タツノリに続いて、どんでんも去った――。気がつけば、プロ野球監督も“世代交代”の波が押し寄せている。
昨秋は巨人の原辰徳監督が辞任、そして今季限りで阪神の岡田彰布監督もユニフォームを脱いだ。1950年代生まれの60代後半に差し掛かっている大御所たちが去り、来季の巨人対阪神の伝統の一戦は、就任2年目の阿部慎之助(45歳)と新監督の藤川球児(44歳)が対峙することになる。ちなみに幼少期の阿部が憧れたのは“ミスタータイガース”掛布雅之で、元G党の藤川少年は“平成の大エース”斎藤雅樹の大ファンだった。
このオフ、12球団で阪神・楽天・オリックス・中日・西武と5人もの新監督が誕生したが、彼らは皆、1970年代から80年代生まれで、平成になってからプロ入りしている“昭和球界”を知らない世代である。5人の中で最年長の53歳、中日・井上一樹監督ですら、平成元年の89年ドラフト2位指名なので、プロ1年目にはすでに時代は1990年代に突入していた。今回は新監督5名の現役全盛期を歴代野球ゲームで振り返ってみよう。
◆ 25歳・西口文也の“魔球スライダー”
立正大から94年ドラフト3位で西武入りした西口は、2年目の96年に16勝を挙げてレオの新エースに。痩身の右腕はその見た目とは裏腹に無尽蔵のスタミナで、リーグ最多の年間13完投を記録した。翌97年には最多勝(15勝)、最多奪三振(192)、最高勝率(.750)で沢村賞に輝く大活躍でリーグVに貢献。初のMVPにも選出された。NINTENDO64ソフト『実況パワフルプロ野球5』(1998年3月26日発売)は97年終了時のデータを基に作成しているため、全盛期の25歳西口を追体験できる。
まだ屋根のない青空の真下、西武球場のマウンドで背番号13は150キロの直球と鋭いキレッキレのスライダーで打者を圧倒。正直、チェンジアップを織り交ぜつつ、ひたすら変化量6のスライダーを多投しておけば三振の山を築ける本作最強クラスの投手である。当時、西武は黄金期が終焉して世代交代の真っ只中。仰木オリックスのV3、さらにはイチローの4年連続MVPを阻止したのはこの男だった。あの時、東尾西武を救った若きエース西口が、二軍監督からの昇格で、今度は52歳の新監督として最下位に沈んだチーム再建に挑む。
◆ “恐怖の7番打者” 井上一樹
89年ドラフト2位の井上は投手として芽が出ず、4年目途中から野手転向。初めて100試合以上に出場したのが、プロ9年目の1998年という遅咲きの選手だった。翌99年シーズン、自己最多の130試合出場でキャリア初にして唯一の規定打席到達。打率.296、10本塁打、65打点、OPS.781で強竜打線の“恐怖の7番”として星野中日のリーグVに貢献する。
なお、当時は初代プレイステーションが“国民的ゲーム機”の地位を確立した頃で、プレステ2の誕生は翌2000年春のことだ。2000年9月7日発売のPS2ソフト『劇空間プロ野球 AT THE END OF THE CENTURY 1999』は、『ファイナルファンタジー』シリーズで知られるあのスクウェアが日本テレビのプロ野球中継とのジョイントで世に放った意欲作。野球ゲーム史上最高画質と話題になった。ただ、大人の諸事情で発売は2000年ペナント終盤の時期なのに選手データは99年版。もちろん当時はまだ能力修正のアップデート機能はない。
井上のトレードマークのピンクのリストバンドが赤なのは残念だが、本作をプレイして、ダイエーとの日本シリーズで13打数無安打に終わった背番号99の25年越しのリベンジに挑むのもまたよし。スター街道を歩んできた立浪和義前監督とは真逆の叩き上げの野球人生で、二度の二軍監督や他球団での指導者経験を経ての一軍監督就任。3年連続最下位に沈む中日は、井上新監督とともにリスタートである。
◆ 便利屋から異端の監督・三木肇
ヤクルトから95年ドラフト1位指名を受けた三木肇は、当時の「週刊ベースボール」でも「俊足強肩で守備力は高校No.1。高校通算20本塁打は、福留にも劣らぬ好素材」と“ポスト池山”を担う大型遊撃手として期待されていた。しかし、プロ入り後は打撃で苦しみ、ヤクルトが日本一に輝いた2001年に自己最多の79試合出場も打率.127。ただ、翌02年は113打席で打率.240と大きく上昇させた。実働12年で生涯打率.195、通算2本塁打と現役時代の実績が重視される日本球界では異端の一軍監督でもある。
2001年11月8日発売のPS2『プロ野球JAPAN2001』は、パワプロのコナミが初めてリアル系野球ゲームに参入した記念すべき一本だ。ここから試行錯誤を繰り返し、のちに現在も続くプロスピシリーズへと繋がっていくことになる。三木は投手レベルの泣ける打撃力も、「遊撃守備A」「走力C」の代走兼守備固めとして登場。ただ、ヤクルトのレギュラー遊撃手には、このシーズン67犠打のプロ野球記録とゴールデングラブ賞の宮本慎也が君臨しており付け入る隙はなかった。控え選手からの成り上がり、そして二軍監督を経て5年ぶりの再登板。あらゆる面で異端の監督が、3年連続Bクラスの楽天を浮上させることができるのか?
