多くのプロアスリートが不安を抱えるセカンドキャリア。実業団に所属する選手はどんな第二の人生を歩んでいるのだろうか。パナソニック パンサーズ(現:大阪ブルテオン)で選手として現役を過ごした山添信也さん、白澤健児さんにお話を聞いた。
セカンドキャリアに悩みを抱えるプロアスリート
プロアスリートのピークは短い。選手たちは30代前後、華々しい活躍をしていても30代後半には多くが身体的な限界を迎え、引退を余儀なくされる。早熟な才能を求められるスポーツではさらに早く、社会人として脂がのり始める20代後半には現役を退くことになる。
引退したアスリートの第二の人生の歩み方はさまざまだ。会社員として働く人もいれば、自営業を始める人もいる。スター選手はタレントになる場合もある。もちろん、スタッフや指導者、監督という形でスポーツに関わり続けるアスリートも多い。
だが、引退後のキャリアに悩むという点は間違いなく共通している。プロスポーツは限られたアスリートしか入れない特殊な世界だからだ。プロアスリートはスポーツに専念する人生を送っていることがほとんどであり、スポーツ界から外の世界へ足を踏み出す不安は大きい。
それでは、企業に所属して社員として働きながらスポーツ活動を行う実業団選手は、どのようなセカンドキャリアを迎えているのだろうか。プロバレーボールチーム「大阪ブルテオン」(旧:パナソニック パンサーズ)を伺ってみよう。
バレーボールで活躍し五島列島から大阪へ
今回お話を伺うことになったのは、2020年にパナソニック パンサーズを引退し、現在パナソニック インフォメーションシステムズの人事総務部 採用・人材育成チームで活躍中の山添信也さん。
山添さんは1987年生まれの37歳。長崎県の五島列島出身で、父親の影響を受け中学からバレーボールを始め、スポーツ推薦で長崎県立大村工業高等学校へ入学。高校バレーボールの名門校で揉まれ、アスリートとして成長していった。
高校卒業後は就職を考えていた山添さんの転機は、大阪産業大学への進学。たまたま高校に視察に訪れていた大阪産業大学の監督がチームに誘ってくれたという。大阪産業大学では主将を務め、2009年西日本インカレ優勝に貢献。最優秀選手賞も受賞するなど、華々しい活躍を見せた。
その姿を見ていたのが、当時パナソニック パンサーズの監督を務めていた南部正司さんだ。こうして山添さんは、2010年にパナソニック パンサーズへ入団することになる。
「昔から電気・電子機器をいじるのが好きだったので、高校でも電気科でしたし、大学では電子情報通信工学科でした。ですからパナソニックという大きな電機メーカーで働き、そこでバレーボール選手としてプレーできるというのは非常にありがたい話だったんです」(山添さん)
ケガに悩まされたパンサーズ時代の山添さん
パナソニック パンサーズに入団した山添さんはミドルブロッカーとして奮闘。ケガに悩みながらも10シーズンをプレーした。山添さんは現役時代の思い出を次のように振り返る。
「パンサーズではたくさん優勝できたのですが、どちらかというと苦しかった試合が思い出に残っています。とくに2018ー19年のV.LEAGUE ファイナル6ですね。当時は白澤健児さんと山内晶大さんの二人がミドルブロッカーのレギュラーだったのですが、白澤さんが体調を崩して僕が出場することになったんですよ。『ファイナルステージに上がるために絶対落とせない』という緊張感もあったし、白澤さんに変わって出るというプレッシャーもありましたね」(山添さん)
結果として山添さんは、際立って活躍した選手を表彰する「VOM (V.Leaguer Of the Match)」を受賞する大活躍を見せた。「最初で最後になったんですけれども、その瞬間がバレーボール人生の中で一番の成果というか、やってきてよかったなという瞬間になりましたね」と山添さん。
だが、ひざの痛みは2019年の夏ごろから本格化。治療を続けるものの、次第にケガが完治しなければチームに貢献できない状態になり、2020年4月、惜しまれつつも引退することになる。
「”そろそろ身を引くときかな”という考えはあったんですが、自分で言い出したわけではありませんでした。シーズンが終わった直後、パンサーズのゼネラルマネージャーになっていた南部さんから『職場に復帰するか』『マネージャーになるか』という提案をいただいたんです」(山添さん)
とはいえ、結婚してすでに子どももいた山添さんにとって、マネージャーとしてチームに帯同していくという働き方は考えにくかった。山添さんは妻と話し、身を置いていた職場に復帰するという道を選択する。
