今年5月、パシフィコ横浜で開催された「人とくるまのテクノロジー展2024」にて注目を集めたヤマハ発動機の新技術「感覚拡張HMI」。その技術を活かした「聴覚を利用した後方認知支援デバイス」も展示されました。

このデバイスはスピーカーを内蔵したヘルメット型をしており、運転中に被ることで気配を感じるような“直感的な後方認知”が可能になるという画期的な技術だ。でも実は、バイク以外にも応用が効くらしい。

今回、ヤマハ発動機の本社(静岡県磐田市)を訪問。ヤマハ発動機の技術・研究本部 技術戦略部で心理学の専門家として研究に臨む末神翔さんに話を聞いた。

  • ヤマハ発動機 技術・研究本部 技術戦略部 博士(心理学) 末神翔さん

より安全で自然な運転につながる新技術「感覚拡張HMI」

――先日お披露目された「感覚拡張HMI」の技術について改めて教えてください。

人間がより自然に、直感的に周囲を認識できるよう、人間の感覚を拡張する技術を「感覚拡張HMI(Human Machine Interface)」と総称し、研究しています。

例えば皆さんも普段歩いているとき、後ろから人の気配を感じたり、何か危ないものが迫ってきたりしたら、本能的に察知できますよね。その感覚を運転中にも発揮できればより安全に、より自然に運転できるんじゃないか、というのが「感覚拡張HMI」の基本的な考え方です。

  • ライダーがヘルメットのように被っているのが「聴覚を利用した後方認知支援デバイス」だ

そのなかでも、現在研究の主役になっているのが「聴覚を利用した後方認知支援デバイス」。これは音を使うことで、後方から接近する車の位置や進路を聴覚で認知させる仕組みで、カリフォルニア工科大学と一緒に研究を進めています。

――車の運転中、大きなトラックが後ろから迫ってきたときなどはなんとなく気配でわかりますが、そういった感覚をより強化するということですか?

そうですね。人間がより自然に、直感的にわかる方法を探る中で、音で通知するという仕組みにたどり着きました。危険を感じる不協和音など様々な音を試すなかで、例えば“ドップラー効果”のような現象に着目しています。

――ドップラー効果……?

サイレンを鳴らした救急車が遠くから近づいて自分の真横を通りすぎる時、急に音の高さが低くなりますよね。この現象が”ドップラー効果”です。

カリフォルニア工科大学との実験で、「視野の左右ギリギリ見えるかどうかという場所に、後ろから前に移動する光を出し、その光の移動が見えるかどうか」という実験を行ったのですが、ドップラー効果のような音を同時に聴かせると急に光の移動がハッキリと見えるようになりました。しかし、似ているけれどドップラー効果とは違う音を聞かせても、光の移動の見え方に変化はありませんでした。人間の脳は、誰かに教えられなくても「この音は、こういう動きをしている音だ」ということを本能的に理解しているんです。

――なるほど、それをヘルメットにつけたスピーカーで再現したと。デバイスの形はすべてヘルメット型なのでしょうか?

いえ、今回はオートバイ向けということでヘルメット型になりましたが、ヘルメットに限らず、例えばウェアラブルデバイスやカーステレオなど、いろんなものに適用可能です。すでに特許も取得しました。

バックミラーでの後方確認、実は脳に負荷がかかっている!?

――末神さんの専門は心理学ということですが、「感覚拡張HMI」の研究と心理学はどのような関係があるのでしょうか?

心理学というとカウンセリングのようなイメージがあるかもしれませんが、私は人間の知覚や感覚、認識にかかわる“認知心理学”が専門で、その知識を使って研究を行っています。

現在の運転技術って、かなり視覚に頼ってるんですよ。バックミラーやサイドミラーで後方を確認するのも「本来は見えないものを見せてあげる技術」です。運転において視覚は重要ですが、そもそも人間は見えないものを見るようにはできてないんです。

――「人間は見えないものを見るようにはできてない」……どういうことですか?

後ろから来るものを見る必要があるなら、人間の目は草食動物のように横についているはず。でも、前についてますよね。ということは、後ろのものを常に見るようにはできていない。だからミラーを介して後ろを見るわけですが、本来見えないものを見ることは、脳にとってはかなりハードルが高く、相当な負荷がかかっているんです。負荷が高まれば脳は疲れますし、運転に集中できなくなってしまいます。

運転は楽しく、安全であるべきというのがヤマハ発動機の考えです。我々はなるべく(視覚を聴覚が補うという)人間本来の仕組みに基づいて、より自然に、より負荷が低い状態を追求したいと研究を行っています。

――末神さんは心理学の専門家ですが、どのようなメンバーから構成されるチームなのでしょうか。

さまざまなバックグラウンドを持つメンバーが集まっていますね。心理学を専門とするメンバーが私含めてふたり、そしてデザイナー、エンジニアの合計4人の社内チームに加えて、外部とも協力して研究しています。

デザイナーはユーザーインターフェースやユーザーエクスペリエンスの専門家だけでなく、サウンドクリエイターとして音のデザイン、クリエイティションを担当してくれる専門家もいます。

――後方からの接近を知らせる“音”の設計を考えているということですね。実際、どのような音で、どう知らせているのでしょうか?

