筆者は日本だけでなく、海外でも医療機関にお世話になった経験があります。日本の医療制度、医療へのアクセスのしやすさは、いかなる形であれ、日本人が大切にしたい「生きるためのインフラだ」と感じています。
しかし、少子高齢化社会を迎え、医療費、子どもの医療のかかりにくさ、そしてなにより膨大な待ち時間を要する医療体験と、さまざまな問題が顕在化してきたことも事実です。
そうしたなかで、「地域で心から患者を元気にする」ことを目指す調剤薬局のDX事例は、デジタルの力を使って、患者と薬局で働く人たちの双方にメリットをもたらす、理想的な姿の実現に近づいていました。
DXに成功した街の調剤薬局、なごみ薬局とは?
東京都中野区と杉並区に3店舗を構える「なごみ薬局」は、地域に寄り添う調剤薬局です。なごみ薬局は、おそらく独立系の調剤薬局において、日本で一番先進的なDXの成功事例といえます。
DXとも称される「デジタル・トランスフォーメーション」は、デジタル技術を活用した業務変革を指し、人手不足や新型コロナウイルスのパンデミックを通じて「省力化」「非対面」といったニーズをかなえる業務を実現するための手段となっています。
なごみ薬局を創業したのが渡邊輝氏です。長年営んでいるラーメン屋の立ち仕事ですぐ腰を悪くする両親の姿を見て「医療に関わりたい」と志し、薬剤師となりました。病院勤務では、退院したら患者から離れてしまうため、「患者と関わり支え続けたい」という思いから、なごみ薬局を19年前に開業したといいます。
「今までにない調剤薬局を作ろう、ということで、アート、テクノロジー、薬学の視点から店舗のあり方を考えた」そうです。
それまでの調剤薬局の業務は多忙を極めていたといいます。
「調剤薬局の業務は、お昼を食べる暇がないほど忙しいんです。さらに、医療においては『最後までどうやって生きたら良いか』というテーマが大きく注目されるようになりました。治療だけでなく、維持が求められるようになったのです。そのため、調剤薬局の提供価値も、将来の健康不安を取り除く、健康的な生き方をアドバイスできる、そんな役割が求められると考えました」(渡邊氏)
薬が進化し、医療のテーマが変化する中で、渡邊氏は「ひとりひとりに寄り添う調剤薬局を作ろう」とコンセプトを固めました。
忙しい調剤薬局が抱える課題とは?
患者に寄り添う調剤薬局というコンセプトで開業したなごみ薬局ですが、やはり業務は膨大でした。薬学に専門性がある30名のスタッフを3店舗に集めたものの、そのスタッフが経理も人事も営業も行わなければなりません。財務管理と業務管理以上に、調剤薬局で大変なのは在庫管理だといいます。
「医薬品の在庫は、SKU数(受発注や在庫管理を行う際に商品を最小単位で管理するためのコード)で2,400にも上ります。しかも、薬には使用期限があり、1つ1つが高額であるため、在庫を抱えれば良いというわけではありません。過剰在庫は運転資金の増加を招き、黒字倒産の原因になります。調剤薬局は、みなさんが思っているよりも倒産するリスクが高い業種なのです」(渡邊氏)
また、スタッフの採用も大変だといいます。
「とにかく人材確保ができませんし、スタッフのライフステージの変化に職場も対応していかなければなりません。女性はもちろんのこと、男性にも育休を出しています。働き方も多様化し、労務管理は非常に煩雑になっています」(渡邊氏)
新型コロナウイルス以降、新薬が増えており、スタッフがそれらの新しい薬を間違いなく提供するために学ぶ時間が必要になります。さらに、待ち時間を短縮しながら、渡邊氏が掲げる「患者と関わり続ける」調剤薬局を目指すことは、テクノロジーの力なくしては「不可能」だったのです。
iPadを軸にした徹底的なデジタル活用
そこで、なごみ薬局では、開業当初からAppleのプラットフォームを活かし、渡邊氏自らコードも書き、FileMaker Proで薬局の業務効率化を図るアプリを開発したといいます。
