パリ2024パラリンピックを最後に、パラリンピックから引退を表明している“30年選手”の土田和歌子が、大会最終日に行われた陸上競技女子車いすマラソンに出場。石畳の難コースで最後まで力を振り絞り、6位でゴールした。
レース後の疲労感と充実感「ありがとうの気持ちでいっぱい。このパリの地でパラリンピックに挑戦できたことに、よろこびを感じてフィニッシュしました」
疲労感は隠せない。けれどもそれを上回る充実感が浮かんでいた。
パラアスリートにとっては、きわめて過酷な石畳の難コースを激走した。スタートはパリ北東部にあるジョルジュ・ヴァルボン公園。陸上競技のトラックとは逆の時計回りの周回コースをまわって、市街コースへ。終盤にある凱旋門へ向かう長い上り坂は、石畳に揺すられ続けた体にむち打つような鬼のセクションだ。バンクやでこぼこに備えて路面を見つめながらのラン。歴史的建造物に視線を送る余裕はもちろんない。
ゴール後、土田の表情から充実感が伝わってきた「やはり、想定していた通りに非常にテクニカルで、勾配もあった。石畳というところで路面状況も非常に厳しかった。でも、気持ちを切らさず、粘り強く走り切れたと思う」
そう振り返ったように、トップグループには差をつけられていたが、「前へ前という、その一心」(土田)で車輪をこぎ続けた。前方の集団からこぼれ落ちた選手が視界に入ると「見えた瞬間は追いかけるという動物的本能を見せていたかな」と笑った。
タイムは1時間52分39秒。今、持てる力をすべてこの時間に注ぎ込んだことに胸を張った。
30年の大ベテランにも効く声援の力初めて大舞台を経験したのは、交通事故から数年もたたない19歳で出た1994年のリレハンメル冬季大会。アイススレッジスピードレースで氷上を疾走し、1998年の長野冬季大会では、金メダル2個と銀メダル2個に輝き、一躍パラスポーツ界の顔となった。
陸上競技に転向した後も、2000年のシドニー大会から今回のパリ大会まで、夏季パラリンピックに日本歴代最多タイの7大会連続出場。2004年のアテネ大会では、女子5000mで金メダルを獲得し、日本人で初めて夏冬両方のパラリンピック金メダリストとなり、東京大会ではトライアスロンにも出場した。
沿道から多くの観客が声援を送った初めてパラリンピックに出場して以来、30年間で日本開催の2大会を含む9大会に出場し、手にしたメダルは合計7個。そのひとつひとつにかけがえのないストーリーがある。
「沿道から大きな声で『ブラボー』って声をかけられるんです。『ワコ、がんばれ!』って聞こえるんです。すごく後押しされた気がします。本当にありがたかった。力をいただいた」
一人のランナーとしてこれが最後という覚悟を決めて突き進んできた3年間は尊い日々だった。
「スタッフの力添えもそう。多くのアスリート仲間や所属会社の力もそう。多くの力が合わさってこの場に立てたことを感じている。メダルを目指してきたので、食い込めなかった悔しさはあるけど、(東京大会からの)3年間のプロセスには本当に満足している。喜びを持ってこのパラリンピックを走り切れた」
感無量の土田は「無事にゴールできたのはうれしい。最後まで走り切るということを誓ってスタートラインに立ったので、それは1つ達成できたかなと思う」とも言った。
土田は、さまざまなストーリーをつくってきたその言葉には実感がこもっていた。2008年の北京大会では、5000mのレース中に転倒に巻き込まれて肋骨を骨折し、マラソンは棄権した。2012年のロンドン大会ではカーブを曲がりきれずに転倒し、気合いでゴールにたどり着いた。今大会、メダルに届かなかった悔しさはあるが、数々のアクシデントを乗り越えてきた土田は6位入賞という成績の価値を知っているのだ。
「日本代表選手として戦わせていただいた30年間は、良くも悪くもいい形で自分自身が成長できた期間だった。日本代表としての挑戦はここまでと思っていますが、土田和歌子、ランナーとしての挑戦はこれからも続けていきたい。走ることで車いすマラソンの魅力を感じていただきたい」
パラリンピックを愛し、パラリンピックに愛された。30年間、挑戦を止めなかったアスリートが、パリで次章のスタートを切った 。
edited by TEAM A
text by Yumiko Yanai
photo by Takamitsu Mifune