著者プロフィール 小林国之さん

1975年北海道生まれ、北海道大学大学院農学研究院准教授。北海道大学大学院農学研究科を修了後、イギリス留学、助教を経て2016年から現職。主な研究内容は農村振興に関する社会経済的研究。また、欧州の酪農、生乳流通、食を巡る問題に詳しい。
著書に「農協と加工資本 ジャガイモをめぐる攻防」(日本経済評論社、2005年)、「北海道から農協改革を問う」(筑波書房、2017年、2018年度「JA研究賞」受賞)ほか。

「牛乳から世界がかわる」(農山漁村文化協会)2024年9月5日初版発行、1760円(税込み)

書籍に込めた「こんな職業選択もあるよ」というメッセージ

── 小林さんはこれまでに、多くの著書を手掛けてきています。改めて、一般向けの本書を執筆した経緯を教えてください。

実は、一般書を丸ごと一冊書いたのはこれが初めてです。「‼」というウェブメディアで連載を担当してくれた、編集者の柿本礼子(かきもと・れいこ)さんに「一般の方向けに本を書いてみませんか」と勧められたのがきっかけです。以前から、農業を職業として選ぶきっかけになる発信、食べる人が農業を身近に感じるような発信をしたいと考えていたので、「農家になりたい君へ」という仮のタイトルがすぐに浮かびました。

──座学編には先入観に左右されないための現場の実情と解説がわかりやすく書かれており、専門書が苦手な私にもちょうどよかったです。

企画段階で高校生に向けて書くつもりだったので、本書で取り扱っているテーマは学生たちに「何が知りたい?」と聞いて決めたんですよ(笑)。農学部だからといって学生が農業の現場を知っているとは限りません。特に私の教室(農業経済学)で酪農に詳しい学生はまれなので、基礎的な説明を踏まえて彼らの疑問に答える形で書きました。ですから、高校生に限らずどなたにも読みやすい内容になったのではと思います。

──酪農を生活者に伝えたい。そのあたりの思いは「あとがき」にもありますね。

長年、酪農家の皆さんのお話を聞いてきた私から見ても、酪農は確かに大変な仕事だと思います。その一方で、携わると人生が豊かになる仕事であり、酪農を通して視野を広げることもできます。これは農業全般にも当てはまります。農業を遠いものに感じる人でも、実は食べることで農業とつながっていて、とても身近な関係にある。

私の周りには農学部の学生をはじめ農業に関心があり、就農したいという人も時折いるのですが、実際には就農を諦める人も少なくありません。親が心配する、経済的安定が欲しいなど理由はいろいろですが、根っこに共通しているのは農業と私たちの「遠さ」だと思います。その意味で、本書はこれから仕事を選ぶ人への「こんな職業選択もあるよ」というメッセージも込めています。

──座学編ではリジェネラティブ(環境再生型)農業にも触れていますね。

農業は今、資材や肥料の高騰、人手不足など、さまざまな要因によって転換期を迎えています。本書でも触れたように、酪農では牛の餌を輸入に頼ってきたことが大きな課題になっていますね。そこで注目されているのが、土の中の生態系を大切にして土壌の力を引き出すリジェネラティブ農業です。リジェネラティブ農業とは、方法論よりも農家の状況に合わせた実践を指す言葉ですが、動物(家畜)の飼養は土の循環を促す役割があるため、原則のひとつになっているんですよ。

「学生時代、牧場に聞き取り調査をした時に受けた温かな親切が原体験。今も農家さんの話をじっくり聞くのが楽しみです」(小林さん)

各地を行脚し、酪農の魅力を綴る

──実践編では、酪農家さんの思いや、それを支える農協の思いをつづっていますね。インタビューで、特に印象的だったことがあれば教えてください。

ベイリッチランドファーム(北海道美瑛町)は大規模で技能実習生もおりロボットも使う先進的な牧場ですが、本質的には家族経営で牛が大好きなご一家が営んでいます。企業の形をとりながら酪農家が大切にしていることを守る姿に、酪農家の素敵さを改めて感じました。

また、取材をお願いする時に頭に浮かんだのは、新規就農で放牧酪農を行う石田牧場(北海道足寄町)や、加工場やレストランを持ち、長年にわたって地域に牛乳や乳加工品を届けているノースプレインファーム(北海道興部町)です。そしてJAけねべつの章では、農協の原型ともいうべき姿をお聞きしました。インタビューには酪農家を目指す学生の佐藤桃(さとう・もも)さんも同行したのですが、彼女のような新しい人を迎え入れる体制が、酪農の将来にとって重要なのです。

インタビューする佐藤さん(左、市村敏伸撮影)

──本書を通して、酪農家になりたいという人が一層増えていきそうですね。 酪農家の魅力について、改めて小林さんの考えを聞かせてください。

多くの酪農家の方々は、家畜と暮らすのは大変だけれどもそれを上回る魅力があると言います。牛が働いてくれるお陰で自分や家族が暮らせる。牛がかわいい。土、草、牛の循環から得た生産物で暮らしを立てられるのがいい。そうした言葉を聞いていると、酪農は暮らしと仕事が一体になった「人生」なんですね。暮らしと仕事を切り離すことが効率化だという価値観を問い直すような存在です。

──酪農家になりたい人が現場で定着できるか否かも、今後の重要な課題ですね。そのために必要なことはなんでしょうか。

最大の課題は、受け入れる側の体制ですね。情報はあるものの、酪農業界全体が新しい人を大事にするという面では改善の余地があります。受け入れに熱心な地域がある一方、別な地域では地域と就農者のミスマッチなどが原因で離れていくケースを頻繁に見かけます。就農が偶然うまくいったりいかなかったりという受け入れ体制では、夢を食い物にしかねません。

もうひとつは資金面です。今の経済情勢でいきなり独立するのはハードルが高い。農業法人への就職という選択肢も含め、いかに初期負担を軽くするかは政策を含めた課題です。具体的に見ていくと、古い畜舎の建築基準の問題など、地域や国との調整が必要な課題がまだまだ多いと感じます。

──最後に、タイトルに込めた思いを教えてください。

実は、「牛乳で世界がわかる」としようか悩んでいた時、同僚で畜産学の三谷朋弘(みたに・ともひろ)先生(北海道大学農学研究院准教授)が、「世界が『かわる』がいいんじゃない?」といってくれたのが決め手になりました。本書コラムでも触れましたが、ひとつは食卓の牛乳を知ると、あなたの酪農の見方がかわる。もうひとつは牛乳や酪農が世界に共通であることから広い視点が備わり、あなたの見る世界がかわる。さらに言うなら、あなたが世界にポジティブな視点を持てば、世界もかわるかもしれない。そんな「わかるとかわる」という意味を込めました。

編集後記

著者の小林さんがこの道に進んだきっかけは、大学3年次の酪農家の聞き取り調査だったそうです。その農家さんは、まだ酪農をよく知らない小林さんの質問に何時間も答えた上に、一升瓶で牛乳を持たせてくれました。「この無償の親切は何なんだろう、このお話をどこかにまとめなければと思いました」という小林さんの言葉が印象的でした。

この本を読むと、一杯の牛乳の後ろにある広い世界が浮かび上がってきます。就農したい人にも一般の人にも、酪農や食の未来を考えるヒントになりそうです。