台湾オルタナロックのアイコン・拍謝少年(Sorry Youth)が語る、情熱と未来の音楽

台湾発のオルタナティブ・ロックバンド「拍謝少年 Sorry Youth」が、2024年10月に東京・大阪でJAPAN TOUR 2024「Noise Apartment」を開催した。

日本でもますます存在感を増す台湾インディー音楽シーンにおいて、約20年間走り続けてきたオルタナティブ・ロックバンドである拍謝少年(Sorry Youth)。歌謡曲的なメロディラインに乗せて歌う台湾語の歌詞とエモ感溢れるロックサウンドを魅力に、台湾の大型音楽フェス「Emerge Fest.(浮現祭)」と「Megaport Festival(大港開唱)」などのメインステージを飾るほどに活躍している。その活躍の幅は海を越えて日本にも届いており、日本の音楽フェスにも多く参加するほか、昨年は4都市を回る日本ツアーを実施するなど、日本での活躍の幅も着実に広げている。今年は、8月にリリースした4thアルバム『噪音公寓/ Noise Apartment』を引っ提げて再び来日公演を敢行。エレクトロやトリップ・ポップなど新規のジャンルにも挑戦し、ますます成長を続ける彼らの現在地を感じられる、熱量のこもったパフォーマンスを届けてくれた。

そんなSorry YouthがRolling Stone Japanに初登場。台湾で走り抜けてきた彼らの20年、そして彼らの音楽を支える柱の一つでもある台湾語という要素などについて広く話を聞いた。

―昨日10月16日、新代田・FEVERでの拍謝少年(Sorry Youth)のライブを観ましたが、eastern youthからの影響を感じるような熱量を感じて。最近観たライブの中でも最もエネルギーを感じました。まず、こんなエネルギッシュなSorry Youthがどのように結成されたのか教えてください。

宗翰(チュンハン,Dr):僕とジャンジャンが高校の同級生で、大学進学を契機に台北に引っ越したのですが、そこでバンドをやろうということになりました。バンドをやるという面では、僕とジャンジャンは主に台湾のバンドからの影響が大きいと思います。八釐米天空、追麻雀、濁水溪公社、甜梅號、Tizzy Bac…。ポストロック、社会派など色々なジャンルかつ規模の大小も様々で、色々なものを聞いてきました。海外だとストロークスやリバティーンズなんか好きです。そんな大学生当時、まだ営業していた台湾にある伝説の老舗ライブハウス「地下社會 Underworld」で自分たちもライブをしたいと思って、インターネット掲示板でメンバーを募集して、維尼(ウェニ,Gt)が加入してバンドを結成しました。

ウェニ:僕はスマッシング・パンプキンズなんかも好きですね。「1979」という曲が好きで、彼らを聞いて自分もロックをしたいと思った時に、掲示板を見てメンバーと知り合って。そこから台湾のライブハウスにも行くようになって、台湾のバンドも聴くようになりました。

ジャンジャン:大学生当時は3人ともスタジオを借りるお金がなかったので、僕が通っていた大学の軽音サークルのスタジオに忍び込んで練習していました。大学生は早起きしないので、朝8時から11時までは僕らが自由に忍び込んで練習できる時間でした。そんな早起きバンドは全然ロックじゃないですよね(笑)。バンド結成当初は3曲くらいカバーしてみたのですが、技術的に難しくて、自分たちでも演奏できる曲を作りたいと思って作曲を始めました。

―結成当時、いきなり作曲するのは難しいのではないですか? 普通ならまずは作曲するよりも技術を磨くことに集中してしまうと思いますが。

チュンハン:一生懸命に先輩たちに追いつけるように演奏技術を磨くよりも、自分たちができることをやる曲を作ることを選んだ、ということでしょうね。バンドは2005年に結成で、1stアルバム『海口味』は2012年にリリースしたのですが、この7年間なんとなく演奏してライブを観ていただけではあったものの、実は徐々に色々なものを学んでいた時間だったようで。だからこそ自分たちらしい、ユニークな1stアルバムを作り出せたと思います。

ジャンジャン:オルタナティブロックはそんなに技術で勝負するジャンルではないですし、バンドをはじめた若い当時でも技術以外の何かで人を感動させられたというのがこのジャンルの魅力ですね。今となっては技術もついてきたと思いますし、技術にもこだわるようになってきましたけど。

