ここに2台の1930年代ランチアV8レーシングカーがある。1台はディラムダ・サルーンからのコンバートで、もう1台は伝説のジャーナリスト、ロナルド・バーカーによる”ステディ・スペシャル”だ。試乗したジョン・シミスターが2台の魅力を語る。
【画像】戦前の硬派なランチア・スペシャル2台を乗り比べる(写真14点)
車は生命のない物体だ。当然、政治的信条も持っていない。だから、このペールグリーンの機械に対してファシズムの支持者と責めることはできない。たとえベニート・ムッソリーニがそう考えていたとしても。ムッソリーニはこの1台を知っていたはずだ。これは、1938年のコッパ・ディ・ナターレで、27秒もの大差をつけて無過給機クラスを制したマシンなのである。レースの舞台はイタリアが誇る植民地、東アフリカのエリトリアで、そこに完璧な都市計画で建設された新市街地のアスマラ・ノヴァだった。イル・ドゥーチェはレースプログラムの巻頭言で、「Io ho per le strade una passioneromana」と述べている。「私は道にローマ人と同じ情熱を持っている」といった意味だろう。
このプログラムには、ファシズムへの賛美があふれていた。当時、ファシズムはイタリアのブランドであり、力と支配につながる道筋だった。いうまでもなく、出走車両はすべてイタリア製で、その中でランチアは1台だけだった。それが今回の主役だ。
1台きりのレーシングスペシャル
これはランチア・ディラムダだが、一般に知られているものとは異なる。標準のディラムダは、挟角の4リッターV8エンジンを搭載した大型のサルーンかクーペ、ツアラーで、レーシングカーらしさは欠片もない。だが、重いボディワークを剥ぎ取り、ホイールベースを2フィート7インチ(約63cm)短縮すれば、レーシングカーとしての可能性が見えてくる。加えて、フリーフローの排気システムと吸気量の多いキャブレターで、エンジンの吸排気を向上させてある。このシャシーナンバー”32-1077”は、元は第2シリーズのティーポ232ディラムダとして1933年に製造された。分かっている範囲では、レーシングカーになった唯一のディラムダである。少なくとも、エリトリアで唯一だったのは確かだ。それでも、コッパ・ディ・ナターレでステアリングを握ったフルヴィオ・フランチョージは、この上品なロードカー(リムジンにするオプションさえあった)をレーシングカーにするのはいいアイデアだと考えたらしい。
ひょっとしたらアスマラの代理店が仲介して、ランチアの競技部門がコンバートを認めたか、自ら製造したのだろうか。その答えを知る者はいないようだ。しかし、このディラムダがコッパ・ディ・ナターレをはじめとするエリトリアでのレースに挑む写真なら、何枚も残っている。スターティンググリッドについた姿や、コーナーでスピンしてライバルを巻き込んだときの姿、ラジエターカウルを失いながら激走する姿などだ。また、グレゴリ・ジジーノという人物が”ビラムダ”(原文ママ)をドライブしたと記された1枚もある。
コッパ・ディ・ナターレは1938年のクリスマスに開催され、その様子は『Corriere Eritreo』紙のスポーツ面で伝えられた。アスマラ・ノヴァは、エリトリアの首都アスマラの新市街で、1893年にできたイタリア軍基地から発展した。新しい建物や区画は、イタリアでもてはやされていた近代主義や合理主義のスタイルで設計され、1935年に建設が始まった。拡張された市街地は、あたかも同時代のイタリアの一部がそっくり南に移転したかのようだった。これを祝うのに、スピードを誇るイタリア車で自動車レースを開催する以上の方法はない。
だが、それも長くは続かなかった。第二次世界大戦が激しさを増す中、エリトリアは1941年からイギリスの支配下に置かれ、戦後は実質的にエチオピアに併合された。それから数多の戦乱を経て、1993年にようやく独立を成し遂げた。現在のアスマラは、華やかなアールデコの面影を残すとして、世界遺産に登録されている。では、レーシングカーとなったディラムダは、その後どうなったのだろうか。
戦禍を逃れたレーシング・ディラムダ
