フカフカ谷牧舎について
就農:2022年4月
従業員:2人
経営規模:13ヘクタール(放牧地3ヘクタール、採草地10ヘクタール)
飼養頭数:羊20頭(育成10、雄2含む)
黒沢松美さん(左)は1986年に鶴居村の獣医師の家に生まれ、国際基督教大学卒業後にフランスへ移住。現地の農家で研修し2021年にウエさんと帰郷。ウエ・マックシミリアンさんは’84年フランス・ブルゴーニュ生まれ、フランス国立東洋言語大学(INALCO)卒。
フランスで出会った羊チーズの衝撃
ー黒沢さんは非農家出身とのことですが、なぜ農業に興味を持ったのですか。
父が獣医師なので、子供の頃から動物は好きでした。学生時代は農業ボランティアに参加することもあり、マックスと出会ったのも「信州共働学舎」での農業ボランティアです。大学卒業後に都内の企業で三年ほど働いた後、彼が帰国するタイミングでフランスへ移住して結婚しました。彼の家族はブルゴーニュで畑を持って自給的な暮らし方をしており、この機会に農業に関わってみたかった。そこで、いろいろな農場へ研修に行き始めました。彼はグラフィックデザインや高校のアシスタントカウンセラーの仕事をしていて、週末は二人で好きな農場を訪ねたりしていましたね。
―現在の経営スタイルである「羊の酪農」に出会ったのも、フランスだったのでしょうか。
そうなんです。アルプス山麓のジュラ地方(ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏)で山羊と羊を飼う農場で研修し、そこで作られたチーズがきっかけで就農を本気で考え始めました。新鮮な羊乳で作る自家製チーズはきめが細かくて癖がなく、ナッツのような香りもあって、何とも言えないおいしさがうわーっと広がるんですよ。羊乳を搾り、その場でチーズを作り、売り先に手渡す。そんなチーズを軸にした暮らし方と売り方の流儀に強く引かれました。その農家さんとは今もビデオ通話で時々話す間柄で、アドバイスをもらうこともあります。
―売り方にも流儀があるのですか
フランスの研修先の多くが、チーズを製造直販して暮らしを立てていました。近郊のマルシェにチーズやヨーグルトを持って行くと、味の説明ができるし、お客さんとのやりとりでどんなものが欲しいのか、どうやって食べたいのかが分かります。上手に売るには、何をどのくらい作るかの製造計画が決め手です。そこはフランスでの経験が役立ちました。
小さな羊牧場の、多彩な営み
– 2021年にフランスから鶴居村へ移ったのですね。
フランスでは土地を見つけるのが難しかったこともあり、北海道に帰れば農業ができるかもしれないと思い立ちました。帰国後、鶴居村の新規就農支援制度を利用して、空いていた牛舎と3ヘクタールの放牧地、採草地10ヘクタールをお借りすることができました。
ー羊たちはどこから手に入れたのですか。
羊肉生産者であり乳製品も製造している松山農場(美深町)のことを知って、オーナーの柳生佳樹(やぎゅう・よしき)さんを二人で訪ねました。羊の酪農を始めたいと相談したところ、とても親身に聞いてくださって、2021年の冬には初妊羊を6頭、譲っていただきました。乳用種フライスランドの交配種で、種雄2頭と自然交配しています。いま搾乳しているのは8頭で、乳は全て加工に充てています。
―1頭からどのくらいの乳が搾れるのでしょう。
春から秋にかけては、1日に大体1キロほど搾っています。まだ自分たちの加工設備が無いので、製造は全て、村の特産品を販売するお店「つるぼーの家」の設備をお借りしています。チーズを製造するのは春から夏で、チーズバットの容量に合わせて1回に必要な生乳は40キロ。羊乳は冷凍しても品質がほぼ変わらないので、量がまとまったら加工しています。
―羊乳は加工向きな面もあるのですね。自社製品としてチーズやヨーグルト、ジェラートの3品を手掛けていますね。
この他、2023年7月にプレーンヨーグルト「鶴居村の羊グルト」(90ml、税込340円)、9月に「羊乳のトム」(3カ月熟成タイプ、100グラム税込1840円、※どちらも村内委託販売価格)を発売しました。羊の世話は二人でしますが、製造は主に私、パッケージはマックスの担当です。ジェラートは「つるぼーの家」に販売を委託しています。
―限られた乳量で色々作っているのですね。これらの加工品を手掛けている理由や、特に力を入れている商品があれば教えてください。