―作曲作業はどのように分担しているのですか? 誰かが原曲を作っているのでしょうか、それともセッションなど通じて皆で作り上げていくのでしょうか。

ウェニ:最初の2枚のアルバムの時は、一緒にセッションして曲を作ることが多かったです。でも3枚目からは、誰かがベースとなるリフや歌詞などのアイデアを持ってくるものの、その曲に対する思い入れやアイディアが多い人が作曲全体を任せられるようになりました。なので、基本的には作業分担があるわけではなく、誰か一人が作ってきたベースに皆の意見を盛り込んでいくので、結局歌詞も曲も共作という形になっています。

ジャンジャン:3枚目から4枚目のアルバムでは、曲の作り方が多様になったということでしょうね。例えば、この曲は皆でジャムセッションで作るのが適しているとか、あの曲は個人のアイディアから発展させていくなど色々なアプローチが増えたというイメージです。

―3rdアルバム『歹勢好勢 / Bad Times, Good Times』から他のミュージシャンとのフィーチャリングが増えたのも、創作の多様化の影響ですか? 

ジャンジャン:3rdアルバムでは、音楽スタイルを色々と試したい気持ちも出てきた一方、聞き手がどのようにアルバムを一つの作品として聞くのかも考えるようにしたんです。例えばボーカル面だと、僕らは3人全員が歌えるわけですが、それだと単調になってしまうかもしれない。ゲストボーカルを追加することで、アルバム全体のバランスがどうなるのかなども考慮して、より完璧な一つの作品を作り上げようと思って、女性ボーカルとして陳恵婷さんや、メンバーが好きな濁水溪公社の小柯(柯仁堅)さんとのコラボを考えました。

―コラボの相手は何を基準に選んでいるんですか?

ジャンジャン:もちろん初めにメンバーで話し合いますね。そもそもコラボするべきか、コラボするならどの人に声がけをするべきなのか。

チュンハン:基本的には、自分たちで予め作った曲を基にその曲に合う人に声掛けをしています。例えば、このミュージシャンの歌声が好きだからとか、技術面でどうだから、その人とコラボする前提で曲を作ったりすることはないですね。たとえば、濁水溪公社の小柯さんとコラボしたのは、その当時作った楽曲「時代看顧正義的人」が政治的メッセージを持つ曲であることに加え、彼も政治的主張を盛り込んだ曲を作るバックグラウンドを持つ人だったことが理由にあります。

ウェニ:重要なことは、ゲストとして参加する人たちは、単に歌の技術が上手いからというだけでなく、台湾語(中国語に由来する台湾華語ではない)で歌唱するインディーミュージシャンの中で台湾語の音楽の分野で特に自身を表現することに優れた人々に声をかけているんです。

ジャンジャン(提供元:海口味有限公司)

―Sorry Youthの音楽の中では、台湾語という要素が重要な位置を占めていると感じました。台湾語に対する思いを伺いたいです。

ジャンジャン:実はSorry Youthは結成当時、インストバンドだったんです。そのうちバリエーションを増やそうと思ってボーカルのある曲も作るようになっていったのですが、その中で台湾語の持つ音の響きや味わいが自分たちの作る曲に適していると思ったんです。当時は、台湾語で歌うバンドもまだ多くなかったこともあって実験的に試してみたんです。台湾では家庭では台湾語を使って育つ人が多いものの、学校の授業では華語を求められることが多くて、歌謡曲のような要素もある曲の歌という意味では台湾語の方が適しているような気がしたんです。

ー台湾でも最近の若者は台湾語を話さないと聞きます。一方、日本でも多く開催されている台湾映画祭などのイベントでは、台湾語がメインの台湾の映画作品が上映されたりしていて。そういう意味でも、台湾の内外を問わず台湾語に対する意識が高まっているのかなと感じていました。

チュンハン:台湾語を大事にしようとする人たちは当然いて、実際、台湾語での演劇や子供向け絵本が多く作られたり、台湾語翻訳の作品も多く作られるなど台湾語に対する復興のような動きが結構あるんです。海外だと、以前50代くらいの日本人の女性と会ったことがあるのですが、彼女は私たちの曲を聴いて台湾語を学んでいると話していました。

チュンハン(提供元:海口味有限公司)