「プロだったら次の職をどうするか迷うところなんでしょうけれども、ありがたいことに僕にはすでに職場がありました。職場のみなさんもスポーツ選手に理解があり、そこでがんばっていこうと決断しました。これまでバレーボーラーとして土日のない生活をしてきたので、今後は家庭を大事にしたいという思いもありましたね。もし単身だったら、マネージャーを選んだ可能性もあります」(山添さん)
コロナ禍でのスタートとなったセカンドキャリア
山添さんは引退を考えてから、少しずつこれからの社員生活をイメージしていったそうだ。当時、ちょうどパナソニック パンサーズ内でセカンドキャリアへの取り組みが始まっており、Microsoft Officeの講座などが行われていたことも大きかったという。
だが2020年4月といえば、コロナ禍での外出自粛がスタートしたばかりの時期。山添さんのセカンドキャリアは想像していた通勤・出社ではなく、在宅勤務から始まった。当時の苦労を山添さんは次のように語る。
「まず、PCが使えない。とくにタイピングですね。コロナ禍のビジネスシーンではメールとチャットがコミュニケーションの中心じゃないですか。ビジネス用語に慣れていないのと相まって、返信が遅くて苦労したことを覚えています」(山添さん)
現在、山添さんはパナソニック インフォメーションシステムズの人事総務部で、主に新入社員のIT研修を担当。4月から8月中旬ごろまで新人に向き合い、その後は社内の予算管理やキャリア入社のオンボーディングなどを行っている。仕事をするうえで、アスリート経験はどのように役に立っているのだろうか。
「ひとつはコミュニケーション能力ですね。学生時代から試合でさまざまな場所に行っていましたし、学校や自治体、地域との交流もありました。スポーツを通していろいろな人との接点があったんです。チームワーク、助け合いの精神、目標に向かって協力し合っていく気持ちがはぐくめたと思います。もうひとつは体力。体が資本なのはスポーツ選手でも会社員でも変わりませんから」(山添さん)
また、バレーボーラーとしての経験を活かして、保育園や小中学生向けのバレーボール教室を行ったり、新入社員とバレーボールを通じてコミュニケーションを取ったり、コロナ禍ではオンラインでストレッチやトレーニングのコーチをしたりもしたそうだ。
「もしアスリートのセカンドキャリアに対する支援を増やしていただけるのであれば、不安を解消するための支援があるとうれしいですね。例えばビジネススキルを学べる場があったりとか、マネージャーを体験できる機会だとか。先のビジョンが見えれば見えるほど、イメージも付きやすいと思います」(山添さん)
上司から見た山添さんの長所と魅力
そんな山添さんの働きぶりを、上司はどのように感じているのだろうか。
2022年にキャリア入社し上司となった、パナソニック インフォメーションシステムズ 人事総務部 採用・人材育成チーム チームリーダーの野間大樹さんは、「初めて会ったときはバレーボーラーとは知らなかったので“とにかく背の高い人だな”と。一緒に仕事をしていくなかで、人とのつながりを大切にすることを軸に持っている人だと思いましたね」と話す。
山添さんに新入社員の研修を任せているのは、「関わっている人を、仲間として分け隔てなく、自然に接することができる人」だからだという。入社して間もない新入社員は多くの不安を抱えている。だからこそ、山添さんのような人が人事担当として近くにいることが支えになると考えているそうだ。
「現役時代に誰かに頼ったり頼られたり、そういう関係を積み上げてきていると思うので、仲間を大切にするという観点を備えているんでしょうね。アスリートとしていろいろな努力も積み上げてきた人でしょうから、精神的な強さと安定感を感じます。そばにいてもらえるととても心強い。それはビジネスにとって大事なスキルであり、同時になかなか磨き上げるのが難しいスキルでもあります」(野間さん)
野間さんは、山添さんにチームリーダー(課長:管理職)になってくれることを望んでいると言う。
「山添さんのような人がリーダーになればメンバーもすごく仕事がしやすく、ポテンシャルを発揮しやすくなると思います。人間的な素養はもう持っているので、いろんなことを勉強して、将来そういったポジションに就いてほしいですね。山添さんは、とても信頼しているメンバーです」(野間さん)
野間さんから要望をいただいたところで、あらためて山添さんに現在目指している将来像について伺ってみたい。
「僕はなにか夢をもってこれまで歩んできたわけではなく、バレーボール選手も目の前の課題や試合を乗り越えてきた結果、たまたまなれただけなんです。まずは自分のできる範囲をどんどん広げていきたいですね。広げていった中にまたなにか見えてくるものがあるんじゃないかと思っています。リーダーを担うというのも、できるだけのスキルが身についた結果だと思うので、リーダーを目指しつつも着実に自分の力をつけていきたいです。もちろん、バレーボールの普及にも携わりたいと思っています」(山添さん)