一番作りたいのは、なんといっても羊のチーズです。私たちは羊の世話が最優先なので、作るチーズは一種です。ヨーグルトとジェラートを作るのは、幅広い人々に羊乳のおいしさを知ってほしいからです。羊乳を初めて食べてみようという人にはヨーグルト、良質なナチュラルチーズ好きな人にはチーズ、子どもや甘いもの好きな人にはジェラートが好評です。マーケティング的な説明になりましたが、「小さな農家でもいろいろなことができるんだよ」と伝えるためにも、この品ぞろえを続けたいですね。
ストレスを減らしたら羊の顔が変わった
―ここからは、羊の具体的な飼養方法を教えてください。
母羊、子羊とも夏季放牧で、冬季を除くと、羊たちが畜舎にいるのは搾乳時くらいですね。放牧場は10から12分割してローテーションし、餌は自給粗飼料(干草)と北海道産のビートパルプ、小麦、大豆を与えます。11月から4月は乾乳、交配します。春の分娩は寒さによる仔羊の事故が減るし、一番良い青草が出る時期に親子放牧ができる。羊の自然なサイクルに合わせてあげることが理にかなうんです。
―羊を飼う上で大切にしていることは何でしょうか。
羊をよく観察して、ストレスを与えないことを最優先にしています。始める前は「羊は追い立てないと飼えないよ」と言われましたが、羊を追わないで飼うと、人との距離がとても近くなるんです。毎日触れ合っていると、羊の嫌なことうれしいことが分かってくるので、嫌がることを減らしていく。すると、パッと見て分かるほど表情がのびのびとするんです。羊は草を食べて乳をくれるという私たちのできないことをしてくれる。だから、彼らを尊重するというか、したいことを感じながら環境を整えています。
鶴居村でチーズを作る意味
―自家製品の一つであるトムですが、これはフランスの伝統的なチーズの一種ですね。
フランスでは農家製チーズの代表のようなチーズで、トム・ド・サヴォワは牛乳ですし、各地に山羊、羊を使ったトムもあるんですよ。ただ、フランスで学んだ方法で作ったとしても羊も土も草も違うので、チーズ作りはゼロからのスタートだと思って取り組んでいます。
―鶴居らしい羊のチーズを目指しているのですか。
はい。極端な例えですが、本場の味を伝えたいだけならチーズの輸入販売でも良いかもしれません。でも、やはり私たちは羊を育てるのも、うちの羊でチーズを作ることも好きなんです。そして、私が初めて食べた羊乳チーズのように、いつかは私も誰かに驚きを与えるチーズを作ってみたいと思いますね。
―なるほど、チーズは黒沢さんと羊たちの生活の一部なんですね。
そうですね。まずは地元近郊の人たちに知ってもらえることを目指しているので、私も製造の経験を積み、食べてくれる人にも段々好きになってもらって、どちらも一緒に進んでいけたら良いなと。フランスではパンとチーズがお昼ご飯になったり、友達とワイン片手に気軽に食べたりするので、そういった普段着の楽しみ方も提案したいですね。
―ところで、釧路のレストランで食べた「羊のトム」、おいしかったです。
フレンチレストラン「ガストーラ」ですね。オーナーシェフの安藤済(あんどう・わたる)さんに試していただいたところ、「こういうチーズを探していたんだよ」とおっしゃって、牧場にも来てくださいました。フランスで修業されて道東の食材にお詳しい安藤さんに採用されたことはうれしかったです。
「多様な農業の中のひとつ」になれるように
―牧場の今後の目標を教えてください。
当面の目標は、牧場の敷地内に乳加工室を建てることです。飼養頭数はこれ以上増やさず、手搾りの乳にこだわってチーズの味を磨いていくつもりです。農業には本当にいろいろな考え方ややり方があると思いますが、その中のひとつとしてこんな小さな羊の酪農もあって良いのかも知れないなと。そしてここが、誰かが農業や食の営みを始めるきっかけになれたら、と願っています。
取材後記
鶴居村の基幹産業である酪農は、1戸当たり耕地面積が100ヘクタールを超えています。羊一頭一頭に名前をつけて可愛がる黒沢さん夫妻ですが、自分たちを指す「小さな酪農」という言葉からは、大規模酪農地帯で暮らす客観的な視点もにじみます。実際にチーズやヨーグルトを味わうと、羊乳特有のコクと舌ざわりに、思わずパンとワインが欲しくなりました。味に加えて、羊のいる暮らしを感じさせるところが人気の理由なのでしょう。