シンガー・ソングライターの矢野顕子。ジャズ・ピアニストの上原ひろみ。独自のスタイルと卓越した演奏技術を持った二人の共演コンサートを記録したライブ盤『Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-』がリリースされた。
これまで2人は2作の共演アルバムを発表してきたが、今作ではそうした経験を経てさらなる高みに達した歌と演奏を楽しむことができる。それぞれのオリジナル曲に加えて、上原ひろみの曲に矢野顕子が歌詞をつけた「ポラリス」。童謡「げんこつ山のたぬきさん」とハービー・ハンコック「Cantaloupe Island」をマッシュアップした「げんこつアイランド」。毎回恒例の「ラーメンたべたい」の新アレンジによるカバーなど趣向を凝らした内容。2人が出会ってから20年。今も刺激を与え合っている2人に話を聞いた。
「2人でやる醍醐味」がよりわかってきた
ー『Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-』は音楽が次々と溢れてくるような素晴らしいライブ・アルバムでした。演奏には、緻密さと自由さ、その両方を感じましたし、2台のピアノがビッグバンドのように膨らみをもったり、スリリングに掛け合ったり、緩急に富んだアレンジも見事でした。過去2作と同じように、今回も上原さんが編曲を担当されたそうですが、矢野さんと共演する際にアレンジ面で意識されていることはありますか?
上原:2人ともピアノを弾くので、ピアノが2台ある良さが出るアレンジにする、というのはまず考えています。矢野さんとアルバムを出すのは今回で3回目。それ以外に何度も矢野さんとご一緒させて頂いて、矢野さんはこういうところでは、こんな風に弾く、とか、お互いの得手不得手がわかってきた。だからこそ、それぞれが苦手なところを補い合ったり、良いところを広げたりするという、二人だからこそのアレンジは、これまででいちばんできたんじゃないかと思っています……が(と矢野さんの方を見ると矢野さんが大きく頷く)。
ー矢野さんも同意見(笑)。お互いのことをわかってきた、というのが編曲に良い影響を与えているわけですね。
上原:そうですね。テニスのダブルスみたいな感じというか。それぞれが、どういうタイミングで前に出て、どう打ち込むか。ここに球が飛んできたら私が受けるから、もうそっちに行っていいよ、とか、そういう阿吽の呼吸ができてきた。インプロビゼーションの部分では最初からやりやすかったのですが、編曲という点においても、2人でやる醍醐味を最大限に活かせたと思います。
Photo by Mitsuru Nishimura
ー矢野さんは上原さんのアレンジについては、どんな感想を持たれました?
矢野:(楽譜の)枚数が少ない曲が多くて嬉しかったですね(笑)。
ーいつも大変だったんですか?(笑)
矢野:はい(笑)。でも、ひろみちゃんが言ったように、私の良いところを引き出しつつ、2人のコンビネーションもよく考えられているアレンジだなと思って、楽譜をもらってから一緒に演奏するのを楽しみにしていました。
ー実際にライブで演奏されてみていかがでした?
矢野:これまでは「自分に期待されていることを100パーセント出そう!」と思って、パフォーマンスをしている間は手一杯だったんです。でも、今回は「あ、お客さんがいるのね?」って(笑)。私たちがやっていることをお客さんが喜んでいるのが伝わってきたんです。だからショウという部分でも、二人の良さをしっかり出すことができたと思います。
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『Step Into Paradise 』共演の裏側
ーアルバムに先立って配信された「変わるし」は矢野さんの曲です。大切な人は死んでしまうし、好きだった店はなくなってしまう。時の流れは止められない、という諸行無常な歌を、ノリのいいアレンジで勢いよく演奏されています。
上原:この曲は私がやりたいと思ったんです。矢野さんの『akiko』(2008年)というアルバムに入っている曲なのですが、このアルバムのバンドが大好きなんですよ。マーク・リボーが参加していたりするんですけど、オリジナルはブルースっぽい感じなんですよね。でも、オーチャードホールでTIN PANと共演した時は、もう少しライトな感じになっていたりして、一緒にやる人によって表情が変わる曲なんです。だから、私と一緒にやったらどんな感じになるのかな?と思って。特に曲のインタールードみたいなところ、ビッグバンドでいうソリセクションの部分を書いている時は楽しかったですね。
矢野:この曲は、いかようにもいじれるように書いたんですけど、ひろみちゃんが書いた楽譜を見た時に、これは一緒にやったら楽しいだろうな、と思いました。この曲を2台のピアノでやる、というのは、今回のコンサートの楽しみのひとつでしたね。