コーチというセカンドキャリアを選んだ白澤さん
山添さんと対照的に、セカンドキャリアとしてチームに残るという道を選んだのが、大阪ブルテオンでコーチを務める白澤健児さんだ。
白澤さんは福岡県宗像市に生まれ、中学校からバレーボールを始めた。その後、福岡大学附属大濠高等学校に進学し、そのまま福岡大学のスポーツ科学部スポーツ科学科に。そして全日本ジュニア代表などを経験したのち、パナソニック パンサーズに入団し、16シーズンの間プレーした。
2007/08V・プレミアリーグで最優秀新人賞、2012年の第61回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会でベスト6賞、2013/14 V・プレミアリーグで優勝に貢献し同時にベスト6賞を受賞するなど、輝かしいキャリアを持つバレーボール選手だ。
「思い出に残っているのは、あまり明るい話ではないのですが、僕の先輩がなくなってしまった年のシーズンです。『先輩のために絶対に優勝しないといけない』という思いで自然とチーム全体がひとつになっていましたし、結果として優勝することができたことはすごく思い出深いですね。『人のためになにかする』っていうのは『自分のためにやろう』よりも力が出ると思いました」(白澤さん)
そんな白澤さんが現役を引退したのは2022年。当時37歳だった。実は、30歳のころに一度引退の希望を伝えたことがあったという。
「僕がパナソニック パンサーズに入ったのは、学生時代に一度も日本一を取ったことがなくて、そのまま引退するのがいやだったからなんです。その目標も達成しましたし、次に考えることといったらやっぱりこれからの人生。30歳でも遅いと思いますけど、『社業に早めに戻りたい』とチームに伝えたんです。でも『まだチームにいてほしい』と要望をいただいて、そこからコーチ兼任選手になって『そういうのも面白いな』と思いながら続けてきました」(白澤さん)
こうして現役でプレーを続けたものの、やはり才能ある若い選手が入ってきたときには下からの突き上げが刺激になり“負けたくないという気持ち”が生まれたり、逆に「僕が試合に出るよりも若い選手に経験させた方がいいな」と思ったり、さまざまな葛藤があったそうだ。
「37歳で引退を決めたのは“もう体がついていかない”っていうのが一番大きかったですね。引退を考えたタイミングで、東京2020オリンピックでフランス代表を金メダルに導いたロラン・ティリ監督がチームに来てくれて、その人のもとで勉強することもできたので、一度幕を引いてもいいかなと思いました」(白澤さん)
だが、セカンドキャリアに向かうにも“バレーボールしかしていないという不安”はあったという。そんなときにチームから「コーチになってほしい」という誘いがあり、白澤さんはその道を選んだ。
「コーチという道を選んだのは、やはり『37歳で社業に戻っても……』という部分と、『ロラン・ティリ監督のもとでコーチができる』という部分が大きかったですね。もし誘われていなかったら、社業に戻って人事の仕事をしていたと思います」(白澤さん)
後進のアスリートに向けて二人からメッセージ
バレーボールのプロとしてキャリアを積み、現在セカンドキャリアを歩んでる山添さんと白澤さん。お二人に、後進のプロアスリートに向けたメッセージをいただくことができたので、ご紹介しよう。
「いまのスポーツに注力するのはもちろんですが、それに付随して自身のブランディングや、自分の考えていることを発信する力をつけると良いと思います。これは選手時代でも活きると思いますし、いまは監督が言ったことをずっとやり続けるという時代ではなくなってきています。個人がプロとしてどう生きていくか、どんなセカンドキャリアを選ぶのか。自分で考えて、提案して、折衝して、自分が思った方向に進めていく力を磨いてほしいですし、いまのプロに必要な力だと思います」(山添さん)
「先のことを考えるのも大事ですが、まずは一日一日を全力で取り組むことですね。僕も引退しようと思って先輩に相談したときに『その日その日やることを全力でしていたら、そのうち道は開けていくよ』と言われました。まずはそのシーズンに全力を出す。そのうえで、人に会って話をするっていうのがすごく大事だと僕は思います。スポーツの中だけで生活してたらわからない世界がありますし、僕自身、食事会や飲み会によく行っていました。そういう繋がりを大事にして、いろいろな人の考えを吸収して、でも自分自身の考えは貫き通していくことですね」(白澤さん)