ペガソというスペインの自動車ブランドを知るにあたっては、多少なりともスペインの歴史を知る必要があるだろう。第2次世界大戦開戦の直前までスペインは内戦状態にあった。結果は反乱軍の勝利となり、権威主義政権のフランコ政権が誕生することになる。そしてそのまま第2次世界大戦に突入。戦後、内戦中に国家を統治したフランシスコ・フランコ・バアモンデが独裁政権を樹立して国を治めることになった。スペインが現在のような西側諸国と同じ自由主義国家に変貌するのは実に1978年のことなのである。
【画像】リアのドーム型ともいえる巨大なリアウィンドウがとてもユニーク!人目を引くデザインのペガソZ102 クプラ(写真6点)
そのフランコ政権下で、多くの軍用機や軍用車を生産していたのがイスパノスイザである。一般的にスペインの高級車メーカーという認知が自動車ファンの間では定着しているが、戦後も航空機メーカーとして存続していた。そして1946年にイスパノの自動車部門がENASA (Empresa Nacional de Autocamiones S.A.)に売却される。イスパノを買い取ったENASAはその名が示すように、元々トラックを中心とする商業車ブランドとして立ち上がったのだが、風向きが大きく変わるのは1936年からアルファロメオで辣腕を振るった名エンジニア、Wifredo Pelayo Ricart Medina(ヴィルフレード・リカルト)のENASA入社からだ。アルファロメオ時代に数々の迷作(高度な設計ながらものにならなかった)を作り上げ、エンジニア仲間からは一目置かれる存在となっていたが、同じアルファロメオに所属していたエンツォ・フェラーリとはそりが合わずにいたようである。
いずれにせよそのリカルトがENASAに請われて入社したことで、ENASAは単なるトラックメーカーから、再び高級車を作るブランドを保有することになるのだ。そのブランドこそ、ペガソである。
と言ってもペガソの名を持つ最初のモデルはやはりトラックであったし、そのエンジンを設計したのもまた、リカルトであった。こうして確かな基盤を作り上げたリカルトは、いよいよ高級車の開発に乗り出す。そして誕生したのがZ102と呼ばれるスポーツカーであった。アルファロメオ時代に培ったリカルトの思いがすべて詰まったこの車のエンジンは、完成当初2.5リッターDOHC32バルブV8、オールアルミ製と凝った設計であったが、彼はさらに排気量拡大の余地を残した設計をしていて、最終的には3.2リッターにまで拡大されていた。しかも物によってはスーパーチャージャーも備えるなど、エンジンバリエーションは多岐を極めた。5速のトランスミッションはデフと一体化されてリアにマウントされるトランスアクスル方式を採り、サスペンションはフロントにダブルウィッシュボーンと縦置きのトーションバーを備え、リアにはドディオンアクスルと横置きトーションバーが採用され、短いホイールベースのプラットフォームシャシーが採用されていたのである。当時ラダーフレームが一般的な中では革新的なフレームであった。
1952年になってZ102は2台のショーカーが開発された。このうちの1台はカロッツェリア・ツーリングのボディを纏い、その名も Thrill Berlinettaとよばれた。そしてもう1台がENASAの内製ボディと言われているここに登場するBerlineta Cúpula(クプラ)と呼ばれたモデルである。この車は1953年のニューヨークショーにおいて公開され、その奇抜なデザインが気に入ったのか、当時のドミニカ共和国大統領ラファエル・トルヒーヨに購入された。そして彼は1961年に亡くなるまで(暗殺された)、この車を保有していたという。ニューヨークショーに展示されていた当時は鮮やかなイエローの外装と淡いグリーンの内装(シートからダッシュボードに至るまでグリーンである)、それにホワイトならぬレッドリボンのタイヤにシルバーのワイヤースポークを履いた実にド派手な車であった。
それにしてもリアのドーム型ともいえる巨大なリアウィンドウが人目を引くこのデザインは、その当時、30年後の車がどのような外観になるかを調べるという課題を与えられたスペインの学生によって描かれたものだそうで、いわゆる有名どころのカロッツェリアによるデザインではない。
本国の『Octane』誌だろうか、実はこの車のインプレッションをしている。それによればエンジンは250bhpを発する2.8リッター32バルブで、初期モデルの2.5リッターではない。しかもバルブ駆動はデスモドローミックだとある。トランスミッションはすこぶる重く、左ハンドル車にしてローの位置は右上。つまり通常とは真逆のシフトパターンを持っているそうだ。おまけにそのシフトレバーはまるでゴルフクラブのヘッドをつけたようで如何にも持ちにくそうである。また、ウィンドーの開閉も独特で通常のウィンドレギュレーターはなく、2本の細い垂直の棒がガラスに接続されており、これを小さなホルダーから外して水平に動かし、外側に押し出して窓を開けるのだという。まあ実際にやってみないとわからないような機構である。
シャシーナンバー0102 150 0121と言われるこの車、ラファエル・トルヒーヨが手放して以後(というか暗殺されたのちに政府に没収されたようだ)の消息はあまりわかっていないが、1980年代の中盤になってロッソビアンコ博物館のピーター・カウスが購入したようである。少なくとも筆者がロッソビアンコ博物館で現物を見た時はボディはシルバーに塗装され、ワイヤースポークホイールが赤に塗られていた。そしてカウスが手放して以後オランダのルーメン博物館に所蔵され、6年かけてオリジナルのカラーリングに戻す修復作業が行われたという。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh