第9期叡王戦で伊藤匠が藤井聡太を破り、新叡王を手にしました。と同時に昨年秋から続いてきた八冠独占も崩しました。新たに生まれた伊藤匠というスターはどのような人物なのでしょうか。
本稿では、周囲のさまざまな人による証言から伊藤匠という人物像に迫った2024年8月2日発売の『将棋世界2024年9月号』(発行=日本将棋連盟、販売=マイナビ出版)の特集「証言 伊藤匠という人―寡黙な男の雄弁なる指し手―」より、一部を抜粋してお送りします。
兄弟子である、斎藤明日斗五段、本田奎六段。そして幼少期より伊藤叡王とはライバルであり友人でもあった川島滉生さん、師匠である宮田利男八段、父親の伊藤雅浩さんの談話やコメントをお送りします。
(以下、記事より抜粋)
斎藤明日斗五段 「いつか絶景の舞台で」~6月20日のこと
「とりあえず落ち着こう」。斎藤明日斗はそう思った。そして一人暮らしの部屋を掃除し始めた。台所周りをきれいに洗い、掃除機で埃を吸う。溜まっていた洗濯を済ませ、一つ一つを丁寧に干していく。そうしながら頭の中で、AbemaTVで観た出来事を振り返った。
叡王戦第5局、勝ったのは同門で弟弟子である伊藤匠だった。小さい頃から師匠の教室で共に将棋の研鑽を積んできた。(中略)師匠の宮田はほとんどの子にはダジャレを言って、ニコニコしながら相手していた。だが、ある少年の前では立ち止まる時間が長く、口調も明らかに厳しい。少年は斎藤より4歳下の伊藤匠だった。
「あの子には何かあるんだろうな」子ども心にそう感じられた。その彼が、タイトル戦無敗を続けていた絶対王者から叡王を奪取した。同門として喜ぶべきことだが、すぐには気持ちの整理ができない。
本田奎六段「達観からの再出発」~もう一人の怪物
今回、伊藤が藤井の全冠制覇を崩したことで、棋士の中で神格化された藤井への認識は変わるのだろうか? 「確かにそういう意見もありますね。でも自分は伊藤くんに勝てるのか?と言われたら、人間じゃない存在がもう一人増えただけな気がします。将棋の力という意味で」
本田が伊藤と初めて指したのは、自身が奨励会を受験する時期だったという。伊藤は小学1年生だったが幼い感じで、本田の中では幼稚園生の印象だった。「自分が上手の二枚落ちで指したのですが負かされました。普通は奨励会を受ける者が、その手合いであんな小さな子に負けることはないんです。すごいビックリした記憶がありますね」
川島滉生~才能の確率
「自分は明らかに将棋の才能があると思います。でもプロの道を目指さなかったことに、全く後悔はない。それは小学生で自分はこの道ではトップに立てないって気づかされたんです。伊藤匠という存在によって」
小学3年の全国大会決勝では伊藤に勝つことができた。だが常に自分の一歩、二歩先をいく存在であり、その背中を追いかけても差が縮むことがないのを感じていた。
「当時自分は将棋の天才だと思っていた。でもその上に、さらに天才がいたんです。しかもすごい身近に。そうしたら当然世の中にはもっといると考える。だから諦めたのですけど、僕はそこの計算を間違えていた。たっくんよりすごい人間なんて、近い世代には藤井さんしかいなかった」
宮田利男八段~「弟子たちの巣立ち」
第3局に伊藤が勝ち、叡王奪取に王手をかけた。宮田はタイトルを獲れるなら、次で決めなければダメだと思った。しかし第4局は藤井の完璧な指し回しに一方的に押し切られる。
「普通だったら、流れから次もダメだろうなって思う。でも伊藤は信じられないくらいに耐えていた。自分だったら、一か八かの勝負に出るんだけど、アイツ、ずっと耐えているんですよ、最後まで。コイツ、すごいなと思った。それを見たときに、もしかしたら5局目にも可能性があるような気がしました」 (中略) 教室に通い始めた5歳の頃の伊藤を思い出して、宮田は「モノが違った」と呟く。ずっと盤の前に座り続ける忍耐力に驚かされた。
「私の座右の銘は初代若乃花の『人間辛抱だ』って言葉です。将棋は派手な手や妙手が注目されるけど、最後はやっぱり我慢強い者が勝つんですよ」
伊藤雅浩弁護士~「父の涙」
「また抽選に外れたか」。叡王戦第5局の大盤解説会に応募したのだが、結果は当選から漏れてしまった。それだけ応募者が多いということなので、喜ぶべきだと、伊藤雅浩は思った。匠に頼めば招待枠をもらうことができるかもしれないが、負担をかけたくなかった。
雅浩が抽選に外れたことを知った知人が、自分の当選券を譲ってくれると言う。それは申し訳ないと思ったが、息子の人生にとって大きな一番を見守ることができるのであればと、申し出を受けることにした。
(中略)
モニターに、藤井聡太が「負けました」と頭を下げる映像が流れると、雅浩はすぐに席を立ち、会場をあとにした。挑戦者が勝ったあとの空気の中にいることが、耐え難かった。このときは特別に喜びを感じていたわけではない。むしろ冷静な気持ちだった。甲府駅から特急「あずさ」に乗り、東京へと向かった。
(中略)
特急「あずさ」東京行き――。ふと携帯が鳴り、着信を見ると宮田からだった。雅浩は席を立ち、連結部に行って電話に出た。走行音にかき消される中、「よかったですね」という声が聞こえた。向こうで師が涙ぐんでいるのがわかった。答えようとして声が詰まる。「ありがとうございます」言葉を絞り出すと抑えていた感情が込み上げてきて、涙が頬を伝った。
(証言 「伊藤匠という人―寡黙な男の雄弁なる指し手―」/【構成】野澤亘伸)
2024年8月2日発売の『将棋世界2024年9月号』(発行=日本将棋連盟、販売=マイナビ出版)の特集「証言 伊藤匠という人―寡黙な男の雄弁なる指し手―」本編では、この4人の貴重なコメントをさらに掲載しているほか、伊藤叡王本人のインタビューも収録しております。ぜひご一読ください。
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