ジャンジャン:台湾の中での台湾語に対する意識というのは最近になって急に高まったものではなく、以前からずっと民族意識の一つとしてあるものだったと思います。自分たちが子供の頃に比べて多くの人が大学進学したり海外へ行くようになったり、インターネットの普及もあったりして、そういう中で台湾がどういう場所なのか、どんな文化を持つのかと振り返るきっかけになることが多くなったのだと思います。その中である種のアイデンティティが生まれ、それが台湾語を含めた民族意識に繋がっている部分もあるのかなと思います。

ウェニ:映画の話で言うと、日本でもたまに上映されるような台湾語の映画は、我々も生まれる前の時代の作品が多くて、昔の街並みが映し出されたり、あるいは戦争が題材の話だったりすると思うのですが、映画だとそういう世界観や主人公に没入できて、メッセージ性を感じられたりもしますよね。自分たちも台湾語の曲を作って、それをファンが聞いてくれて台湾語で作られた世界に没入し、皆に影響を与えられたらいいなと思っています。

ジャンジャン:僕らは映画も好きなので、映画監督に自分たちの楽曲MVを撮ってもらったりするんです。日本のリスナーは歌詞も大事にしていると思いますが、MVは日本語の歌詞もついているのでぜひ曲の世界観を感じてほしいですね。

―皆さんは音楽を通じて、台湾語を広めたいという思いを持っているのでしょうか?

チュンハン:いいえ、僕らは台湾語の教師でもなんでもありませんからね。ただ、Sorry Youthの曲をきっかけに自分でも台湾語を学ぼうみたいなことがあればいいのかなと思っています。

ジャンジャン:例えば若者がドライブするときに、日本ならもしかしたらくるりなんかを聴きながら車で歌ったりすると思うんです。僕らが若い時もそうで、台湾語の曲を車で皆で歌ったりしました。今でも曲を聴けば当時のことを思い出せます。そういう記憶をたどる要素の中の一つになるものとして、Sorry Youthは台湾語での曲を残したい。僕らが台湾語で歌うのは、たったそれだけのシンプルな理由です。

―音楽の話に戻しましょう。台湾は決して音楽市場の規模が大きくはない中で、Sorry Youthは2005年からインディーズバンドとして活動してきてなかなか苦労も多かったのではないかと思います。

ジャンジャン:別の仕事も当然掛け持ちでやっていましたね。2012年に1stアルバム、2017年に2ndアルバム『兄弟没夢不應該』と5年の間が空きましたが、その間はフルパートで働いて、夜はバンドの練習や計画を立てるという生活をしていました。2ndアルバムを発表した後の当時、台湾のインディー音楽市場も少しずつ発展してきたので、音楽一本で試してみようかとお互いに自然と話すようになって、自分たちでレーベルも立ち上げました。1、2年ほどでコロナ禍に見舞われたものの、どうにか生き残ることができたという感じです。

―台湾のミュージシャン、特にインディーズは海外志向が強いと思っていて、それは台湾の音楽市場の小ささに起因するのかなと思っていました。日本は音楽市場について言うと、内需だけで十分な規模もあるので無理に海外を目指す必要はなくて。一方、台湾のバンドは海外市場を目標としているのかなと。

ウェニ:バンドによって異なる選択をしているかもしれません。他の台湾のバンドは海外現地の言葉、あるいは歌詞など言葉を使わないスタイルで国際市場にアプローチしていて、海外に進出する条件を満たしていると思います。でも、僕らはそういうわけではなくて。海外ツアーはしますけど台湾語を使っていて、台湾人に台湾のことを聴かせたいという思いもあるので、わざわざ作詞・作曲時に海外市場を意識して歌詞や曲を変えることはないんですよね。

ウェニ(提供元:海口味有限公司)

―その中でも、Sorry Youthは日本に多く来て活動していますよね。日本には何か思いがあるんでしょうか?

