栗が足りないから始まった栗農家への道

大阪のビジネス街にあるショッピングビル「淀屋橋odona(よどやばしオドナ)」では、毎週水曜日の午後に「odona×『大阪マルシェ ほんまもん』」という、農家が新鮮な農作物を販売するイベントが開かれている。そこで農家に交じって唯一、和菓子屋として出店しているのが「津村屋」だ。

「odona×『大阪マルシェ ほんまもん』」に出展して和菓子を売る角村さん夫妻

1941年創業の「御菓子司 津村屋」は大阪産の農産物を使用した地産地消がテーマの和菓子屋である。家族経営の店で、角村さんは2代目だ。栗だけで練り上げたあんの中に大粒の栗の甘露煮が惜しげもなくぎっしり入った栗ようかんは自慢の逸品である。他にも栗まんじゅう、栗赤飯など、栗は津村屋の和菓子には欠かせない。その栗は、名産地である能勢町産の銀寄、しかも角村さんが所有する栗畑で栽培したもの。つまり角村さんは栗農家でもあるのだ。

季節限定の栗赤飯

自身で銀寄を栽培し始めた経緯について聞くと、角村さんはある栗農家とのエピソードを語り始めた。
「能勢の栗はおいしいんで、昔はいつも能勢の栗農家の東靖雄(ひがし・やすお)さんのところの栗を購入していたんです。東さんのところの銀寄は大きくて香りも良かった。ただ、年々収穫量が少なくなってきてたんで、東さんに『もう少し、栗を増やしてください』とお願いしたんですが……」

その当時、東さんはすでに83歳。高齢のためにいくつかある栗畑のすべては管理できなくなっており、増産は無理な状態だった。そのため、「本当に栗が要るのなら自分でやったらどうか」と東さんは角村さんに勧めたという。しかし、栗の加工はプロでも栗を育てた経験は皆無の角村さんは、「畑違いですから」と断った。その後も東さんは会うたびに「栗畑を好きに使ってくれていい。栽培に必要な道具もそろっているから」と、繰り返し角村さんに栗の栽培を勧めてきた。そんな東さんに「じゃあ、僕が上の方の栗畑をやりましょか」と角村さんはいつしか返事をしていたという。それが2012年の冬のこと。角村さんは38歳だった。
背景には当時の能勢の栗農家の高齢化があった。そのほとんどが70代から80代。角村さんには5年後、10年後の栗畑が維持されていることが想像できなかった。このままでは能勢の栗が手に入らなくなるという危機感から、栗畑を手伝うことにしたと角村さんは振り返る。
実際に管理を引き受けた1反(10アール)ほどの栗畑に入ってみると想像よりもひどい状態で、生きている栗の木は4、5本しかなく、他は枯れていて切るしかなかった。栗の皮は山ほどむいてきた角村さんだったが、木を切るのは初めてだった。東さんは指導はしてくれたが、作業はすべて任された。この頃は、角村さんの父親も現役だったので、比較的自由にできる時間もあり、仕事の合間でやりくりできた。角村さんの手によって整備されていく栗畑を見て東さんは「公園みたいにきれいになっていくな」と話したという。

その後、栗の栽培を学ぶために講習会に行けば、常に角村さんが最年少。うれしいのか寂しいのかわからない複雑な気持ちだったそうだ。翌年には、別の栗畑の持ち主から「うちも頼むわ」と声がかかる。そのまた翌年には東さんから「こっちの栗畑も使ってくれ」と、管理する面積がどんどん増えていった。

収穫間近の栗畑

栗山を購入し事業承継

栗畑に通い始めて5年が過ぎた頃、角村さんは東さんから山を買ってくれないかという話を持ち掛けられた。
「息子は能勢には戻らないし、ワシの代で栗農家は終わるから、と。しかし、いくら和菓子に能勢の栗が必要であっても、和菓子屋がそこまでしなければならないのかと思いました。山を買うとなるとけっこうな投資です」(角村さん)

角村さんは返事をしないままだったが、しばらくして東さんの体調が思わしくなくなり、息子さんが山を売却する話を進めていると聞かされた。購入者によっては、栗の栽培ができなくなるかもしれない。山をどう使うかは購入者次第だからだ。
「それまで荒れていた山を苦労して整備して、栗を栽培してきましたが、新しい地主に栗の栽培をやめてほしいと言われれば従うしかありません。それはあんまりだし、今までの苦労が水の泡になってしまうと思いました」(角村さん)
栗畑がなくなることは、なんとしても避けたかった。しかも東さんの山は能勢の宝のような山だった。銀寄の“母樹”があった場所だからだ。