ー宇宙飛行士の野口聡一さんが書いた詩に矢野さんが曲をつけた「ドラゴンはのぼる」が、上原さんのオリジナル曲「ポラリス」に繋がっていくのもいいですね。地球を飛び立ったロケットが北極星(ポラリス)に向かって宇宙旅行しているようで、そこで駆け抜けていく上原さんのピアノが流れ星のようにも思えました。
上原:「ポラリス」を書いてバンド(Hiromis Sonicwonder)でやっているうちに、「この曲を絶対、矢野さんに歌ってほしい!」と思うようになりました。それで自分のライブで、ちょっと矢野さんっぽく歌ってみたりしていたんですよ(笑)。それである時、矢野さんをライブにお誘いして、「歌ってほしい曲があるから聴いてみてください!」って伝えました。矢野さんは、そのライブでこの曲を初めて聴かれて、「良い曲だね」って言ってくださったんですよね。それで今回、一緒にやりたいと思いました。それとは別に「『ドラゴンはのぼる』をやらない?」っていう矢野さんからの提案があって、この2曲を繋げば宇宙旅行みたいになるのでは?というアイデアが浮かんだんです。
矢野:確かニューヨークのライブだったんですよね。ひろみちゃんが「新曲をやるから歌詞をつけてほしい」って言うから心して曲を聴いているうちに、歌詞のアイデアが浮かびました。
ー今回、矢野さんは英語で歌われていますが、どんな内容の歌詞なのでしょうか。
矢野:「ポラリス」というのは北極星のことなのですが、きっと多くの人が北極星という名前を聞いたことがある。それくらい知られているのは、夜空を見上げた時にいつも北にあるからだと思うんですよ。星は時間や季節によって動くのに、北極星はいつも同じところにいる。だから、昔から人々は北極星を頼りにして旅をしてきたんです。特に大航海時代には、北極星のおかげで助かった人たちも多い。そんな風に、私たち人間が指標にしてきた北極星に対する敬意をもとに歌詞を書いてみました。私はひろみちゃんが作る曲がすごく好きなんです。やさしい曲ではありませんでしたが、私の技量でできる限りのことをして歌わせて頂きました。
上原:もう、感無量でしたね。「そう、これ!これ!」って。矢野さんは宇宙を題材にした曲をたくさん書かれているじゃないですか。私が想像していた以上に壮大な世界が広がっていて、宇宙と人間が混ざり合っていくみたいな歌詞で、さすが宇宙のプロだなあって思いました。
ー宇宙のプロ!(笑) 確かに宇宙飛行士と曲を書くアーティストなんてなかなかいませんよね。
上原:この曲を矢野さんと初めて一緒に演奏した時、矢野さんの歌を聴きながら「ポラリス」という単語がどこにでてくるのかワクワクしていたんですよ。今も一緒にやっていて「ポラリス~」って矢野さんの声が聞こえたら、もう嬉しくて。
ー北極星が見えた!って感じですね(笑)。
上原:そう(笑)。「ポラリス」は歌詞の中で唯一、私が選んだ言葉じゃないですか。矢野さんが歌詞を書いたから当たり前なんですけど、その言葉が絶妙なタイミングで、メロディの一番ピークのところで出てくるんですよ。それがすごく嬉しい。
Photo by Mitsuru Nishimura
ーという話を伺うと、改めて聴き直したくなりますね。上原さんの新曲「ペンデュラム」も演奏されていますが、これも矢野さんのことを意識して書かれたのでしょうか?
上原:この曲は違って、日本語の歌を書きたいと思って作った曲です。最初はインストゥルメンタルの曲として出来て、去年のライブで披露していました。その後に歌詞をつけて、それを今回、矢野さんに歌ってもらいました。私たちのライブでは、毎回、矢野さんがステージのセンターに立って歌って、私がピアノを弾くコーナーがあるのですが、そこで歌ってもらうのにちょうどいいかなと思ったんです。
矢野:いちばん最初にそのコーナーで歌ったのは、ひろみちゃんが書いた「Green Tea Farm」だよね。それまで私が自分のライブで歌っていて、やってみようかって。
ーマイクの前で歌うというのは、ピアノを弾きながら歌うのとは心持ちも違ってくるのでしょうか。
矢野:ちょっと違いますね。歌に対して責任が重くなるというか。でも、上原ひろみに伴奏をやってもらう、という贅沢を味わえるのがいいんですよ(笑)。「ペンデュラム」は今までのひろみちゃんの曲とはちょっと毛色が違っていて。「ペンデュラム (振り子)」という曲名のように、人の心の動きは一様じゃない、という歌詞の内容を、これからライブで歌い続けることでもっと自分なりに表現できたら良いなって思います。これから自分の中で練り上げていきたい曲ですね。
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上原ひろみの「円熟」、矢野顕子の「変化」
ーそうやって曲が育っていくんですね。上原さんから見て矢野さんの歌声の魅力はどんなところですか?