ジャンジャン:日本はアジアの中で最も音楽ファンが多い国ですし、自分自身も邦ロックファンでもあるので、自分達自身の日本での可能性を試してみたいという思いもあるんです。市場という点で考えると、Sorry Youthは台湾内だけでもやっていける状態だと思いますが、台湾語はじめ台湾の要素を持って国際市場に挑戦してみたいという考えもありますね。

チュンハン:一方、特にアジア音楽シーンでは国を超えた交流が活発になっていて、日本、韓国、インドネシア、タイなんかからも多くのバンドが台湾に頻繁に来てライブをしています。台湾もまた原住民など多元的な文化を持つ場所ですので、様々な国の音楽を受け入れる土壌もあるわけです。原住民に至っては、自分たちの言語での音楽フェスも開催したりしています。今、この時代の文化を超えた音楽交流はより活発になっていて、欧米では大陸を跨ぐような音楽の往来は以前からあったと思いますが、アジアも同じような状況になっていますよね。

ジャンジャン:海外に出ていくという意味では、僕らがバンドをやってきた約20年間で台湾のインディー音楽業界が大きく成長してきたことも大きいと思います。インディー音楽はチケット販売の興行収入なんかもメジャー音楽に引けをとらないレベルになってきました。例えば、最近は周杰倫(中華圏で絶大な人気を誇るシンガー)のコンサートのKアリーナ横浜公演が開催されていましたが、お客さんの大部分は中国をはじめとする中華圏の人たちだったみたいです。でも、台湾のインディーバンドが日本でツアー公演を行うと、日本人のお客さんも多く来てくれます。「BiKN Shibuya」のように台湾を含むアジアのインディー音楽が集うフェスでも、日本の音楽ファンが集まってくれていますよね。そのように台湾のインディー音楽が海外でもファンを集められるレベルまで高まってきたことが大きいです。

―たしかにここ数年の台湾インディー音楽の認知度・解像度は日本でも高まってきています。台湾音楽シーンや取り巻く環境が変化する中で、Sorry Youthがバンドとして変わっていないこともありますか?

ジャンジャン:うーん、やはり変わってないのはメンバーですね。初めて組んだバンドでメンバーも変わっていない、初恋の相手と結婚したようなものです(笑)。普段からメンバー同士でよく話し合いをするんです。常にお互いやりたいことがあるので、アルバムもこれまで4枚リリースしてきましたけど、まだまだ新しいアイデアが生まれてくるんです。1stアルバムを出したときには、まさか4枚目まで出せるとは思いませんでしたし、台湾語で曲を書き続けられるとさえ思いませんでした。それも皆のやりたいことがどんどん出てくるからですよね。

―普段からコミュニケーションをとれる、変わらない関係性も大事でしょうね。

ジャンジャン:僕らは今でもよくお酒を飲みながら一緒に過ごしているので、音楽のパートナーとしてだけでなく友人としての関係が下地にあるのが大きいですね。

チュンハン:最近台湾でもブラーのドキュメンタリー映画を見たのですが、彼らもメンバーは子供の頃から友達で、バンドデビュー後、計10年近くバンド活動休止を経てもまた再始動し、一緒にバンドとして演奏できているんですけど、僕らも同じようなものです。日本でもASIAN KUNG-FU GENERATIONなんかも学生時代の友人ですよね。Megaport Festivalの時にASIAN KUNG-FU GENERATIONのメンバーとご飯を食べましたが、彼らは音楽を通じた関係性だけでなく友人としても非常に親しい関係なんだと感じました。音楽だけでなく、互いの生活においても信頼し合っていることが非常に重要ですね。

―20年もメンバーを変えずバンドを続けるなんて、誰でもできることではないでしょうね。これからもバンドを続ける上で、挑戦していきたいバンドの目標などはありますか?

ジャンジャン:日本で言うと今回は東阪ツアーだったので、もっと地方で行われる音楽フェスやイベントにも出演してみたいですね。去年は「ITAMI GREEN JAM」でbetcover!!やTENDOUJIのステージを見たんですけど、迫力があってかっこよかったんです。そういう出会いもあるからSorry Youthもどんどん日本各地で開かれるイベントに参加したいですね。そして、彼らにも台湾にもライブに来てほしいです。

ウェニ:Sorry Youthは台湾では普段VJや照明など固定のチームがあるのですが、今回の日本ツアーではPAしか同行できなかったんです。いつかフルセットの固定チームを連れてくるので、また日本でも僕らのライブを見に来て一緒にライブで盛り上がれたらなと思っています。また日本に来れる日が待ち遠しいです。

<リリース情報>

Sorry Youth拍謝少年

4thアルバム『Noise Apartment』

配信中

https://bfan.link/noise-apartment

Sorry Youth拍謝少年公式HP https://www.sorryyouth.com