20代の頃、行きつけの美容院は原宿の路地裏にあるお洒落なサロンだった。あの頃の僕は裏原宿の空気を吸うだけで、いつもより少しかっこ良くなれるような気がして、最低でも二カ月に一度のペースで通っていたものだ。

担当の美容師さんに定期的に会えるのも嬉しかった。当時、僕のスタイリングを担当してくれていた美容師のNさんは一般的な男性なら、誰もが羨むような超美人女性だった。歳も僕と同じで、会話も楽しかった。実は密かに狙っていたのである。

しかし、そこは生粋のチキンハートの持ち主だけに、僕はいつまでたってもNさんをデートに誘うことができず、ヘアサロンの中での束の間の会話で満足するしかなかった。いつかNさんをデートに誘うんだ。いつかNさんといかがわしいことをするんだ。かような夢を抱きながらも、現実はただ時間だけが悪戯に流れていったのだ。

そして、現在である。

最近の僕はすっかりNさんのサロンに行かなくなった。別に新たな行きつけができたわけではない。Nさんが美容業界を辞めてしまったわけでもない。

禿げかかってきたからだ。

ショックだった。何度も繰り返し書くが、31歳あたりから生え際の後退がだんだん気になり始め、32歳の誕生日を迎えた頃には頭髪全体がボリュームダウン。スタイリングの工夫次第で他人にはまだなんとか隠蔽できるレベルだが、シャンプーした直後の濡れ髪なんか明らかに危険信号が鳴っているのだ。

ああ、かくも哀れな頭髪事情――。こんな雨に濡れた雛鳥みたいな頭髪になった僕をNさんにまざまざと見せつけるわけにはいかない。もしもNさんがシャンプーしているとき、「あれ? 山田さん、ちょっとやばくない!?」なんて心の中で思ったりしたら最悪だ。とてもじゃないけど色恋沙汰に発展するわけがないし、Nさんに薄毛を気づかれているにもかかわらず、それでも堂々と「トップを短めにして、サイドとバックの長さを~」なんて図々しいことをのたまう勇気は僕にはない。それなら薄毛がばれる前に、老いらくの猫よろしく、人知れず姿を消すのが一番だろう。

ちなみに頭髪がまだふさふさだった若い頃、非才を顧みず、薄毛のオッサンの儚い恋を題材にした、こんな詩を書いたことがある。

床屋の娘 詩 山田隆道

床屋の娘に恋をした 禿げてるくせに まめに通う
床屋の娘に恋をした 洒落たオーダー ためらいながら
細い指先 リズムを刻む
切り落とされる黒髪が 届かぬ想いをあざけ笑う
君は優しい 俺は哀しい
床屋の娘に恋をした 淡い心が 恥とぶつかる
床屋の娘に恋をした 髪より欲しい 伝える勇気
花のピアスが 鏡に映る
ソフトに撫でるシャンプーが 叶わぬ想いを洗い落とす
君が愛しい 俺は苦しい
シザーズシザーズ ラブシザーズ たった一つのコミュニケーション
シザーズシザーズ ラブシザーズ 襟足だけのトップスタイル
恋の架け橋 三千円

あの頃はまさか自分も同じ悩みに苦しむなんて思ってもいなかった。禿げとは無縁の人生を送るはずだと信じていた。Nさんのサロンに通うこと丸五年。僕の恋は容赦ない薄毛の発覚とともに無残な終焉を告げた。まだ何も始まっていなかったのに。

かくして最近の僕はわざわざ裏原宿のお洒落サロンに足を運ぶこともなくなり、家の近所の美容室で男性美容師さんにカットしてもらっている。ファッション誌でヘアスタイルを研究し、難しい注文をすることもなくなった。今はただ、どうやったら薄毛を隠蔽できる髪型になるのかしか頭にない。ヘアスタイルで遊ぶなんてもってのほかだ。遊び半分で貴重な毛髪と向き合うなって感じである。

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