クインシー・ジョーンズが手がけた名曲・名盤20選

2018年、ニューヨーク誌とのインタビューでクインシー・ジョーンズはとりわけ饒舌だった。波乱万丈なキャリアで成し遂げた最大の偉業はと訊かれると、「これまでやってきたことすべて」と答えた。まったくもって同感だ。11月3日に91歳で永眠したジョーンズが残した唯一無二のレガシーを見ればわかる。

【画像】マイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの2ショット

1933年この世に生を受け、ジャズトランペッターとしてキャリアをスタートし、努力の末にディジー・ガレスピーのバンドに加入。その傍らでプロデューサー、作曲家、アレンジャーとしての腕を磨き、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、レイ・チャールズにいたる面々に楽曲を提供した。そのうえ早い段階からロックンロールにも携わり、彼が指揮とアレンジを担当したビッグ・メイベルの楽曲「Whole Lotta Shakin Goin On」は、1955年のリリースから2年後にジェリー・リー・ルイスによってカバーされた。クインシー作品が一世を風靡し始めた1960年初期には、無名だったレスリー・ゴーアのデビュー作の舵を取り、ゴーアを一躍ポップスターの座に押し上げた。このころからグラミー賞にもノミネートされ始め、最終的に28部門を獲得した(現存するアーティストのグラミー賞最多受賞記録で、当時タイ)。

60年代にはサウンドトラックの作曲家として精力的に活動し、自らもアーティストとしてアルバムもリリースした。1974年に脳卒中であわや命を落としかけたが、すぐに復帰すると、歴史に名を遺す1979年のアルバム『オフ・ザ・ウォール』を皮切りに、独り立ちして大スターの1歩を踏み出すマイケル・ジャクソンの華麗なスタートをお膳立てした。その後もスタジオ技術、トップレベルの作曲力、圧倒的なアレンジ力を革新的に融合して――その最たる例が『スリラー』だ――80年代以降の音楽シーンをがらりと一変させた。21世紀のポップとR&Bは、ジョーンズの影響なしには語れない。以下、彼が数々のアーティストに提供した名盤や楽曲を見ていこう。

レイ・チャールズ「The Ray」(1957年)

意外なことに、ジョーンズとレイ・チャールズは仕事面ではそこまで親しくなかった。10代のころにシアトルで出会った2人は生涯にわたる友情を育んだ。レイ・チャールズはジョーンズの自叙伝で、「クインシーには人好きのするところがあった。彼は天才だった」と振り返っている。「僕らはすぐに意気投合した」。2人がタッグを組んだ数少ない作品のひとつが、1957年のアルバム『The Great Ray Charles』だ。2人の初コラボレーション作品をプロデュースしたのはアトランティック・レコーズのアーメット・アーティガンとジェリー・ウェクスラーだったが、ジョーンズもオープング曲「The Ray」で作曲とアレンジに加わっている。ディープでスイング感あふれるインストゥルメンタル曲は、サックス奏者のデヴィッド・”ファットヘッド”・ニューマンとベーシストのオスカーピットフォードのサポートもあって、チャールズのジャジーな側面をのぞかせている。ジョーンズの思い入れの深さを考えれば、「The Ray」はチャールズの非公式テーマソングと言っても過言ではない。

リトル・リチャード『The King of the Gospel Singers』(1962年)

アルバム『The King of the Gospel Singers』、通称『It's Real』がリリースされた1962年、リトル・リチャードは世俗的なロックサウンドから高揚感あふれるスピリチュアルなゴスペル音楽に移行する最中だった。当時アフリカ系アメリカ人アーティストの多くが黒人聖歌から世俗音楽へと転向していたが、リチャードは時代の流れと逆行した――往々にしてリチャードのゴスペル作品はそこまで出来が良くなかったこともあり、こうした動きにファンは困惑した。救世主として現れたのがジョーンズだった。アルバムのライナーノーツでプロデューサー本人もこう語っている。「リトル・リチャードとニューヨークで一緒に仕事ができて、本当に楽しかった。彼は非常に信心深いのと同時に、ロックとソウルの感覚も失っていないことに気づいた」。壮大でソウルフルな「(There Will Be) Peace in the Valley (For Me)」は言わずもがな、「Joy Joy Joy」をはじめとする楽曲で、ジョーンズは文字通り往年の熱情的なリチャードを呼び覚ました。

