2024年1月、13.3型モバイルPC「dynabook X CHANGER」の個人向けシリーズが登場した。2023年7月に法人向けに発表された、バッテリー交換機構を備えた「dynabook X83 CHANGER」の個人向けモデルにあたる製品だ。
発表に先立つ2023年7月に、法人向けとなるdynabook X83 CHENGERシリーズの発表に合わせて、開発経緯をインタビューした(記事はこちら「dynabook X83のキーボードに注目、「異次元のレベル」で削られた0.3mm」)。
そのときDynabook社が訴求していた「キーストローク2mm」の打鍵感(タイプフィーリング)について、開発担当者からはていねいに細かく回答してもらえた……ものの、最終的には「今あるのはファーストアウト(最初に組み立てた試作初号機)。これから2023年12月の出荷に向けてチューニングを重ねていく」とのことで、キーボードの使い勝手はどんどん向上していくことを示唆していた。
それから1年が経った。
法人向けのdynabook X83 CHANGERの2mmストロークモデル、そして、個人向けのdynabook X CHANGERの出荷が始まった。キーボードのタイプフィーリングは最終的にどうなったのだろうか。その“答え合わせ”のインタビューをしていこう。
編集部注:取材は2024年2月に実施。話を伺ったDynabook 国内PC事業本部 事業本部長附の中村憲政氏は現在退職している。
2mmのチューニング、結局どうなった?
まずはキーボードのタイプフィーリングに関してどのようなチューニングを施していったのかを聞いてみた。ちなみに、前回のインタビューでは、私が「2mm、2mm」としつこく繰り返して質問をしていたら「いやいや、2mmというキーストロークも大事ですけれど、肝心なのは“フィーリング”」と諭されている。
dynabook X CHANGERシリーズ開発の取りまとめた中村憲政氏(Dynabook 国内PC事業本部 事業本部長附※取材当時)は、タイプフィーリングに大きく影響する「ラバードーム」からタイプフィーリングの形成について説明を始めた。
ちなみにXシリーズをはじめとしたdynabook製品はパンタグラフ構造のキーボードを採用しており、キーを支えるパンタグラフの下に打鍵の要であるラバードームが内蔵されている。
「キーの1つ1つの下には“ラバードーム”があります。キーが押されるとラバードームが形状を維持しようと耐えますが、一定の圧力を受けると潰れます。その瞬間にクリック感が生まれるわけです。ラバードームが潰れるまでの力と、その後の反発力が指にクリック感を与えます。このようなキーボードでは、メカニカルキーボードのような明確なクリック感をラバードームで再現するために諸々の調整を行っています」(中村氏)
ラバードームがつぶれてキーが押された後、ラバードームの下にあるシート状のメンブレンスイッチが接触してキー入力が認識されるまでに必要な力(これにはキーを押す力と共に、キーから押し返される力や、押し切った後にキーユニット基板の剛性から受ける反作用の力の合成で形成される)の時系列変化で形成されるフィーリングも、ラバードーム形状によって調整している。
また、ラバードームが潰れるまでと、潰れ終わって押し込むまでの力の違いは直線ではない。押すときと戻るときの力が異なり、これによってクリック感を表現している。ラバードームが潰れるときの力は材料の厚さによっても変化する。薄い材料では容易に潰れるが厚いものではより多くの力が必要になる。この差もラバードームの厚さで調整する。
なお、キーボードは端のキーから通常サイズのキー、小さなキーなど多くのキーで構成されている。これらが同じヒステリシス(=キートップを押し下げたときにスイッチが入る位置と切れる位置の差)と作動圧曲線(縦軸にキーを押す力、横軸にキーストロークを置いたグラフに描かれる曲線)を描くように、ファンクションキーや矢印キーのような小さなキーでは、通常サイズのキーと比べてラバードームの形状や厚さを変更して、適切なフィーリングを実現している。
以上のような理由から、ラバードームの形状は、厚さも含めて大きく分類するとそれぞれのキートップの形状に応じて変更した3種類を用意している。
ただし、キーの位置によってラバードームを特別に硬くしたり薄くしたりすることはしていない。「一部のメーカーでは小指の負担を軽減するために特別な調整を行っていますが、dynabook X CHANGERではそこまでの調整は必要ありませんでした」(中村氏)
打鍵の伝承者、キーボードマスターの存在
とはいえ、中村氏は「この部分のチューニングには多くの時間が費やされました。そのために必要なラバードームの調整には、何度もの試行錯誤が必要でした」と語っている。
キーボードのタイプフィーリングにおいては、開発最初に設定した要求仕様に基づき、その“理想”に近づけるようにチューニングを詰めていく作業を繰り返していく。タイプフィーリングは“感覚”であるので、“主観的”な指標をどのように評価してチューニングしているのだろうか。