戦後、エリトリアに駐留したひとりのアメリカ兵がこのランチアを見つけて、母国に持ち帰った。以来ずっとアメリカに留まり、途中で2液型の赤のペイントを施された。2020年に、フェニックスグリーン・ガレージのニコラス・ベンウェルがイギリスへ運び、ウォルター・ヒール社と共同で保管していた。これを購入したのがジェームズ・ブラウンで、ウォルター・ヒールでレストアして、当時と同じセルロース塗料でオリジナルの色に戻し、きちんと走るよう整えた。そして、2022年にグッドウッド・メンバーズ・ミーティングに出走した。レースに向けたテスト走行もせず、当日は4速ギアを失ったため、出走したヴァルツィ・トロフィーでは苦戦を強いられた。このときは発揮できなかったが、ポテンシャルを秘めているのは間違いない。
今回ジェームズは、この唯一無二のマシンを試乗する機会を『Octane』に与えてくれた。ウォルター・ヒールには、変わったヒストリーを持つV8エンジンのランチアがもう1台あり、これも試してみては、ということになった。こうして私たちはウォルターのワークショップへやってきたのである。そこは華やかさとは無縁だが、本物の古艶が香り立つ場所だった。
”バーカーさん”のディラムダ
もう1台のランチアについては、以前に『Octane』で紹介している。2014年のことだ。私は、当時まだ創設間もないランチアのスペシャリスト兼レストアラーのソーンリー・ケラムで、”ステディ”ことロナルド・バーカーに会った。残念ながら今は亡きモータージャーナリストで、常識にとらわれない勇猛果敢な人だった。1950年代、ステディはヴィンテージ・スポーツカークラブ(VSCC)のレースに、ユニークなランチアのスポーツカーで出走していた。それは彼が自ら製造したマシンだった。ベースとなった1934年ランチア・アストゥーラは、これまた堂々たる車体を持ち、3リッターではあるがやはり挟角のV8エンジンを搭載していた。
ステディはシャシーを3フィート1インチ(約94cm)短縮し、その際に、ラダーフレームに十字に組まれていたクロスメンバーをV字に変更した。そして、入手してあったアストンマーティンDB2/4の逆開きのボンネットと組み合わせられるように、フルワイドボディを造らせた。当時のVSCCは、今ほどオリジナリティにうるさくなかったのである。”ステディ・スペシャル”(別名”ショートアストゥーラ”)と名付けられたこの車は、サーキットやヒルクライムで数々の成功を収めたが、1958年にはマイケル・スコットに売却された。のちに業界団体のインターナショナル・ギルド・オブ・スペシャリスト・エンジニアズを設立した人物だ。
スコットは、ステディ・スペシャルでレースに出るつもりだったが、VSCCはルールを厳格化した。結局、1976年に売却し、その後 1990年に、ボディを失った状態でステディが買い戻した。ステディは、翌年にかけて車には手を付けずに、もっとふさわしい新たなボディのデザインをスケッチした。スコットは車を再び買い戻し、ボディがないにもかかわらず、大幅に高い金額を支払った。そして2012年まで、ステディが思い描いたボディを現実のものにする方法を調べていた(ステディ・スペシャルに関する年代は、その後の調査と新たに掘り起こした記憶を元に、以前の記事から一部変更した)。
3Dエンジニアズ社のスチュアート・ブラウンが、スケッチをコンピューター上で設計図に変換した。これを基に実物大の成形型と木型が造られ、ソーンリー・ケラムがボディを製作する準備が整った。こうして、アルミニウム製ボディが手作業で見事に成形された。レーシングカーらしい曲線美は、アルファロメオ8C 2300やライレー・インプを思わせる。前に訪問したときは、これをランニング・シャシーに架装したばかりで、私は恐る恐る中庭で運転させてもらった。ステディは出来栄えに大満足だと話していた。
プロジェクトが進むにつれて、費用はうなぎ上りに増えていった。作業は別のレストアラー、トラクション・シーバートに引き継がれ、そこでステディ・スペシャルはようやく完成した。以来、96エンジニアリングでメンテナンスを受け、ブガッティの専門知識で知られるアイヴァン・ダットンの指導の下、エンジンのリビルドを受けた。2013年の4月には、第80回のグッドウッド・メンバーズ・ミーティングにも出走している。そして今、積み上がった膨大なコストを回収するため、ステディ・スペシャルは売りに出されようとしていた。