上原:ピアノだったらピアニストの音色、トランペットだったらトランペット奏者の音色があるみたいに、 歌う人によって歌声の音色があると思うんですけど、矢野さんは音色と歌い方の両方が自由なんです。矢野さんの歌声は伸びやかというか、雲に乗っているみたいで、ふわふわしてる。
ー雲みたいな声、素敵ですね。
上原:あと、矢野さんのピアノの使い方って、歌を引率している時もあるけど、まったく別の人みたいな時もあるんですよ。 歌っている人をサポートするバンドみたいな存在になっている。「バンド」になっているピアノは、矢野さんの歌が生きるように支えているんです。でも、 矢野さんがインプロバイズ(即興)している時は声はピアノの延長みたいになっていたりして、すごく不思議な関係性なんですよね。だから、歌だけになった時はすごく自由っていうか。ピアノを弾いている時もすごく自由なんですけど……なんて説明したら良いんだろうな。私はピアニストとして、ピアノと声を分けて聴く傾向があるんです。でも、矢野さんの歌はバンドの一部になったり、バンドの演奏を引っ張ったりする。一人で何役もやっているというか、矢野さんの世界観が多面体みたいにクルクル変わっていく。それがすごく好きなところです。
ー声とピアノがいろんな役割を果たしているんですね、しかも、その役割がひとつの曲のなかでも変化する。面白いですね。
上原:私、バッキングをしている矢野さんの演奏が好きなんですよね。ベーシストとかギタリストの人がソロを取っている時に、ただピアノを弾いてバッキングしてる矢野さんのピアノが好きで、そういう演奏を一緒にやっている時に堪能しています。
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ーでは、矢野さんからご覧になって、上原さんのピアノの魅力はどんなところですか。
矢野:世界中のピアニストを全員知ってるわけではありませんが、自分が聴いている限り、上原ひろみは世界最高峰のジャズ・ピアニストの一人です。 上原ひろみはテクニックがすごい、という評価をよく耳にしますし、もちろんそれもありますが、彼女はそういう技術を自由に使って、自分が表現したい音楽を実現している。コンサートではたくさんの観客が居るので、皆さんに楽しんでもらうことを私たちは考えますけど、そういう点もちゃんとカバーしつつ、そのうえで自分が表現したいものをはっきりとした形に提示できる、という円熟の域に彼女は達したと思います。そうなるためには、いろんな経験を積んでこないといけないだろうし、人間的な成長も欠かせない。今回のアルバムは上原ひろみの円熟味が出ている。そして、上原ひろみと矢野顕子のいちばん良い演奏、皆さんに聴いてほしいものがしっかり表現できているアルバムになったので、ショウとしても演奏としても大成功だと思います。
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ーお2人の共演を聴いていると、2人が共演という冒険を楽しんでいるのが伝わってきて、だからこそ、聴いている方もワクワクさせられる。お2人が出会ってから20年経ちますが、今もお互いに刺激を与えあっているんでしょうね。
上原:そうですね。これまで矢野さんのライブを観たり、一緒にやらせてもらったりしてきましたが、今回一緒にやっていて驚いたのは、今まででいちばん声が伸びやかに出ているんですよ。人間って歳をとるはずなのに矢野さんはどうなってるの?と思って(笑)。驚いているのは私だけじゃないんです。矢野さんと長年一緒にやられているイベンターさんも驚いていて。矢野さんはすごい!とか、かっこいい!とか、そういう感じじゃなくて、なんだかジブリの映画に出てきそうな……(笑)。
ートトロみたいな不思議な生き物(笑)。
矢野:あははは、妖怪とか?(笑)。
上原:多分、矢野さんとお付き合いが長い方は、矢野さんのこれまでトランスフォーメーションを見てこられたと思うんですよ。「シン・ゴジラ」じゃないですけど、矢野さんは第2形態、第3形態と変化してきて、まだ変化するんだ!ってみんな驚いてる。私も矢野さんがいろんな方とコラボしたり、新しいプロジェクトをやられたりするのを見るたびに、こんな矢野さんもいるんだ!って驚かされるんですよ。今、矢野さんの新しい形態を見せられているみたいで、矢野さんのそういうところにすごく刺激を受けますね。
ーこのアルバムを聴いていても、曲ごとに矢野さんの声の表情は変わっていくし、ライブの終盤に向けてどんどん元気になっていくような気がします。
上原:そうなんですよ! それがすごいと思って。どうなってるんだろう。矢野さん、何を食べてるんだろう?って(笑)。
ー矢野さん、何を食べているんですか?(笑) というか、新しく変化していくために何か意識されていることがあるのでしょうか。
矢野:何か特別なことをしているわけではないのですが、私は基本的に飽きっぽいんですよ。ひとつのことを、段階を追ってじっくり取り組むのが苦手で、「これ美味しそう!」と思ったら、周りの制止も聞かずに食べてしまう。で、「食べたから次に行こう!」みたいな感じで好奇心がどんどん広がっていくんです。
ー好奇心が原動力なんですね。
矢野:とはいえ、着実に老化はしているので、10年くらい前にできていたことができなくなったりはしているんですよ。ただ、声を出すということに関しては、2年前にピアノの椅子を変えたことが大きいんじゃないかなと思います。
ーというと?