この疑問に対して中村氏は「社内のキーボード愛好家から実際にフィードバックを得ています」と説明する。「例えば、2mmストロークのキーボードの試作品を評価者に送ったところ、フカフカしているとの評価を受けました。このようなフィードバックから、フィーリングを数値化して要求仕様に沿った調整を行っています」(中村氏)
いま述べたように、タイプフィーリングに大きく影響するのは、作動圧曲線とキースイッチのオンオフそれぞれのストローク距離(そしてその距離の差異=ヒステリシス)が描く曲線だが、開発当初の要求仕様に基づいて設定していた「理想の曲線」はどのようにして定めたのか。
中村氏は「私たちは35年間キーボードを作ってきましたので、ヒステリシスと作動圧曲線には長い歴史があります」と述べる。その上で、dynabook X CHENGERの2mmキーストロークにおいては「新しいモデルを開発するにあたって、どのようにして理想のフィーリングを実現するか、単に数値を上げるだけではダメだという議論がありました」と明かす。
Dynabook社、というか、東芝時代から見てもdynabook(注:DynaBookにあらず)として2mmのキーストロークは初めてという。キーストロークの変化としては2010年に1.5mmを採用してから変わっていない。新しいキーボードの開発は実に十数年ぶりとなるわけだが、「“理想の曲線”に関する知識は残っています」と新規キーボード開発のノウハウは継承されていた。
「キーボードマスターもいますので、その知識は生かされています」(中村氏)
おお、キーボードマスター!!! キーボードマスターという人材はどのように育成され、そして継承されているのだろうか?
キーボードマスターはDynabook社内でも限られており、現在ではメカニカル設計チームの数人がキーボードマスターとして長年にわたりキーボード開発に携わっている。もちろん、彼らはDynabook社の“社員”であるから「彼らも徐々に昇進していきます。部長職もいます」(中村氏)のだが、昇進してキーボード開発から離れてしまうというわけではなく、「彼らはエンジニアですから、部長であっても実際に作業を行うことがあります」(中村氏)ということで、キーボードのタイプフィーリングに関するノウハウは今も脈々と受け継がれている。
2mmに期待する“新旧”ユーザーのずれ
2023年7月の製品発表で2mmのキーストロークという仕様を知ったノートPCを愛する少なくないオールドユーザーは、昔のノートPC(それこそ初期の“D”yna“B”ook SSのような)に近い重めのタイプフィーリングを期待したのでないだろうか。
しかし、dynabook X CHANGERの開発にあたっては「今回の2mmのストロークはノートPC向けです」(中村氏)とその方向性は明確だった。重くて長いストロークのキーボードが受け入れられる時代は過ぎ去ったということだろうか。
中村氏は「現代ではそうですね。なので、dynabook X CHANGERでは軽めのフィーリングになっています。色々な意見を聞いて学校用途などでも使いやすいように、そして、使いづらいと感じる人がいないように調整しています」と説明する。
「キーボードのフィーリングについては、あまりにも柔らかすぎるとふかふかしすぎてしまい好ましくないと感じる人もいます。逆に、固すぎると継続したタイプが困難になりかねません。キーボードを重視するユーザーは、このような微妙な加減に注目するので、私たちはそれぞれのニーズに応じてチューニングしています」(中村氏)
ここで、デスクトップPC用キーボードのような重めのフィーリングではなく従来のノートPCに近い軽い目のフィーリングに寄せるのであるならば、わざわざ2mmキーストロークの新規に開発する必要はなかったのではないかという疑問が出てくる。
この疑問に対して、Dynabook 執行役員 国内PC事業本部 副事業本部長 国内PC事業企画部長の武田篤幸氏は「2mmストロークもラインナップに加えることで選択肢を広げることが重要だと考えています」と答えている。「キーボードを選ぶときには、ユーザーが現在使っているキーボードに合わせた提案をすることで、購入の選択で迷わせないようにしています」(武田氏)
Dynabook社ではキーボードの重要な要素として、「正確な入力」「タイプの速さ」「疲れにくさ」を挙げている。そのために重視しているのが19ミリのキーピッチとほぼ正方形のキーサイズだ。
これらによって誤打が防がれ正確な入力を促すという。また、キートップの中央を0.2mmへこますことでタイプする指が滑らないようにする工夫も施している。「これらの工夫で正確かつ疲れにくい入力を実現します」(中村氏)
0.3mmの厚みを消せた理由とは
かくして2mmキーストロークのフィーリングは決まり、法人向けでは1.5mmと2mm、そして個人向けでは2mmストロークのX CHANGERが用意された。
