水泳・木村敬一にとっての人生最大の挫折は、「できることはすべてやりきった」にもかかわらず金メダルを逃したリオ2016パラリンピックだという。その5年後、東京パラリンピックで金メダルを獲得したわけだが、そこに至るにはどのような変化があったのか。また、目標を達成したいま、どのようなマインドでパリを迎えるのだろうか。木村の最新著『壁を超えるマインドセット 尖らない生き方のすすめ』(プレジデント社)より、トップアスリートの思考法をひも解く。
木村 敬一 (きむら・けいいち)| 水泳1990年滋賀県生まれ。2歳で視力を失う。スイミングに通い始めたのは、小学4年生のとき。活発な木村が思い切り身体を動かしても「プールのなかには障がい物もない。迷子にだってならない」との母の思いから。2021年紫綬褒章受賞。東京ガス所属。著書には『闇を泳ぐ 全盲スイマー、自分を超えて世界に挑む。』(ミライカナイ)がある パリ五輪代表選考会のレース前に、東京アクアティクスセンターで行われたパラ水泳日本代表のデモンストレーション
photo by X-1それぞれの立場で踏む“心のブレーキ”
パラリンピアンをはじめとしたトップアスリートは、常に“攻め”の姿勢を貫いていそう、とのイメージがあるかもしれない。しかし、木村はそのような思い込みを否定する。
木村によると、人間には二つのタイプがあるという。ひとつは、「いくら楽しくなくても、たとえ毎日がつらくても、『現状を受け入れて、じっと我慢するタイプ』」。そして、もうひとつは、「とりあえずノープランでもいいから、『現状打破のために、勇気をもって行動するタイプ』」。木村によると、自分自身は「圧倒的に、絶対的に前者」だそうで、「『自分のやれる範囲のことをやっていこう』とブレーキを踏みながら徐行運転をして」いて、そのような性格になったのは、「2歳で失明したことにある」と分析する。
世界最高峰の舞台で金メダルを獲るべく、アスリートとしてやるべきことには徹底して打ち込みつつも、基本的には無理をせず、少しでもリスクが少なくなるよう、“心のブレーキ”を踏みながら生きてきたという木村。それを木村は「攻め込まないブレーキ」と呼ぶ。そう聞くと、消極的に聞こえるかもしれないが、使い方によってはブレーキが行動範囲や可能性をぐんと広げてくれることもある。
例えば、木村の両親は木村とは別の意味でブレーキを踏んでいたのではないか、と語る。
「僕は早くから寮生活や一人暮らしを始めましたし、中学生や高校生のころから遠征もしていました。親としてはもっと一緒にいたい、介入したいと思っていたかもしれない。でも、遠征についてくることもなかった。それは、ブレーキを踏んで我慢し、余計な口出しをしないよう、出て行かないようにしていたからだと思います」
また、リオ後、金メダルを逃したという絶望から「逃げるように」アメリカ行きを決断。通常の自分とは真逆の選択をしたのは、それほど悔しくて頭が混乱していたからで、「あのときの自分はどうかしていた」と笑いながら振り返る。そのアメリカでの生活でブレーキを踏んでいたのは、木村自身ではなく所属企業だった。
「しっかりと安全に、かつ効果的なトレーニングできるように、万全のサポートを会社の方でしてもらってました。なので、会社の方がいろいろとブレーキを踏んでくれていたような感じがしています」
そうしたサポートのおかげもあり、アメリカで過ごした2年間は、その一秒一秒が自分の血、肉、骨になっている実感があるというほど充実。東京大会での金メダルにもつながった。ブレーキも使い方次第、ということかもしれない。
(「08 生まれながらの障がいによって、僕は『心のブレーキ』を手に入れた」ほかより)
リオでは金メダルの重圧がのしかかったphoto by X-1メンタル維持に不可欠な“割り切り”力