後方から車が接近すると、距離の変化に合わせて音や位置を変えてヘルメット後部に取り付けられた7つのスピーカーからサウンドが発生します。

  • 感覚拡張HMIは、ヘルメットに内蔵されたスピーカーが発する音で後方の気配を感じ取り、サウンドを発するスピーカーの位置や音色等によって、車間距離や方向を把握する。

後ろから車が接近している状況は不協和音で、それが自分を追い抜く、つまり危険が去ると和音に変化します。真後ろにぴったりくっついているような、いわゆる煽り運転をされているような場合は最も気持ちの悪い不協和音になりますね。

ただし、あまりに不協和音を聞きすぎるのもストレスになるので、そこはクリエイターのセンスが問われる部分ですし、本当に危ないものだけ音が鳴る仕組みにもしています。過去の事故データに基づいて危険度の基準を考えたり、危険度によってどの程度の不協和音を出すかといったことも考慮して、最適な音のクリエイションが続いています。

――車やバイクが出すアラート音は「ピーピー」という音が多い印象ですが、このデバイスでは「ファー」という和音や不協和音なのですね。

僕たちも最初は「単純にアラート音を鳴らせば良いのではないか」と考えていたんです。でも、「ピー」というアラート音で実験をしたところ、場合によっては人間のパフォーマンスが低下するという結果が出ちゃいまして……。

――えっ! アラート音でパフォーマンスが低下するんですか!?

ピーピーと鳴っているだけだと、「何かが起きている」ことはわかっても、それが「何を意味してるか」までは理解できないんです。後ろから何かが接近しているのか、車線を逸脱しているのか、ガソリンがなくなっているのか、運転手の眠気を感知したのか……アラートの意味がわからないと「えっ、今の何?」と考えたり、 あちこち見回したりして、結果的に注意が削がれてしまいます。

その音自体が何を意味しているのか、人間にとって直観的にわかりやすい音にしなければならない。これが今回の研究のポイントですね。

”感動”を研究する、ヤマハ発動機の「人間研究」

――「感覚拡張HMI」の研究は、いつ頃から始められているのでしょうか。

2017年頃からです。「10年後に新しい技術の種となるような最先端の研究を提案する」というヤマハ発動機の社内公募型プロジェクトに応募して、採用されたことがキッカケでした。

バイクや電動アシスト自転車、ボートなどを手掛けるヤマハ発動機は、人間の感覚・感性に合った技術開発を行っています。人と機械を高い次元で一体化させることにより、人の悦びや興奮をつくりだす「人機官能」という独自の開発思想を持っていますし、2024年からは基礎研究として「人間研究」にも注力しています。「感覚拡張HMI」も、この人間研究の一環です。

――「人間研究」とはどういう概念なのでしょう?

今我々が「人間研究」で取り組んでいることは、“感動”に関する研究です。そもそも感動とは何か、ヤマハ発動機が目指す感動とはどんな感動なのか、ヤマハ発動機の感動を実現するために必要なエッセンスは何なのか……そういったテーマに対して、人文社会科学的、いわゆる文系的なアプローチとエンジニアリング的アプローチの両方から研究を行っています。

ヤマハ発動機は昔から感覚・感性を重視し、「感動創造企業」を謳ってきました。オートバイやウォータービークル、車椅子などのパーソナルモビリティって、人とサイズ感が近いですし、物理的にも心理的にも距離感が近いのりものです。自分の体のように操れる身体的な一体感と、唯一無二のパートナーのような心理的な一体感の両立とバランスが大切だと考えて研究を進めています。

――これまでも人間研究の研究結果に基づいてサービスや製品などを展開してきたんですか?

例えば、2024年に発売したスポーツバイク「MT-09」のハンドルスイッチのデザインには、人間研究チームに所属するデザイナーも参加しています。バイクには様々なスイッチ類がありますが、そのデザインや配置、形状などを人間の視点で開発しているので、運転しながら直感的に操作できるデザインになっています。

  • 2024年発売のスポーツバイク「MT-09」に搭載されたハンドルスイッチ。直感的な操作にこだわっており、人間研究の視点でデザインされた

――今後の製品開発にあたり、「人間研究」や「感覚拡張HMI」をどのように活かされるのでしょうか。これからの展望を教えてください。

「感覚拡張HMI」は、実際に搭載できるかどうかオートバイや四輪車、自転車などいくつかの乗り物で検討している段階ですが、歩行者など乗り物以外のなど様々な可能性も考えています。この技術を世の中に普及させ、安全に貢献しながらそれでいて楽しさと安全も両立する。そういったヤマハ発動機らしい安全を追求する姿勢が広まることで、結果的に世界中で事故が減るといいですよね。

まだまだ研究段階なので、実際のサービスになるのは少し先になりますが、逆に言うと流行りに流されない本質的なことを理解して、この先10年20年、30年先の「価値のコア」を定義し、世の中の方に訴えていきたいです。


人間が持つ本来の感覚を拡張する「感覚拡張HMI」は、バイクにとどまらず応用の可能性があるという。ヤマハ発動機の技術が叶える、より安全で楽しい運転のできる未来に期待したい。