ディジー・ガレスピー『New Wave』(1963年)

「ディジーは12歳の頃から大ファンだった。彼はスタイル、ソウル、テクニックを備えた本物だった」と、ジョーンズは自叙伝で語っている。1956年からジョーンズはジャズトランペッターとしてガレスピーと共演し、次第に巨匠の音楽ディレクターを務めるようになった。1963年には、かつてのボスのアルバム『New Wave!』をプロデュースするまでに成長した。アルバム自体はさして目立つところはないが、プロデュース的に見ると、アントニオ・カルロス・ジョビンのボサノバの名曲を力強くカバーした「One Not Samba」「Chega de Saudade」など、ラテンやアフロキューバン時代のガレスピーを鮮やかにとらえている。当時レスリー・ゴーアとポップミュージックで最初の成功を収めようとしていたジョーンズは、ジャンルのクロスオーバーという美学に磨きをかけていた。「結局はどれも音楽だ――レスリー・ゴーアだろうと、ガレスピーだろうと、12音階を扱うことには変わりない。ずっと同じスタイルに固執していると、面白くなくなる。自分はあちこち走り回って、つねに新鮮な気持ちでいたいんだ」。

レスリー・ゴーア「涙のバースデイ・パーティ」(1963年)

デモテープがジョーンズの手に渡る前のレスリー・ゴーアは、どこにでもいる郊外のティーンエイジャーだった。ニューヨークの大手レコードレーベルでは初めての黒人副社長としてマーキュリー・レコーズに迎えられたジョーンズは、当時A&Rとプロデューサーを兼任していた。サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、ニーナ・シモンといったジャズシンガーとの仕事がメインだったが、クインシーはゴーアに可能性を見出した。「彼女は独特のメロウな声の持ち主で、確立された大方のロックシンガーとは違い、音感も良かった。それで彼女と契約した」と、本人も自叙伝で振り返っている。こうした共同創作が最初に身を結んだのが、若さ溢れる陽気なヒット曲「涙のバースデイ・パーティ」だった。ビートルズが加速させた新時代の若者カルチャーを背景に、ゴーアは一夜にしてスターとなった。生前のゴーアは2006年、「私のデモを聞いたクインシーから電話がかかって来て、断れないような話を持ちかけた」とローリングストーン誌のアンソニー・ディカーティス記者に語った。「クインシー・ジョーンズのような天才には敵わないわ」。

レスリー・ゴーア「You Dont Own Me」(1964年)

レスリー・ゴーアの代表曲「You Dont Own Me」は、ジョーンズからゴーアに提供されたのではなく、その逆だった。ゴーア本人がアンソニー・ディカーティス記者に語った話では、キャッツキルでの公演後、作曲家のジョン・メダラとデヴィッド・ホワイトから提供され、「びっくり仰天した」そうだ。「自分でもこの曲にほれ込んだのが分かった。2人には月曜にニューヨークに戻ってもらい、マーキュリーで落ち合って、クインシーに曲を聴いてもらうことにした。彼も私と同じように気に入ってくれた」。持ち前のヒットをかぎ分ける能力に加え、当時のジョーンズはジャズや音楽理論を胸焦がすポップに昇華させる能力を急速に身に着けていた。その2つが「You Dont Own Me」をヒットさせた主な要因だった。オーケストラをアレンジしたドラマチックな楽曲は瞬く間にヒットしただけでなく、初期フェミニズムのアンセムにもなった。ゴーアがゲイを自認するのは数年先の話だが、自己肯定という曲のメッセージは即座に世界中に共鳴した。ゴーアが他界した2015年、グレイスがこの曲をカバーしてヒットしたことからも証明済みだ。ゴーアはディカーティス記者とのインタビューでこう語っている。「クインシーは偉大な指導者、素晴らしい恩師だったけれど、彼は男性目線だった。女性の視点には立っていなかった。だから私もこういう問題と葛藤している気分だった。そもそも自分は社会でどんな人間なのか? 「You Dont Own Me」のおかげで、自分の中でもはっきりしたわ」。