銀寄がこの地で誕生したのは、江戸時代半ばの1753年とされる。ある人が広島から持ち帰った栗を能勢の地に植えたところ、そのうちの1本がとても良い実をつけたため、近隣にも広がっていった。その後、大飢餓(ききん)が来た時にその栗を売り歩いたところ、その姿の美しさとおいしさで高値で飛ぶように売れ、多くの銀札(当時の貨幣)を呼び寄せることができ、地域の農民を救ったという。それ以来、「銀を寄せる」という意味で、「銀寄」と呼ばれるようになったと言われている。銀寄の始まりとなった母樹は1998年頃に枯れてしまい、今は切り株だけになってしまったが、その接ぎ木をしたものが母樹として現在も保護されている。

銀寄の母樹の切り株

そんな能勢の宝である山を、角村さんは2019年、借金をして購入した。山は約1.5町(約1.5ヘクタール)だが、すべて整備されているわけではないので、栗の栽培面積は約7反(70アール)である。重機などの購入費を含めると700万~800万円ほどになった。また、栗の栽培だけでなく、山の管理のための間伐や伐採も重要な仕事である。角村さんは里山管理の講座を受講し、間伐や里山整備のことを一から学んでいった。

この時ばかりは男泣き! イノシシが栗の木を「バッキバキ」に

山を買った翌年の2020年9月。あと1週間ほどで栗を収穫できるという矢先、悲劇が起きた。「前年の冬に栗の木を低く育てるために高い木を切り戻したんです。柵も張り巡らせていたんですが、イノシシに枝をバッキバキに折られてほぼ壊滅状態になりました。さすがに山でちょっと泣きました」(角村さん)

もう、栗栽培をやめようかと思うほどのショックを受けた角村さんだったが、専門家の指導を受け、改めて柵を設置し直した。
「アドバイスを受けて周囲1キロの柵を張り直しました」(角村さん)
高さ1メートル、幅2メートルの柵500枚を1人で設置するのは並大抵の苦労ではなかったが、柵の成果もあり、それ以降は害獣による被害は防げている。さらに角村さんは「地域に猟師がいなかったので、狩猟の免許も取得した」という。

山でできることを増やしたい

角村さんが栽培した栗

現在、栗畑では「銀寄」「ぽろたん」「筑波」「丹沢」「美玖里(みくり)」「岸根(がんね)」を育てている。そのうち銀寄は6割で、主に栗ようかん用に使用している。すべての品種を合わせて栗の収穫量は年に約300キロ。販売はしておらず、すべて津村屋で使用している。将来的には2トンは収穫できるようになる見込みがあるそう。角村さんは、日持ちのしない栗の実を長期間保存する方法を確立したとのことで、不作に備えて在庫を確保した上で、販売することも考えている。

栽培面積が増えるということは、害虫防除などの労力も増える。「虫も食わんようなもんは人間が食べたらあかん」というのが東さんの口癖だったため、角村さんには農薬を使うことへの抵抗感があったという。しかし、効率を上げるためには農薬を使用することも仕方ないのかと思い悩んでいた。
そんなとき、角村さんは準絶滅危惧種のチョウ「キマダラルリツバメ」の存在を知る。このチョウは、幼虫期にハリブトシリアゲアリの巣に入り込んで育ててもらうという特殊な生態を持っている。ハリブトシリアゲアリの巣は銀寄の古木によく見られる。この貴重なチョウを守るためにも、農薬を使用しないと角村さんは決意した。害虫の駆除は、枝に卵塊を産み付ける前の冬の間にすべて手作業で潰しているそうだ。

栗の葉にとまる準絶滅危惧種「キマダラルリツバメ」

キマダラルリツバメを知ることを通じて、「銀寄を栽培するということは、里山の自然を守ることにもつながる」と気づいた角村さん。今では山の草木、虫の名前や生態をかなり熟知しているという。「里山の獣や虫のせいで痛い目にもあってきましたが、生き物のおもしろさにも興味が出てきました。吹田の下町育ちなんでカブトムシも見たことがないくらいだったんですが」と角村さんは笑う。そんな自身の変化もあって、地元の吹田市の小学生を山に招いて観察会を主催したところ、好評だったそうだ。

現在は栗以外にも柿やレモンを植えて和菓子の幅を広げようと考えているという。手つかずだった雑木林の開拓も徐々に始めている。他にも長野で日本で初めてマツタケ増産に成功したマツタケ名人のところに出向いて栽培の指導を勉強してきた。
「マツタケが採れる山になれば、若い人も増えるし、獣害も減ります。そのためにもまだ手入れできていない雑木林の手入れを計画しています。林に堆積(たいせき)する枯れ枝や落ち葉を取り除く『柴(しば)かき』をして、栗園で堆肥(たいひ)として活用したいんです」(角村さん)

和菓子職人姿の角村さん

角村さんは「あくまで和菓子屋が本業である」という信念を持っている。一方で能勢の里山を未来につないでいくために自然と共生しながら山を整備し、栗を育て、栗を加工し、おいしい和菓子を作り続けている。「銀寄」を幻の栗にしないためにも発祥の地、能勢の山を守り育てている。