ステディとの対話
再びステディ・スペシャルのステアリングを握るのは興味深い体験だ。新ボディは”ステディの本物”ではないものの、シャシーが造られた時代の精神をよく反映しており、ブラックが艶やかに輝いている(当初の予定はダークブルーだった)。ドアはない。私が2014年にソーンリー・ケラムを訪問した際、新しいボディをカットしてドアを造るかどうかが、検討事項のひとつだった。結局、コストがかさむし、不要だろうという結論に至った。同様に、スコットが提案したV字型のウィンドスクリーンも採用されず、代わりに2個のエアロスクリーンを装備する。
低い位置にヘッドライトが付いたラジエターグリルは、ステディがDB2/4のボンネットのフロントとして考案したものに似ている。両側のフェンダーは繊細な昆虫の羽を思わせる。ボンネットに付いたリベット留めのバルジの下にはキャブレターがある。これが不釣り合いにそびえ立っている土台は、ロッカーカバーのように見えるが、実は違う。その下に隠れているのは、迷路のように曲がりくねった吸気マニフォールドだ。
この車のディテールは実に味わい深い。ボディ側面下部には、”STEADY”の文字をくり抜いた踏み台が取り付けられ、スペアタイヤのカバーには、空気を導くストレーキが付いている。ギアレバーのリモートリンケージがあるところには、以前は長く太いクランク状のものがあって、2014年の時点では(おそらく1934年からずっと)それで変速が行われた。
近代化を許したのは1箇所だけで、リアにコイルダンパーユニットを装着する。これは、オリジナルのリーフスプリングを補助するためだ。サルーンのアストゥーラにとっては柔らかいが、大幅に軽量なショートアストゥーラにとっては硬く、スポーティーな用途に合っているものの、明らかに剛性が足りないのである。
始動すると、ビートの効いた大音量が響く。フラットプレーンのV8と、より一般的なバンク角90°のV8との中間のような音だ。この車のエンジンはバンク角17.5°である。ランチアは、”正しい”バンク角という概念に背を向けることが多かった。それよりも、まず必要なサイズに収めるコンパクトな設計を追求してから、等間隔点火が可能なクランク角を考案した。オーバーヘッドカムシャフトを駆動する3本のチェーンが陽気にキンキンと鳴っている。
シフトゲートが通常とは左右反転していることを忘れないようにしなければならない。シンクロメッシュもないから、正確なタイミングでのクラッチ、シフト、ブリッピングが不可欠だ。エンジンはたちまち本性を現した。情熱的に回り、トルクが太い。ステディが過去に施したモディファイの賜物だ。吸気バルブを拡大し、カムシャフトで吸排気をスムーズにして、圧縮比を強力な6:1に引き上げた。その結果、出力は約100bhpに高まっている。
私たちは、サリー州南部のでこぼこした田舎道を飛ばしていった。ステアリングはクイックだし、正確なので頼りになる。これは独立式フロントサスペンションの正確性でもある。ランチアお馴染みのスライディングピラー式だ。乗り心地は硬いが、耐えがたいほどではなく、1930年代の車にしてはめずらしく、車全体に一体感がある。あと必要なのはシフト操作に磨きをかけることだけだ。
生まれ変わったステディ・スペシャルは、まさに命がみなぎっている。面白いV8エンジンを搭載し、シャシーを短縮した戦前のランチア・スペシャルの世界に慣れてきたところで、私はディラムダに乗り換えた。写真撮影では、比較用にフェンダーを装着したが、走行時は外す(ここだけの話だ)。ヘッドライトもないから、完全なレース仕様である。長いボンネットの向こうに、2本のがっしりした斜めの鋼管がわずかに見える。これに支えられて垂直に高く突き出しているのは、スライディングピラーのハウジングだ。コクピットの両側、切り取られた開口部のすぐ下に、熱い排気管が走っている。エアロスクリーンは1個だ。