アレサ・フランクリン『Hey Now Hey (The Other Side of the Sky)』(1973年)

「クインシー・ジョーンズとの共同作業は本当に楽しかった――最高だった」。ジョーンズがプロデュースしたアルバム『Hey Now Hey (The Other Side of the Sky)』のリリース直後、アレサ・フランクリンは1973年にブルース&ソウル誌とのインタビューでこう語っている。やや弁解がましく聞こえるのは、少なくともこれまでのアルバムと比べて、ファンや批評家から大絶賛されたわけではなかったせいだろう。あれから『Hey Now Hey (The Other Side of the Sky)』のイメージも見直され、正しい評価を受けている。アトランティック・レコーズ時代の初期作品と比べれば、全体的に荒々しさや力強さは劣るものの、多種多様な雰囲気やサウンドが盛り込まれている。アルバムとは別にリリースされた(やはりジョーンズがプロデュースした)シングル「Master of Eyes (the Deepness of Your Eyes)」もグラミー賞を受賞。「自分なりのやり方で掘り下げたいと思ったし、リスナーもほんの少し冒険してくれるんじゃないかと期待していた」とフランクリンは言葉を続けた。「アルバムは大成功だった。でも世間は、ファンクやブルースの楽曲をやってほしがっていたみたい。私は自分が気に入った素材で、ちょっと変わったことにトライしたかった」。6年後にクインシーはマイケル・ジャクソンの手ほどきをすることことになるが、それ以前から大物アーティストの再構築を導く才能に磨きをかけていたのだ。

ブラザーズ・ジョンソン「ストロベリー・レター23」(1977年)

ジョーンズはチャカ・カーンの妹タカ・ブーンのデモテープで、演奏に参加していたギタリストのジョージとルイスのジョンソン兄弟を偶然知った。2人の演奏をいたく気に入ったクインシーは、2人をバックバンドとして迎え入れ、映画『ルーツ』のサントラにも起用した。1976年にブラザーズ・ジョンソン名義でデビューした際には、驚くほどファンキーなデビューアルバム『Look Out for #1』をプロデュースした。1977年までは鳴かず飛ばずだったが、「ストロベリー・レター23」のリリースで大ブレイク。ディスコとパンクが世間を騒がせていた時代、シャギー・オーティスが1971年にリリースしたスローで官能的なソウルをカバーしたこの曲は聴衆を魅了した。「1つのグルーヴに固執したくなかった。次のアルバムでもファンクを貫くほうが楽だったかもしれないけど」と、ジョンソン兄弟はブルース&ソウル誌とのインタビューで語った。「そこがプロデューサーとしてのクインシーの腕の見せどころだ。2枚目のアルバムの在り方についてみんなで話し合ったんだけど、巷の音楽が今どうなっているのか、この先どこに向かおうとしているのか、アンテナを張らなきゃいけないとクインシーが指摘してくれた」。その点ではジョーンズも、まだスタートを踏み出したばかりだった。

マイケル・ジャクソン『オフ・ザ・ウォール』(1979年)