◆ 一度はクビになりかけた剛腕・藤川球児
ついこの間まで現役だと思っていたあの藤川球児が阪神監督に。そりゃあ自分も歳をとるわけだ……としみじみ実感した野球ファンも多いだろう。松坂世代の高知の星・藤川は、世紀末スーパーアイドル広末涼子と同郷で1998年に阪神からドラフト1位指名を受ける。だが、入団後数年は苦しみ、5年目を終えたオフに一度はクビになりかけた。岡田彰布は自著で当時の様子をこう書き記している。
「実は阪神は、2003年のオフに藤川を放出しようとしていた。2軍から上がってきた次年度の整理対象選手リストに、藤川の名前が入っていたのだ。2004年から私が監督に就任することが決まっていたので、監督権限で残させたが、もしあのとき藤川を放出していたらと思うとぞっとする。実際に、同じセ・リーグの広島やヤクルトが獲得する可能性が十分にあったのだ」(動くが負け/岡田彰布/幻冬舎新書)
もし藤川が放出されていたら、その後の平成球史も大きく変わっていただろう。岡田監督は本人に先発失格を通告し、藤川をリリーフで使うことを決断する。2005年には80試合に登板。その後、2年連続の最優秀中継ぎ投手賞と二度の最多セーブに輝く獅子奮迅の活躍はご存知の通りだ。
2007年4月5日発売のPS2ソフト『プロ野球 熱スタ2007』はファミスタのナムコが放ったリアル系野球ゲームのシリーズ最終作。前年の藤川は63登板で驚異の防御率0.68を記録。この07年シーズンも、自己最多の46セーブを挙げ、最多セーブに輝いており、熱スタでも実況に「うなる剛速球。新たな神話が始まる」と紹介される火の玉ストレートの軌道がまたエグい。
就任早々、チームの禁煙を掲げてニュースになった藤川だが、実は30年近く前に藤田平監督も禁煙令を出したが、虎ナインからは「逆にストレスがたまりそうで……」とか「シーズン中も、ということになると困りますね」なんて逆にチームのぬるま湯ぶりを露呈する結果となってしまった。果たして、藤川監督の運命はいかに――。
◆ オリックス一筋の青年指揮官・岸田護
1981年生まれの岸田は、NTT西日本から2005年大学・社会人ドラフトの3巡目でオリックス入り。ちなみにプロ1年目の2006年には、プレイステーション3が発売されている。4年目の2009年に自身初の10勝を挙げたが、背番号18に変更した翌10年途中からリリーフ転向。2011年にはキャリアハイの68試合登板で33セーブを記録した。奇しくも、岸田を先発からリリーフへ配置転換したのは、藤川球児と同じく、その年からオリックスの監督に就任していた岡田彰布である。おーん、そらそうよ。
30歳の脂の乗りきった岸田を再現しているのが、11年シーズンデータを基にしている12年3月29日発売のPS3ソフト『プロ野球スピリッツ2012』だ。この頃にはオンラインでの能力アップデートが実装され、最終版で岸田のストレートは球威Aに設定されている。その後、オリックス一筋で14年間、通算433試合に投げ19年限りで引退。そのまま投手コーチとしてユニフォームを着続けた。
43歳の青年指揮官は、リーグV3を達成した中嶋聡監督の後任として指揮を執る。なお、岸田監督と来季も現役続行の平野佳寿は同期入団となる。現役時に自主トレをともにした弟分との共闘にも注目だ。
こうして駆け足で振り返ると、原辰徳や岡田彰布の全盛期はファミコンソフトの初代『ファミリースタジアム』や『燃えろ!!プロ野球』と被るが、新監督の5人は完全に90年代中盤以降に活躍した“プレステ世代”である。気がつけば令和の球界も野球ゲーム史も、“あの頃の未来”へと足を踏み入れているのである。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)