矢野:いま、ピアノ椅子として使っているのは、ピアノ用の椅子ではなくて、オフィス用の椅子なんです。コクヨのingLIFEという椅子なんですけど、これは座面が360度傾くんです。私はピアノを弾く時のアクションが大きいし、観客の方を見ながら弾くことが多いので、普通のピアノ椅子だと正しい体型を保つのが難しい。無理な体勢で演奏しなくてはいけないので、ライブが終わった後は肩とか背中とか腕がガチガチ。長年、身体のメンテナンスをお願いしている人に2時間かけてほぐしてもらっていたんです。でも、新しい椅子は座面が自由自在に動くので、どんな風に演奏していても身体の重心が安定している。ということは、これは私の推測なんですけど、常に横隔膜が正しい状態にあるんです。それまではピアノを弾いて歌うために姿勢を良くして、胸を張って、ちょっと腰を反らしていたので横隔膜が上がっていたと思うんですよ。今は横隔膜が常に定位置にあるので、人と話す時と同じ状態になっているんじゃないかと。だから、無理をしなくても声がポンと出るんです。
みんな見てねー!!ピアノ椅子をIngLIFE にしてから、より楽に弾けるようになりました。書き物をしてもZoomで2時間ミーティングしても腰痛ゼロです。 https://t.co/zZUoSfUjKK — 矢野顕子 Akiko Yano (@Yano_Akiko) November 24, 2022
ー椅子ひとつでそんなに違うものなんですね。
矢野:「ピアノを楽に弾くためにはどうしたらいいのかな?」と考えて椅子を変えてみたのですが、その椅子でツアーをやってみたら、ツアーが終わるまで全然声が変わらなかった。ライブが終わった時に身体が全然凝ってなくて、メンテナンスをお願いする必要が少なくなったんです。一体これはどうしたこと? 私、何食べた?って思っていたんですけど(笑)、どうやら椅子が原因だったみたいですね。
ー良い相棒を見つけましたね。
矢野:ingLIFE、最高です。
上原:矢野さんが宣伝したら売れそう(笑)。
矢野:コンサートでも椅子のことを話しているんですよ。「皆さん、この椅子はですね…….」って。それで実際に買われた方もいるみたいで、「コンサートの次の日にコクヨのショールームに行きました」っていうお客様もいらっしゃいました。
ー僕も矢野さんの話を聞いて座ってみたくなりました(笑)。
矢野:ぜひ、座ってみてください。ショールームは品川にございますから。ちょっとお値段ははりますが……。
ー値段がはっても一生ものだと思えば……。
上原:1個売れた!(笑)
ー矢野さん、勧めるのがお上手ですね(笑)。椅子と新作、両方おススメということで。
矢野:はい。どちらも間違いがないものなので、ぜひお試しください(笑)。
矢野顕子×上原ひろみ
『Step Into Paradise』
初回限定盤(SHM-CD+DVD):¥4,180 (tax in)
通常盤(SHM-CD):¥3,300 (tax in)
再生・購入:https://akiko-hiromi.lnk.to/StepIntoParadise
矢野顕子×上原ひろみ TOUR 2025
Step Into Paradise
2025年5月6日(火・祝)大阪・フェスティバルホール
2025年5月8日(木)愛知・愛知県芸術劇場 大ホール
2025年5月11日(日)東京・NHK ホール