その前からジョーンズとマイケル・ジャクソンは著名なドル箱アーティストだったが、『オフ・ザ・ウォール』を境に、2人とも猛スピードに高みへと昇って行った。1979年当時、ディスコはレコードを大量に焼却されるなどの憂き目に遭っていた。『オフ・ザ・ウォール』はそんなディスコスタイルを解体し、華美な部分をそぎ落として、生まれ変わらせることができると証明した。映画『ウィズ』で19歳のジャクソンと初めて一緒に仕事した時のことを、ジョーンズは自叙伝でこう語っている。「(ジャクソンの)シャイな仮面の下に、完璧さを求める激しい炎と、世界最大のエンターテイナーになりたいという底なしの野心を秘めたアーティストがいた」。クインシーは愛情こめてスメリーと呼ぶジャクソンを自らの影響下に置き、1979年のソロアルバム『オフ・ザ・ウォール』をポスト・ディスコ時代の方程式に昇華させた。アルバムは「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」をはじめ数々のヒット曲を生み、名実ともに80年代を代表するサウンドを作り上げ、『スリラー』への道筋を作った。ジャクソンは『オフ・ザ・ウォール』について、「クインシー・ジョーンズのプロデュースで、みんな楽しんでいた」とブルース&ソウル誌に語っている。「自分が関わった中でも一番スムーズに進んだアルバムだった。愛に満ちあふれ、最高だった。共同作業もすごく楽にできた」。そうした共同作業の自由な雰囲気と喜びは、後世に残るグルーヴ、フレーズ、メロディの隅々にあふれている。

ルーファス&チャカ・カーン『Masterjam』(1979年)

『オフ・ザ・ウォール』が世に出て間もなく、そこまで騒がれはしなかったものの、傑作と呼ぶにふさわしいルーファス&チャカ・カーンの『Masterjam』がリリースされた。ファンクのベテラン軍団から全権をゆだねられたジョーンズはしゃれた最新のポスト・ディスコを提供し、同時にチャカ・カーンもディスコスターとして注目を浴びた。カーンはブルース&ソウル誌とのインタビューで、ジョーンズのスタジオ作業のやり方を「完璧の追求」と呼び、太鼓判を押した。同じくキーボード奏者のケヴィン・マーフィーもブルース&ソウル誌にこう語っている。「クインシーと一緒に仕事できたことは、俺たち全員にとって素晴らしい経験だった! 彼は天使のようないいやつだった。俺は全く別の結果を予想していた――とっつきにくい奴じゃないかと思っていたんだ――蓋をあけてみたら真逆だった。彼が陣頭指揮を執って収録を進めた――俺たちと息がぴったりで、みんなで集まってラップした」。当時ジョーンズはスタジオでは集中し、とことん先見の明を発揮するのと同時に、パーティのような雰囲気も作り出した。そうした賑やかさは、ダンサブルを絵にかいたような『Masterjam』の全編に流れている。

ブラザーズ・ジョンソン「ストンプ!」(1980年)

ジョージとルイスのジョンソン兄弟は、70年代後期のブレイク期もジョーンズと共同作業を続け、『オフ・ザ・ウォール』や『Masterjam』をはじめとするインシー作品の数々に兄弟そろって、あるいはピンで参加した。だが1980年に再びブラザーズ・ジョンソンとして脚光を浴びることになる。ディスコ特有の心地よさと、80年代の大胆なニューファンクを絶妙なバランスで組み合わせたシングル「ストンプ!」が、その年のヒットチャートを席巻。一度聴いたら耳から離れない、めくるめく週末を求める掛け声の合間に、短いながらもジョージとルイスの驚異的ソロプレイが光り、ジョーンズが最初に2人を見染めた神業を思い起こさせる。「クインシーはいろんなことに気づかせてくれた。おかげで今ではあらゆるジャンルの音楽を聴くようになった。昔はもっと視野が狭かったね」と、ジョーンズの愛弟子はブルース&ソウル誌に語っている。「クインシーは僕らのお手本だ。いつか彼と同じところに行きつきたい。責任も多いだろうけど、心から彼を尊敬している」。ブラザーズ・ジョンソンはジョーンズほど成功することはなかったが、すでにポップ史に残る偉業を残した。