しかし、気になる点が1つ。従来のdynabookラインナップで一般的だった1.5mmキーストロークから0.5mm増えた一方で、法人向けdynabook X83 CHANGERの1.5mmキーストロークモデルと2mmキーストロークモデルの本体厚さの違いは0.2mmにとどまっている。0.3mmはどこに消えたのか? 7月のインタビューでは0.3mmの行方について「チューニング途上なので明らかにできない」としていた。
製品が完成した今、中村氏は「設計の許容範囲や安全性などを確認しながら、いろいろな箇所のマージンを削減して」0.3mmを削っていったと教えてくれた。「例えば、製品の下部がどんどん細くなっていく部分など、そこからマージンを削る作業を行いました」(中村氏) なお、2023年7月に「明らかにできない」としたのは、安全性や性能評価を実施中だったからという。
となると、「いかにして安全性を確保しながらマージンを削減していったのか」が気になる。これについて中村氏は、設計段階でのマージン削減は誤差の範囲を超えないように注意深く計画したと説明する。設計が完了し、製造過程に問題がないことが確認できた後、さらに何万回ものテストを経ても問題がないことが確認できたとき、ようやく製品としてリリースできることになる。
なお、1.5mmキーストロークモデルと2mmキーストロークモデルとでは、液晶ディスプレイパネル周辺とキートップの距離とマージンを確保するために、キーボード全体で場所を変更している。この変更でキーボードが液晶ディスプレイパネルのエリアへ完全に収まるようになり、必要なマージンを稼ぐことができたと中村氏は説明している。「2mmキーストロークを実現するためには、このような細かな部分まで考慮して調整する必要がありました」(中村氏)
複雑怪奇なラインナップはどうなる?
ちなみに、法人向けdynabook X83 CHANGERのラインナップではキーストロークで1.5mmと2mmを用意していたが、個人向けのdynabook X CHANGERでは店頭モデルが2mmのみ、そして、Webモデルでは1.5mmのみとなっている。
この理由について武田氏は「店頭では新しさを求める声があり、2mmストロークのモデルが好評でした」とした上で次のように理由を説明する。「Webでは企業向けの購入者も多く、1.5mm(キーストローク)のモデルが慣れ親しまれているため、その選択肢を提供しています」(武田氏)
なお、法人向けdynabook X83 CHANGERのラインアップを複雑怪奇にしているもう1つの要因である「バッテリー4セル2セル問題」についても、個人向けでは2024年7月時点において4セルモデルしか確認できていない。今後の方針を確認したところ、武田氏は「バッテリーの駆動時間は非常に重要な要素。市場では4セルの需要が大きいため、製品ラインアップは4セルモデルを中心に据えています」との考えを示した。「法人向けモデルについても、今後は4セルモデルへのシフトが進む可能性があります」(武田氏)
バッテリーといえば、“CHANGER”の名が示すように、バッテリーをユーザー自身で交換できる機構を訴求点としている(それこそ、このインタビューで超私的に推している2mmキーストロークよりも)。
交換できるバッテリーと聞くとオールドユーザー(え? 最近では“なんたら”老人会っていうんですか?)としては、「バッテリーを交換しながら長時間使い続ける」という運用が先に思い浮かぶが、“CHANGER”でバッテリーを交換するには、底面のネジを外す必要がある。できなくはないが携行運用中に交換するのは現実的でない。
もっともDynabook社としても、その目的は「経年変化による劣化が起きてもバッテリーを交換すれば長期間(長時間でないことに注意)PCを使い続けられる」ことにあるとしている。とはいっても、例えば競合するレッツノートだとバッテリーパックを交換して長時間使用が可能であることを訴求するモデルがある。
Dynabook社としては、やはり「バッテリー交換は長期使用後に性能が低下した場合に“のみ”想定しており、日常的に交換することは考慮していません」(中村氏)という。その理由は、「簡単に取り外せる設計では、落下時にバッテリーが外れるリスクや、その他の安全上の問題が発生する可能性があります」(中村氏)としている。
「理想の曲線」を追求した2mmストロークの打鍵だった
今回のインタビューは、ある意味「去年7月のインタビューに得たDynabook開発担当者発言の答え合わせ」が目的でもあった。
十数年に一度という大きな変化となるdynabook X CHANGERの2mmキーストロークの開発において、東芝時代から数えて35年にわたって蓄積してきた膨大なノウハウと長年にわたって携わってきたキーボードマイスターによって「理想の曲線」が編み出されたという逸話を聞いて、「ああ、DynaBookは今も変わっていないのだ」と思わずにはいられなかったインタビューであった。