86年、リーグ優勝を決めナインに胴上げされる広島の阿南準郎監督 (C)Kyodo News

 1980年代後半に広島の監督を務めた阿南準郎氏が7月30日に死去した。享年86。カープ黄金時代を築いた古葉竹識監督退任後、中継ぎ監督としてチームを指揮し、1年目の1986年にリーグ優勝。在任中3年間のいずれもAクラス入りをはたした。この阿南氏をはじめ、記憶に残る“つなぎの監督”を振り返ってみよう。

 1956年、佐伯鶴城高から広島に入団した阿南氏は、64年に本名・潤一から「準郎」に改名したことに象徴されるように、常に“ナンバーツー”の野球人生だった。広島で12年、近鉄で3年の計15年間で、規定打席に到達したのは64年の1シーズンだけ。内野ならどこでも守れる貴重なバイプレイヤーとしてチームに貢献した。

 近鉄コーチを経て、74年に2軍コーチとして広島に復帰。古葉監督時代は1軍コーチとして4度のリーグ優勝、3度の日本一をアシストした。

 85年のシーズン終盤、古葉監督が辞意を表明したことをきっかけに、野球人生が大きく変わる。球団は後任として4番打者の山本浩二に兼任監督を要請したが、翌年も現役一本を望んだ山本は「2足の草鞋は履けない」と首を縦に振らない。

 そこで、将来の山本監督までのつなぎとして、“古葉野球”をよく知る阿南コーチに白羽の矢が立てられた。当初は「私は器じゃない。監督の補佐役ならできる」と難色を示したが、「お家の大事とあらば、29番目の候補まで当たってもらってあとでも、球団に恩を返したい」と気配りの人らしい受け答えで、最終的に中継ぎ役を引き受けた。

 そして翌86年、北別府学、川口和久、大野豊、津田恒美らリーグきっての投手陣に対し、打線の破壊力が今ひとつのチームを、「打てなければ守りきればいい」とミスの少ない野球で、白星をひとつひとつ積み重ねていく。山本、衣笠祥雄の両ベテランをうまく起用しながら、僅差のリードを守り切り、2年ぶり5度目のリーグ優勝を実現した。

 2位・巨人より2勝少ない73勝での優勝は、リーグ最多の11引き分けが大きかった。「引き分けても負けなければいい」勝率重視の野球が、シーズン終盤の大逆転Vにつながった。

「何が監督の仕事かというと、選手たちみんなを一つの方向に向けさせるということ。これさえできれば、監督の仕事はないに等しいとボクは思いますね」(週刊ベースボール1987年1月19日号)と自身の役割を語った中継ぎ監督は、87年、88年と2年連続で3位をキープしたあと、予定どおり、山本監督にタスキを手渡している。

 阿南監督と同様のケースが、2001年オフに就任した西武・伊原春樹監督だ。東尾修監督退任後、球団は当初捕手の伊東勤に新監督を要請したが、現役続行を望んだ伊東が辞退した結果、「伊東が現役を引退するまでの期間限定」という条件で、後任監督を引き受けた。

「将来は伊東が監督になるわけだから、スムーズに禅譲できればいい」と就任会見で語った伊原監督は、翌02年はエース・松坂大輔が故障で長期離脱するハンデを背負いながらも、攻守にチームをまとめ、4年ぶりのリーグ優勝に導く。そして、03年も2位と健闘し、伊東監督にバトンタッチすると、自らはオリックスの新監督に就任した。

 2度にわたる監督就任は、状況的につなぎのイメージが強いものの、歴代監督の中でも4位の通算勝率.588を記録。「つなぎ」と呼ぶのが失礼なほどの実績を残した名将が、巨人・藤田元司監督だ。

 1980年オフ、長嶋茂雄が解任され、王貞治も現役引退を発表、長嶋解任に反発したファンによる読売新聞の不買運動も起きるなど、球団創設以来、最大級の逆風が吹き荒れるなか、あえて「火中の栗を拾う覚悟」で新監督に就任。

 ドラフト会議では、4球団が競合した原辰徳を見事引き当て、一気に暗雲を吹き払う。

 そして、翌81年は江川卓、西本聖らの強力投手陣と篠塚利夫、中畑清らの台頭、新人・原の活躍でV9以来、8年ぶりの日本一を奪回。82年は中日に0.5ゲーム差の2位、83年は2度目のリーグ優勝と巨人を常勝チームに再生後、王助監督に引き継いだ。

 さらに王監督解任後の88年オフに2度目の監督に就任すると、翌89年は斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己の先発三本柱を中心とする“ディフェンス野球”で8年ぶりの日本一。90年もリーグ2連覇をはたすなど、通算7年で優勝4度、日本一2度の実績を残し、13年ぶり球界復帰の長嶋監督にバトンタッチした。

 カッとなりやすい性格から“瞬間湯沸かし器”の異名をとる一方、グラウンド以外でも選手に温情を示すなど、人心掌握術にたけ、大久保博元のように「この人のために、死んでもいい」と心服する選手も多かった。

 一方、広島、西武(就任時はクラウン)、ダイエーの3球団を指揮した根本陸夫監督は通算勝率.463と、指揮官として結果を出すことができなかった。

 だが、広島は監督退任の3年後、西武は翌年、ダイエーは5年後にいずれも優勝。自らチームの土台を作り、“勝てる監督”に後事を託したことから、本人も「私はつなぎの監督なので」と公言していた。

 また、西武とダイエーでは監督退任後にフロント入りし、大胆なドラフト戦略、大規模なトレードで“球界の寝業師”としてチームの強化に尽力。「選手として三流、監督として二流でも、チームの下地作りとGMとしての才覚は超一流」の評価を得た。

文=久保田龍雄(くぼた・たつお)