連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.40 フェラーリ750モンツァ

フェラーリといえば12気筒。黎明期にはそれが当たり前の公式のように、そのエンジンルームを開けると、長大なV12気筒が収まる光景を誰もが期待しただろう。しかし、実はそうではないこともあった。

【画像】レースでも大いに活躍したフェラーリ750モンツァ(写真6点)

フェラーリ750モンツァと呼ばれたモデルがそうではない車の1台である。この車の話をする前に、当時のフェラーリについて少し説明しよう。エンツォ・フェラーリがアルファロメオを辞して、自らの会社を立ち上げるのは1939年のこと。しかし当時アルファとの取り決めで、4年間は自らの名を冠することができず、最初に誕生した車はアウト・アヴィオ・コストルツィオーニ815と呼ばれた。戦後1945年に会社は改名し、アウト・コストルツィオーニ・フェラーリとなるのだが、この時点では社名はまだフェラーリSpAではない。

1946年になると、アルファからエンジニア、ジョアキーノ・コロンボがフェラーリに加入する。この時から「フェラーリといえば12気筒」という神話ができあがったと言ってよい。ほぼ時を同じくして若いエンジニア、アウレリオ・ランプレーディが加入するのだが、彼はたった1年でフェラーリを辞めてしまう。理由は当時既にフェラーリにはコロンボの他にも、やはりアルファから移籍したジョゼッペ・ブッソがおり、ランプレーディは活躍の場所がないと感じて(実際にはブッソとの意見の対立という説もある)イソッタ・フラスキーニに転職する。しかし、1951年になって彼は再びフェラーリに戻る(理由は1948年にブッソが退社したから)。そしてコロンボとランプレーディの時代がやってくるのである。小さくて精緻な12気筒を得意としたコロンボに対し、ランプレーディはどちらかといえば大きなエンジンを得意としていた。

御存知の通り、当時のフェラーリは気筒当たりの排気量で車名を区別していた。フェラーリが最初に送り出した12気筒は125。つまり気筒当たりの排気量は125ccであった。これに対してランプレーディは最も小さなエンジンでも250、そしておそらく最大のエンジンが今回ご紹介する750である。1950年代中盤といえば、やはりレース用エンジンはスーパーチャージングされたものが主流であったのだが、ランプレーディはそのトレンドに反し、いわゆるノーマルアスピレーションの大排気量でそれに挑んだのである。

転機は2リッターエンジンで争われるフォーミュラ2のレギュレーションで、エンツォ・フェラーリは重く大きな12気筒よりも、4気筒エンジンのトルクと重量特性が、ヨーロッパのレースで主流の曲がりくねったストリート・サーキットに適していることを理解していた。そして熟考の末、彼は4気筒の開発をランプレーディに命じるのである。こうして気筒当たり500ccのエンジンが完成し、500F2は見事にワールドチャンピオンの座を射止めるのだ。勿論スポーツカーレースにも500モンディアルとして善戦した。そして、このエンジンは翌1954年になると気筒当たりの排気量を750ccに拡大し、再度スポーツカーレースにデビューする。モンツァの名は、最初のモンツァで開催されたレースに優勝したことから名付けられたものだ。

さて、ロッソビアンコ博物館に収蔵されていた750モンツァは、シャシーナンバー0492Mというもので、35台製造された750モンツァの8号車。1955年のブリュッセルモーターショーのフェラーリ・スタンドに展示された個体である。その後アメリカのルイジ・キネッティに売却され、さらにロサンゼルスを拠点とするポルシェのインポーター、ジョン・フォン・ノイマンに引き渡された。彼はこの車で幾度となくレースに参戦。その後ハリソン・エバンスに売却後も、エバンスがアメリカでレースを続けた。そして1957年に「売りたし」の広告をロード&トラック誌に出すのだが、結局は売れず、どうやらハリウッドのスタンリー・クレーマー・プロダクションがこの車をリース車両にしたようだ。そしてグレゴリー・ペック主演の映画、「渚にて」の撮影に使われ、劇中でフレッド・アステアがそのコクピットに収まるシーンなどが映し出された。

その後は再びルイジ・キネッティの元に戻り、長く保存されていたが、60年代から70年代にかけてはオーナーが転々と変わり、ヨーロッパに戻ったのは1979年のこと。そして、83年にロッソビアンコのピーター・カウスが手に入れ、以来長く博物館の展示車となったのである。ロッソビアンコ閉館後は2006年にボナムスのオークションに出品、さらに2011年に今度はRMザザビーズのオークションに出品され、3億9151万7500円で落札された記録が残っている。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh