マリメッコやイッタラを生んだデザイン都市・ヘルシンキで陶芸の道へ
首都ヘルシンキは19世紀より工芸品作りが盛んなデザイン都市で、マリメッコやイッタラ、アラビア窯といった北欧を代表する世界的な工芸ブランドを生み出している。
そんな街で利昌さんが陶芸を始めたのは8年前。しかもほぼ独学だという。作品は年々、皿や花器などの実用品では物足りなくなり、最近はアートなオブジェをメインに創作。粘土を伸ばして巻いて形にする「手びねり」から派生した手法を好んで使い、「粘土というのはエネルギーが吸い取られていく、もしくはエネルギーを込めて行く作業。そこに楽しみを見つけてやっています」と語る。
工房があるのは、家族4人で暮らす郊外の自宅。現地で出会った妻の佐和子さん(38)はプロのテキスタイルデザイナーで、マリメッコと協働した作品が商品化されるなど、第一線で活躍している。
日本人デザイナーとの出会いから繁盛していたレストランを閉め、陶芸家に
利昌さんがこの地にやってきたのは2008年。当時は料理人で、日本料理店で修業後、22歳のときに世界の料理を見聞するためフィンランドへ渡った。そこでヘルシンキに店を開こうと全財産を投じるも、改装業者が工事を途中放棄してしまうというトラブルに見舞われる。お金もなく、ろくに言葉も話せなかったが、それでも決めていたのは、美容師だった父が美容院を始めたのと同じ26歳で開業すること。心が折れそうになる中、父にも励まされ、なんとか開店にこぎつけた。
こうしてオープンすると、フィンランド風にアレンジした料理が好評で、レストランは大繁盛する。そんな店に当時、お客さんとして来ていたのが、マリメッコのテキスタイルデザイナーでアラビア窯の陶芸も手掛けていた石本藤雄さん。日本人の感性がベースにありながら、フィンランドを感じる石本さんの作品に感銘を受けた利昌さんは、多忙な仕事の合間を縫って工房に通い詰めるように。そして石本さんが引退して帰国するとき、陶芸の道具一式を譲り受けた。これを機に、レストランを閉じ、陶芸家一本でやっていこうと決断する。
繁盛していた店よりも、自宅でできる陶芸を選んだ理由のひとつが、子育て。収入は激減したが、それでもたまに作品が売れて、不自由なく暮らせるうちは思うままに生きようと夫婦で話し合ったという。
実は、利昌さんの父もやっとの思いで開業した美容院をすっぱりと閉店。そして心の病を抱え家から出られなくなった母を支えながら、利昌さんら2人の子どもを育てるため、時間の融通がきく仕事に転職したのだった。また、父と同じ美容師だったものの、理想の人生を歩めなかったであろう母からは「やりたいと思ったことをやってね」と言われているそうで、そんな言葉も利昌さんの背中を押してくれている。
今回初めて、現地での利昌さんの姿を見た父・重男さん。作品については「いいのかどうか、私はわかりません」と笑うが、かつて息子から流行っていた店を閉じると聞いたときには、「料理を続けてほしい」と伝えたという。しかし、「それは変えなかったですね」と意思が固かったことを明かす。
心惹かれた陶芸の世界に飛び込み感性で勝負する息子へ、父からの届け物は―
間もなく行われる展示会に出品を予定している利昌さん。釜入れしていた試作品が完成したというこの日は、仕上がりを確認することに。形も色あいも独創的な数々の陶器は「上に食べ物をのせる」ものだそう。「料理って普通、器かお皿で食べるんですけど、その概念すら壊しちゃおうかなと」。そして「今回はよかった」と出来上がりに満足する。
料理人としての成功を投げ打って心惹かれた陶芸の世界に飛び込み、類まれなる感性で勝負する息子へ、父からの届け物は30年前に両親が美容室で使っていた前掛けと、母が10代から愛用していたハサミ一式。父が大切に残していた仕事道具に、「僕も道具を使う仕事なんですけど、魂が入ってると思うんですよ。これで生きてきたという道具を託してもらったのは、見るだけで力がもらえます」と感激し、目頭を押さえる。そして「子どもの活躍が親の夢でもあると思うので、しっかりやっていきたいと思います」と、まっすぐに今の道を進むことを誓うのだった。