ジョージ・ベンソン『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』(1980年)

ジョーンズ同様、ジョージ・ベンソンもジャズとポップの垣根を越えた。60年代にブラザー・ジャック・マクダフやマイルス・デイヴィスのギタリストとして名を馳せた後、1976年のアルバム『ブリージン』でブレイクし、フュージョンの波に乗った。マイケル・ジャクソンやブラザーズ・ジョンソンとは違い、ベンソンは1980年の『ギヴ・ミー・ザ・ナイト』でジョーンズと組む以前から確立したアーティストだった。このアルバムがグラミー賞3部門を受賞し、ミリオンセラーを達成したのは、なめらかでグルーヴィなタイトルソングによるところが大きい。すでに経験豊富なベンソンだったが、ジョーンズの冴えわたる勘には頭が上がらなかった。「クインシーから完成したミックスが送られて来て、意見を求められた――ある程度まではね」と、笑ながらベンソンはNME誌に語った。「あらさがしだという人もいるだろうが、ほんの些細なこと……タッチが甘すぎるとか、甘さが足りないとか……「Love Ballad」もそうした理由で却下された。スロー過ぎるという理由でね……メロディ、演奏、グラミーも受賞した、完璧な曲……なのにアルバムから落とされた! あの曲じゃ踊れないっていう理由でね!」。

レナ・ホーン『The Lady and Her Music』(1981年)

「音楽はまさに感情の積み重ねだ」。ジョーンズは2017年のローリングストーン誌とのインタビューでこう語っている。「なにより考慮しなければいけないのは愛情、敬意、そして信頼だ」。ことレナ・ホーンに関しては、ジョーンズの愛情、敬意、信頼ははるか昔にさかのぼる。1961年、ホーンと夫のレニー・クレイトンは、ジョーンズの1961年のアルバム『ザ・クインテッセンス』のライナーノーツに寄稿。ジョーンズの映画音楽進出も後押しした。そのお礼に、ジョーンズは収録曲のひとつに「For Lena and Lenny」というタイトルを付けた。その後ジョーンズが音楽ディレクターとプロデューサーを務めた1978年の映画『ウィズ』では、ホーンが良い魔女役で出演した。ホーンが自身の半生をつづったブロードウェイ・レビュー『Lena Horne: The Lady and Her Music』のアルバムを製作するにあたり、ジョーンズにお声がかかったのは自然な流れだった。このアルバムをきっかけに、ジョーンズは業界屈指のプロデューサーとして新たな地位を得ることになる。ジョーンズが司会を務めた第24回グラミー賞で、このアルバムは最優秀ミュージカル・シアター・アルバム賞を受賞。レナ・ホーンが他界した3年後の2013年、ジョーンズは「彼女は人生で敬愛するレジェンドの1人だった」とFacebookに投稿した。「僕たちはこれからもずっと、素敵な”姉御”と”付き人”です」。

パティ・オースティン『Every Home Should Have One』(1981年)

パティ・オースティンはジョージ・ベンソンの「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」のバックシンガーだったが、ジョーンズはそれ以前から彼女と知り合いだった。4歳でアポロシアターのステージを踏んだ神童は、父親がジャズトロンボーン奏者のゴードン・オースティンだったこともあり、ジョーンズとは生まれた時からの付き合いだった。実際ジョーンズは彼女の名付け親だった――そうした家族ぐるみの付き合いは、自然な流れでコラボレーションに発展。すでに31歳で立派なキャリアを築いていたオースティンは、1981年のアルバム『Every Home Should Have One』でジョーンズとタッグを組んだ。ジョーンズのヒットメーカーの才能がいかんなく発揮され、オースティンとジェイムズ・イングラムがデュエットしたしなやかな「Baby Come to Me」は1982年にシングルチャート1位にランクイン。オースティンは音楽サイトBlackAmericaWeb.comで恩師について語り、音楽業界は「クインシー大学(QU)だわ!」と述べた。このアルバムでジョーンズはプロデューサーを務めただけでなく、自ら率いるレーベルQwest Recordsからリリースさせた。ちなみにこのレーベルには、ベンソンからシナトラ、ニューオーダーも所属していた。