法人なのにApple、という選択肢は意外性もありますが、渡邉氏は以下の3点を評価していました。
- 使い始めるまでに設定やユーザーの習熟度を高める必要がなく、「生産性」をすぐに発揮する
- 12年前に導入したiMacがいまだに問題なく動作する「堅牢性」の高さ
- 顧客の医療に関する情報を扱うため「プライバシー」「セキュリティ」の高さ
デジタル活用も、優れたハードウエアやサービスを採用して効率化している点が非常に合理的です。
現場では、1店舗あたり3~5台のiPadが配置され、管理職にはMacBook Airを貸与して業務にあたっています。書類はすぐにScanSnap(ドキュメントスキャナー)を用いてPDF化し、暗号化したクラウドストレージに保管します。
iPad/iPhoneで動作するSquareアプリを利用したPOSレジを採用しており、患者の自宅に訪問する際もキャッシュレス決済に対応。これらの会計データはMoney Forwardに自動連携され、月末や決算の際に帳簿管理に忙殺されない体制を築いていました。
しかし、まだまだ進化は続いているといいます。
「iPadは、毎年5人ほど入社する新入社員のほとんどが使ったことがあり、iPhoneを持っている人も多くいます。最近の大学生はPagesなどのアプリを使った経験があるため、改めて教える必要がほとんどなく、システムの教育コストはきわめて低く抑えています。現場の困りごとは、抽象的でも良いので可能な限り吸い上げて、会話をし、言語化し、仕様を決めてアプリに実装して運用するという流れで、組織で分担しながら作っています」(渡邉氏)
顧客サービスや在庫問題はアプリ化して解決
調剤薬局の業務のDX化が進む一方で、薬局を利用する人を対象にしたアプリの制作にも着手しました。なごみ薬局で独自に開発したアプリ「メディカルペイ」です。
処方箋を写真に撮って送ると調剤が始まり、アプリ上で電話会議によって説明が受けられる仕組みです。調剤した薬は電子お薬手帳にも記録されます。これによって、長時間化する調剤時間を待たずに、他の用事を済ませられるようになり、顧客の時間を無駄にしない仕組みを作り上げました。
それ以外にも、デッドストックとなっている薬品を売買するアプリも作りました。薬の写真を撮るだけで、機械学習から薬の種類を判別し、個数を入れれば薬局間売買に出すことができ、収益問題の改善にもつながっていました。
DXで得られたものは「時間」、これをどう活かすか
渡邊氏は、DXに関する基本的な考え方について、次のように指摘しています。
「基本的に、デジタル技術は“距離”と“時間”で生産性を劇的に改善するもの、ととらえています。距離は、店舗間、店舗内、店舗と患者である人の3つ。これを一瞬にして縮められれば、生産性が劇的に上がります。遠隔で薬について説明したり、スキャンしたデータをスタッフ内、あるいは患者との間でやり取りしたり。
もう一つの時間は、考える時間、計算する時間、探す時間を可能な限り少なくしています。徹底的にiPadに情報を集約し、業務をアプリ化し、患者や薬の情報をすぐに呼び出せるデータを構築しました。それができると、入力の提案ができるようになり、さらに時間が縮まります」(渡邊氏)
デジタル化によって、煩雑・困難な作業を自動化でき、時間的な余力が十分に確保され、ほとんど残業がなくなり、結果として人件費に余裕が出ているといいます。
その空いた時間こそが重要だといいます。なごみ薬局では、患者とのコミュニケーションに十分な時間を確保でき、渡邊氏が目指す「患者に継続的に寄り添い、心から元気にする」というゴールに向けて取り組めるようになったのです。
渡邊氏のDXによる生産性改善の考え方は大いに共感でき、調剤薬局以外の業種・業態にも応用できる汎用性の高い取り組み方だと感じました。