域の要衝であり、政治・文化の中核であった。現在のエジプトは人口約8600万を抱え、GDPは2719億ドル(2012年度エジプト財務省)を誇る。人口はアラブ世界で最大、GDPでみても、サウジアラビア、アラブ首長国連邦についで第3位である。今は凋落しているようにみられがちではあるが、エジプトが重要視されるのはある意味、自明の理でもあるのだ。

チョークポイントとしてのスエズ運河

タイトルには「産油国ではない」とあるが、エジプトは実際には産油国であり、GDPの2割近くを石油や天然ガスが占める。ただし、生産量・埋蔵量とも大きくはない。したがって、経済面でいうと、エジプトが紅海と地中海を結ぶ世界有数のチョークポイントであるスエズ運河を保有していることのほうが重要だ。たとえば、日本の欧州向け自動車輸出の大半がスエズ運河を通っている。エジプトが不安定化して、運河の航行に支障をきたすようなことがあれば、欧州行きの船は喜望峰を迂回しなければならず、燃料代・人件費・保険料等が嵩み、日本経済は深刻な打撃を受ける。

アラブ諸国の政治的リーダーとしてのエジプト

一方、政治面ではエジプトは、パレスチナ問題をめぐる対イスラエルの中東戦争でつねに戦いの最前線に位置していた。だが、エジプトはこの戦争ではしばしば劣勢に立たされ、疲弊し、そのため、ナセルの主導したアラブ民族主義も徐々に衰退していく。

結局、ナセルの跡を襲ったサーダート(サダト)大統領は外交面で従来のソ連よりの外交を転換、米国と和解し、ついには宿敵イスラエルとも和平条約を結ぶ。結果的には、この政策転換はアラブ諸国から総スカンを食い、エジプトはアラブ連盟から駆逐されてしまう。また、宿敵と和解したことなどで裏切り者とみなされたサーダートは、イスラーム過激派によって暗殺されてしまった。

サーダートの政策変更のきっかけのひとつが1973年の第4次中東戦争とそれにつづく経済的苦境であった。一方、第4次中東戦争をきっかけに起きた石油危機で莫大な石油収入を獲得した湾岸産油国が、その経済力を背景にアラブ世界での存在感を増すようになると、エジプトの役割は相対的に縮小してしまう。アラブの春以降、混乱のつづくエジプトにとって、豊かな湾岸産油国からの財政支援は不可欠になっている。まさに隔世の感である。

知的な中心としてのエジプト

政治的・経済的役割が縮小したとしても、エジプトそのものの役割が消滅するわけではない。エジプトはいぜん中東の知の中心である。エジプトは、イスラエルを除けば、自然科学系でノーベル賞受賞者を輩出している唯一の中東・アフリカの国なのだ。

カイロ大学やアインシャムス大学、カイロ・アメリカン大学等は今でもアラブ諸国の学問の中心であり、アラブ各国からたくさんの留学生を惹きつけている。また、アズハル大学はスンナ派イスラームの最高権威のひとつと目されており、世界中のイスラーム教徒に多大な影響をおよぼしている。もっとも、近年は、湾岸諸国の大学が金の力にあかせてエジプトの有名教授をスカウトしてしまい、人材が乏しくなってしまっている感があるのも否定できないが。

思想面では、アラブ民族主義だけでなく、いわゆるイスラーム主義運動も多くはエジプトに起源をもつ。たとえば、ムスリム同胞団はエジプトに生まれ、現在では世界各国に拡大している(ただし、エジプトでは非合法)。同胞団のイデオローグ、サイイド・クトブは、のちのアルカイダなど過激組織のイデオロギーにも大きな影響を与えている。

また、メディアやエンターテインメントの分野でもエジプトの役割は大きい。最近ではジャジーラ放送など湾岸諸国のメディアが注目を集めているが、そのなかにはエジプト人ジャーナリストが多数、在籍している点も忘れてはならない。また、古典からアイドルまでエジプトの音楽や映画の影響はアラブ世界のすみずみまで浸透しており、結果としてエジプト方言は広大なアラブ地域の大半で通用する。これらもエジプトにとってみれば、かけがえのない資産である。

<著者プロフィール>

保坂 修司(ほさか しゅうじ)

日本エネルギー経済研究所中東研究センター副センター長兼研究理事。ペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論が専門。在クウェート・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学国際人文科学研究所教授等を経て現職。昨今は中東情勢等の解説のため、テレビメディアにも多数出演。最近の著書に「「イスラーム国」とアルカーイダ」吉岡明子・山尾大編『「イスラーム国」の脅威とイラク』(岩波書店(2014))、『サイバー・イスラーム』(山川出版社(2014))、『イラク戦争と激動の中東世界』(山川出版社(2012年))、『サウジアラビア』(岩波書店(2005))等がある。