ドナ・サマー『恋の魔法使い』(1982年)

「実を言うと私はまったくノータッチで、クインシーがあのアルバムをプロデュースしたの――私らしくないけど、当時は妊娠中だったから、ほとんど彼のアルバムみたいなものよ」。ドナ・サマーは1982年にリリースされたアルバムについて、NME誌にこう語っている。誰もが認めるディスコの女王は、ディスコが幕を閉じた80年代初期に返り咲きを果たそうと必死だった。ジョーンズはまさにうってつけで、彼が『恋の魔法使い』の指揮を執ったおかげで、サマーはジョルジオ・モロダーのプロデュースによる過去の作品から決別を果たした。本人が望んだような復活劇ではなかったが、グラミー賞にもノミネートされたシングル「恋の魔法使い (Finger on the Trigger)」や、ジョン&ヴァンゲリスのレゲエ調のステイト・オブ・インディペンデンス」のカバー曲など、秀作もいくつか収録されている。とくに後者は、マイケル・ジャクソン、ディオンヌ・ワーウィック、ケニー・ロギンス、スティーヴィー・ワンダーといったスター勢ぞろいのバックコーラスが目玉だ。自らの知名度で豪華メンバーを集めたのかというNME誌の質問に、サマーの答えは「いいえ、クインシーよ。クインシーが電話すると、みんな途中で手を止めるの」。そうしたジョーンズの超人能力は3年後、有名人が大集合した史上最大のプロジェクトUSA for Africaで発揮されることになる。

マイケル・ジャクソン『スリラー』(1982年)

『スリラー』はまさに歴史的事件だ。それだけに骨の折れる作業だった。「「今夜はビート・イット」の仕上げにかかっていた時は、3つのスタジオを稼働させていた」とジョーンズはローリングストーン誌に語っている。「エディ・ヴァン・ヘイレン用のスタジオ、マイケルが段ボールの管で音入れするスタジオ、それにミキシング用のスタジオ。全員が5日間、朝から晩まで寝る暇もなく作業していた。途中でスピーカーがオーバーヒートして火を噴いたほどだ!」。同じく『スリラー』も1982年のリリースと同時に火を噴き、ジャクソンの最高傑作としてはもちろん、社会現象にもなった。ジョーンズとジャクソンがそれぞれキャリアで身に着けた、製作、アレンジ、作曲、大衆の嗜好、音楽業界についての知識が結集されている。ジャンルを融合し、垣根を超え、ジャクソンはキング・オブ・ポップに生まれ変わった。長年にわたってジョーンズと共作していたロッド・テンパートンの助けを借りて、ジャクソンはポップのDNAを書き換えた。結果として完成した作品は今もなお、おそらくこの先も、斬新かつ刺激的な響きを放つだろう。だが終始円満というわけでもなかった。ジョーンズは最近行われた音楽サイトVultureとのインタビューで、「こんなことを公にするのは気が引けるが、マイケルはパクり魔だった。いろんな曲から拝借していた」と語っている。その例として、同じ年にリリースされた自身のプロデュース作「ビリー・ジーン」とドナ・サマーの「ステイト・オブ・インディペンデンス」のベースラインが酷似している点を挙げた。「譜面は嘘をつかないよ」とジョーンズは続けた。「彼は名うての策士だった」。一方自分は、終始芸術性を目指していたと言い切った。「金や名誉のために音楽を作ったことは人生で一度もない。『スリラー』でもそうだ。とんでもない。金のことを考えた瞬間、神はその場から立ち去ってしまう」。いずれにせよ、『スリラー』は今も昔も歴代セールスNo.1のアルバムだ。