木村がアメリカでトレーニングをしつつ語学学校に通っていたさなか、突如として新型コロナウイルスが猛威を振るい、世界中でロックダウンが行われた。東京大会も開催か延期か中止かの見通しが立たない中、所属企業から帰国を促され、水泳のコーチも理解してくれたという。しかし、いったん帰国すると当分はアメリカに戻れそうにもない。そのためか、語学学校が強硬に帰国許可を出さなかったそうだ。
大会に向けてコンディションを調整するアスリートにとって、日程変更は一大事。実際、多くのパラアスリートからも戸惑いの声が聞かれた。心身の調子を崩してもおかしくない状況。しかし、木村はこう考えたという。
抵抗しても変えられない出来事には、ただ困っていればいい――。
「『受け入れた』とか『あきらめた』という感情とはちょっと違う。ただ、流れに身を任せて、無駄な抵抗をやめていただけだ」
「一つひとつの出来事に対して、『いちいち自分の感情を乗せてしまっていたら、身が持たないよ』と思っていたのだ」
リオまでは金メダルのために必死だったが、リオ後、肩ひじ張って生きるのをやめたという木村は、この状況でもいい意味で肩の力が抜くことができたのだろう。
「どうにもならないことは、どうにもならないのだ。僕にできることは、大会に向けてきちんと準備をすること。それ以外のことは気にしないし、気にするつもりもない」
こうした割り切り方ができれば、いつでも何があっても、メンタルを一定に保ちやすくなりそう。メンタルの安定は、いい準備につながる。これも、木村が東京で最高の結果を出した大きな要因の一つに違いない。
(「19 抵抗しても変えられない出来事には、ただ困っていればいい」ほかより)
東京パラリンピックでは表彰台の中央に上がったphoto by Takashi Okuiプレッシャーを感じるときとは
多くの人から期待と注目を集めるパラリンピアンにとって、プレッシャーは切っても切り離せない。大会によっては、結果がその後の人生に大きな影響を及ぼす可能性がある場合は、なおさらだ。木村自身もプレッシャーは感じやすいタイプで、どんな大会でもプレッシャーを感じてきたと明かす。
しかし、何度もプレッシャーを感じてきた経験を振り返り、木村はあることに気づいたという。それは、プレッシャーは自分で自分にかけているもので、それは理想的な準備ができているときであることが多いということ。
「練習メニューが見事にハマり、自分でも納得のいくコンディションで迎える大会こそ、『万全の調整をしてきたのだから、絶対に失敗できない』という思いが強くなってしまう」
反対に、練習がうまくいかなかったレースは、勝てる気がしない分、ほとんどプレッシャーを感じないそうだ。
ここで木村は、発想を転換する。
「プレッシャーを感じているときの方が、いい結果が出る可能性が高いのではないだろうか」
プレッシャーは成功への吉兆。こう考えるようになってから、気持ちが楽になったとのこと。自己分析から、一見マイナスの事象をプラスへ転換できる力もまた、木村を頂点へ押し上げる要因になったようだ。
(「25 プレッシャーは成功への吉兆」ほかより)
そして、パリへ東京大会で金メダルを獲得したことで、心の余裕ができたという木村。自身で「金メダルシールド」と呼ぶ、この心の余裕のおかげで、テレビ番組のコメンテーターやハーフマラソンへの挑戦など、競技以外にも経験の幅を広げたり、オリンピアンの星奈津美さん指導のもと、パリに向けてフォームの改善に取り組んだりもできているという。
パリ五輪代表選考会では、同郷の大橋悠依選手に「パリ切符」を贈るプレゼンターを務めたphoto by X-1
「2連覇」という思いを抱きつつも、競技者にとっての究極の目標は、速く泳ぐこと。
金メダルシールドを身につけた木村は、パリでどのような結果を手にするのか。泳ぎはもちろん、競技前後の様子やコメントにも注目したい。
<参考著書>
『壁を超えるマインドセット 尖らない生き方のすすめ』
木村敬一著/プレジデント社
text by TEAM A
key visual by Takashi Okui