走行前に検分すると、興味深い点が様々に見えてきた。排気マニフォールドは前方へと折れ曲がり、その下に並んだ両側のスパークプラグの間に、幅の広いアルミニウム製カムカバーがある。これとその下にある1個の鉄製シリンダーヘッドが、24°に開いた両バンクを橋渡ししている形だ。キャブレターは、アメリカのストロンバーグ製アップドラフト式で、非常に大きなものが1個、エンジン左側の低い位置にある。以前はウェバー30DCRだった(オリジナルはアストゥーラと同じくゼニス製)。車体の下をのぞくと、ギアボックスの巨大なアルミニウム製ケースと、さらに大型のディファレンシャルケースが見えた。リアのリーフスプリングは、幅の広い分厚い板バネがいくつも重なり、まったく動きそうにない。これが取り逃した振動は、フリクション・ダンパーが制御する。
車内に目を向けると、ギアレバーは太く、かなり短い。シフトゲートは逆向きで、押しボタン式のリバースロックが付いている。ほかのギアも袋小路に陥りやすいことは、あとで分かった。巨大な回転計は、フランスのイエガー製のクロノメトリック型で、少々ムラ気がある。シートの背もたれは、ほぼ直立しているように感じる。1930年代のレーシングドライバーに特有の背中を丸めた姿勢を取りやすい。足で操作するスターターボタンを踏むと、ステレオの大音響が鼓膜に襲いかかってきた。その音は、同期のずれた荒々しい2基の4気筒エンジンが、自分に注目してもらおうと争っているかのようだ。
これをコントロールするスロットルペダルは、不安になるほど敏感で、前後というより上下に近い動きをする。クラッチペダルを慎重に踏むと、意外にも扱いやすく、うまくエンゲージして発進した。ハイギアードの1速で引っ張り、このタイミングで合っていてくれと願いながら、やはりシンクロのない2速へ、さらに上へとシフトアップしていく。駆動系がガチャンと音を立て、ギアレバーの操作も容易ではない。回転とパワーが高まるにつれて、V8のビートらしきものが聞こえてきた。岩から岩へと飛び移るように、サリー州のでこぼこ道を疾走していく。泥だらけの路肩が常にゾッとするほど近くにある。大音響で耳鳴りがし、振動が背骨に響く。
ここは、サスペンションが岩のように硬く、トルクは太いがトラクションは不足気味のレーシングカーには向いていない。この車には、もっと滑らかな道が必要だ。それでも、ディラムダを進むべき方向へ導き続ける満足感は大きい。ステアリングはクイックかつ協力的で、直進時の遊びが驚くほど少ない。フルヴィオ・フランチョージは、優勝したコッパ・ディ・ナターレでこの走りをさぞ楽しんだことだろう。対して私はといえば、木の板を何枚も束ねた棒で打ちすえられた気分だ。そこにオノの刃を付けたものを、古代ローマ人はファスケスと呼んで権威の象徴とし、のちにそれがファシスト党のシンボルになったのだった。
1933年ランチア・ディラムダ・レーシングカー
エンジン:3958cc、24°V型 8気筒、SOHC、ストロンバーグ製 UUR-2アップドラフト式キャブレター
最高出力:100bhp/ 4000rpm(オリジナルの出力) 変速機:前進4段MT、ノンシンクロメッシュ、後輪駆動
サスペンション(前):スライディングピラー式独立、筒内コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、フリクション・ダンパー
ステアリング:ボールナット ブレーキ:4輪ドラム
1934年ランチア・アストゥーラ ”ステディ・スペシャル”
エンジン:2972cc、17.5°V型8気筒、SOHC、ゼニス製32DVIキャブレター
最高出力:約 100bhp/ 5000rpm 変速機:前進 4段 MT、ノンシンクロメッシュ、後輪駆動
サスペンション(前):スライディングピラー式独立、筒内コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、コイルダンパーユニット
ステアリング:ボールナット ブレーキ:4輪ドラム
編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵
Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation:Megumi KINOSHITA
Words:John Simister Photography:GF Williams