ジェームズ・イングラム「Its Your Night」(1983年)

『スリラー』でもとくに輝きを放つ曲に、「P.Y.T. (Pretty Young Thing)」がある。共同作曲者はそこまで有名ではないジェームズ・イングラムだ。ジョーンズの1981年のソロアルバム『愛のコリーダ』に参加して以来、ファンの間では知られた存在で、グラミー賞にノミネートされた「ワン・ハンドレッド・ウェイズ」ではリードボーカルを務めた。ジョーンズにとってイングラムの声は最高の楽器だった。悪目立ちせず、穏やかで、感情を単純明快に伝えてくれる。シカゴ・トリビューン誌に語ったイングラムの発言からは、自他ともに認める謙虚な性格がうかがえる。もともとジャズ・キーボード奏者として生計を立てていたイングラムは、ジョーンズから一緒に仕事をしないかと持ち掛けられた時のことをこう振り返る。「クインシーの電話を途中で切ってしまってね。自分は歌を歌ったことなど一度もなかったし、まるで本気にしていなかったんだ。『ジェームズ、さっきの電話はクインシーからよ』と妻に言われたよ。彼が電話を掛け直してくれて、そこから話が進んだ」。ジョーンズは『愛のコリーダ』のヒット後、イングラムのデビューアルバム『Its Your Night』のプロデュースに合意した。1983年にリリースされたアルバムには、グラミー賞を受賞したマイケル・マクドナルドとのデュエット曲「Yah Mo B There」も収録されている。流れるようなジョーンズのR&Bの一面が垣間見れる秀作だ。

フランク・シナトラ『L.A. Is My Lady』(1984年)

ジョーンズとシナトラの出会いは1958年。駆け出しだったジョーンズは、モナコのコンサートでシナトラのバックオーケストラに加わらないかと持ち掛けられた。すぐに親しくなったわけではないが、60年代初頭にはすでにシナトラの楽曲でプロデュースやアレンジを任されており、ラット・パックともつるむようになっていた。音楽サイトVultureで本人も語っているように、「ベガスにいた1964年は、黒人が入れないような場所がいくつかあった。でもフランクは僕のために手を回してくれた。物事を変えるには、誰かがそうやって手を回す必要があった。白人が他の白人に、「人種差別者として生きていきたいか? それは本当にお前の信念か?」と口添えしなきゃならなかった」。ジョーンズとシナトラの友情が再燃したのは、1984年の『L.A. Is My Lady』をプロデュースした時だった。結果的にシナトラ最後のソロアルバムとなったが、まさにふさわしい幕切れだった。和やかで、温かみにあふれ、アレンジも完璧なこのアルバムで、シナトラはジャズのスタンダード「マック・ザ・ナイフ」をカバーし、曲中で旧友ジョーンズの名前を挙げて謝意を示している。

USA for Africa「ウィー・アー・ザ・ワールド」(1985年)

「『ここから先エゴはお断り』という張り紙をドアに張る必要があった」とは、ジョーンズの自叙伝からの一節だ。ジョーンズが言及しているのは、のちにUSA for Africaの「ウィー・アー・ザ・ワールド」となるレコーディングのことだ。スター勢ぞろいで1985年にリリースされたシングルは、アフリカで飢餓に苦しむ人たちを救うチャリティソングとして製作された。ジョーンズはプロデューサーとして起用され、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが作曲を担当――その後ブルース・スプリングスティーンからティナ・ターナー、ウィリー・ネルソン、ダン・エイクロイドなどそうそうたるメンバーが歌で参加した。楽曲自体は当たり障りなく、良くありがちな一致団結・お涙頂戴のチャリティシングルで終わったが、ジョーンズは大所帯を取り仕切るという超人業をやってのけた。キャッチーなメロディは言わずもがな、一貫性が取れていることからも、ジョーンズの手腕がミキサー卓だけでなく、高慢なスターの扱いにも長けていたことがうかがえる。「追いつめられると、誰でもみんな1枚1枚仮面をはがしていくものさ」と自叙伝の中で本人は皮肉たっぷりに書いている。だが善意から生まれた大義の力を後押しするために、「人間の愛と、才能と、慈悲を集めて複雑かつ豊かなタペストリーを織り上げたあの夜の喜びは、それ以前も、それ以降も感じたことがない」とも語っている。

マイケル・ジャクソン『バッド』(1987年)

待ちに待った『スリラー』に続くマイケル・ジャクソンの次回作。それゆえに、『バッド』への期待感は桁違いだった。幸いなことに、その期待は無事叶えられた。『バッド』でジャクソンはカリスマ性を遺憾なく発揮し、これまで以上に自らの半生を反映させ、当然ながらジョーンズと共同でプロデュースも手がけた。とはいえ、それもジョーンズの功績だ。「(ジャクソンの生活の)トラブルがいっぺんに吹き出し始めた時期だった。それでこう言ったんだ、全曲自作して、自分をさらけ出すアルバムを作る時期だと思うよ、とね。それが『バッド』での僕からのアドバイスだった」と、本人もローリングストーン誌に語っている。動機が何であれ、アルバムではトラブル続きのジャクソンの内なる感情がこれまで以上に露わになり、『スリラー』以降の嵐のような日々の胸の内がうかがえる。まばゆいほどにロマンティックな「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」から、自分を見つめなおすバラード「マン・イン・ザ・ミラー」にいたるまで、『バッド』はジャクソンとジョーンズのめくるめく共同作業の年代史でもある。2人の巨匠は力を合わせてポップミュージックの姿、サウンド、感性を変えたのだ。同時に2人の最後のコラボレーションでもある――最高の幕引きだ。

テヴィン・キャンベル「ストロベリー・レター23」(1991年)

1991年初頭にカラー・ミー・バッドの「I Wanna Sex You Up」がヒットしたのは、ジョーンズがプロデュースした「ストロベリー・レター23」のサンプリングが前面に押し出されていたことによる。おそらくそれもあって、ジョーンズは新たな秘蔵っ子、10代のイケメンR&Bシンガーのテヴィン・キャンベルに「ストロベリー・レター23」をカバーさせた。1991年末、この曲が収録されたデビューアルバム『T.E.V.I.N.』がリリースされる。キャンベルはジョーンズの1989年のアルバム『バック・オン・ザ・ブロック』のメインボーカルに弱冠12歳にして抜擢され、初めて脚光を浴びた。次期マイケル・ジャクソンの萌芽を見出したジョーンズは、ポップ街道にキャンベルを導くことに決めた。思惑は見事成功し、『T.E.V.I.N.』はプラチナアルバムとなって、キャンベルは一躍スターの座に上り詰めた。『バッド』以降アーティストへの楽曲提供を控えていたジョーンズは、かつてレスリー・コーアやブラザーズ・ジョンソン、パティ・オースティン、ジェームズ・イングラムの時とは違い、『T.E.V.I.N.』では直接手を下さず、代わりにエグゼクティヴプロデューサーとして参加した――ただしニュージャックスイング色の濃い「ストロベリー・レター23」では、自らプロデュースを買って出た。ジョーンズ作品の中で飛びぬけた作品というわけではないが、キャンベルのカバー曲でジョーンズのキャリアはひとつの区切りを迎え、ポップ界最大にして革新的なヒットメーカー、もっとも寛大な指導者の1人であることが再確認された。あるいは、1991年に音楽番組「Video Soul」でキャンベルが感謝をこめて語った言葉を借りれば、「クインシーを一言で表現するなら、『天才』だ」。

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