2024年は、モノレールが歴史上に初めて登場してから200年目にあたる。1824年、英国人のヘンリー・パーマーが、木材レールと馬力を用いた貨物運搬用のモノレールをロンドンの造船所に敷設したのが、記録に残る中で世界初とされる。
我が国では高度経済成長期以降、モノレール路線が相次いで建設された。遊園地等へのアクセス用の短い路線だけでなく、都市内交通の環境改善を目的とした、本格的な都市モノレールも少数ながら建設された。多摩都市モノレール、千葉都市モノレール、大阪モノレール、北九州モノレール、沖縄都市モノレール(ゆいレール)がこれにあたる。
これらの路線は、都市モノレール法および軌道法に準拠して都市計画道路上に建設されたが、それ以前の東京モノレール、湘南モノレールなどは地方鉄道法(現・鉄道事業法)準拠という違いがある。
秩父方面の路線を計画、モノレール構想もあった「武州鉄道」
最近はLRT(次世代型の路面電車システム)・BRT(バス高速輸送システム)といった新たな交通システムの台頭もあり、モノレールの新線が建設されることはなくなったが、久しぶりにモノレール関連の元気なニュースを聞いた。東京都内で多摩都市モノレール(現路線は多摩センター~上北台間、営業キロ約16km)の延伸が具体化しつつあるのだ。
同モノレールには現在、箱根ケ崎方面・町田方面・八王子方面の路線延伸構想がある。これら3つのうち、事業として最も進んでいるのは、上北台駅(東大和市)から武蔵村山市を経由し、JR八高線の箱根ケ崎駅(瑞穂町)に至るおよそ7kmの区間だ。
2023年末に東京都が都市計画案を示し、2024年3月には、沿線の瑞穂町がモノレール新駅周辺の「まちづくり基本構想」を公表した。都内で唯一、鉄道駅のない市として知られる武蔵村山市にとっても待望の延伸である。
じつは、この上北台~箱根ケ崎間の延伸区間は、昭和30年代に計画され、未成線に終わった「武州鉄道」(戦前に埼玉県の蓮田駅を起点に運行されていた「武州鉄道」とは別会社)の路線の一部と、経路が非常によく似ている。
1959(昭和34)年1月に提出された武州鉄道(資本総額41億5,000万円)の敷設免許申請書によれば、その計画路線は、中央線の三鷹駅(三鷹市)を起点として、小金井市、小平町、国分寺町、大和町、村山町、箱根ケ崎駅、東青梅駅(青梅線)、埼玉県名栗村、横瀬村を経由し、秩父鉄道の御花畑駅(秩父市)付近に至る、全長およそ61km。その間に33カ所の停車場を設置するという壮大なものだった(地区名は当時のもの)。なお、申請後、間もなく吉祥寺駅に起点が変更されたようである。
都内と埼玉県の秩父地方を鉄道で結ぶという構想は、先行して1957(昭和32)年に免許申請していた西武秩父線(吾野~西武秩父間)と重なる。とくに横瀬村(現・横瀬町)・秩父市域の区間において、両路線は競願関係となった。
ちなみに、武州鉄道の申請書には軌間「一米〇六七」(=1,067mm)とあり、当初は普通鉄道での敷設を計画していたが、かなり険しい山岳地帯を通過するため、後に登坂力などに優れたゴムタイヤ式のモノレール案が検討された。具体的には、日立製作所のアルヴェーグ式モノレール(東京モノレールなどで実用化)を採用。日立製作所で東京モノレールなどの計画・建設に携わった網本克己が、次のように語っている。
「(武州鉄道は)実は、モノレールでやる計画であったんです。はっきりとは覚えていないが、施行認可申請の施行方法変更でモノレールにすることになり、僕は、夏の暑い盛りに1週間カン詰めで吉祥寺の武州鉄道の事務所でモノレール計画の作業をしたんです」(「モノレール協会10年の歩みを振り返って」1974年頃)
敷設免許が交付されるも、武州鉄道計画は幻に
では、このような壮大な路線を計画したのは、一体どのような人物だったのか。意外なことに、それまで鉄道とはまったく関わりのなかった吉祥寺のスクラップ事業者、滝嶋総一郎という人物だった。
滝嶋は戦時中、立川の陸軍技術研究所の兵器係曹長だったが、戦後、米軍との関係を築き、旧陸軍の兵器・器材の払下げを受けてスクラップとして売却する事業を開始。朝鮮戦争勃発により、スクラップの値段が高騰し、財を成すと、昭和30年代に入る頃には不動産貸付業などにも進出。「吉祥寺名店会館」というビルを建てるまでになった。武州鉄道の構想が思い浮かんだのは、この頃だったという。
その後、滝嶋は埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行の前身のひとつ)から多額の資金を借り入れ、建設予定地の用地買収を進めるとともに、早期に鉄道敷設免許を取得するため政財界工作に奔走。財界有力者を介して、当時の岸内閣で運輸大臣を務めた楢橋渡(ならはし わたる)に接近し、「政治献金」の名の下、5回にわたって総計2,450万円の現金を渡すなどした。そして、これが命取りとなる。
1961(昭和36)年7月11日に武州鉄道の敷設免許が交付されたものの、この時点ですでに東京地検による内偵が進められており、間もなく滝嶋、楢橋ら関係者18人が逮捕されるという政界汚職事件「武州鉄道事件」へと発展したのである。
裁判の結果、滝嶋が楢橋に渡した現金は賄賂だったと認定され、一審で楢橋、滝嶋にいずれも懲役3年の実刑判決が言い渡された。控訴審(東京高裁)で楢橋に懲役2年執行猶予3年、滝嶋に懲役2年の有罪判決が確定。こうして、武州鉄道建設計画は幻と消え去ったのである。
だが、この武州鉄道がもしも実際に建設されていたならば、どのような路線になっていたのかは非常に興味深い。そこで、予定線をたどってみることにした。
多摩都市モノレール延伸予定線と重なる区間を経て、山岳地帯へ
武州鉄道が具体的にどこを通る予定だったのかは、じつはよくわかっていない。過去の資料を見ると、武州鉄道が発行した「武鉄ニュース」(1959年4月10日発行)には、大雑把な路線の予定図が掲載されているのみである。
一方、比較的最近作成されたものだが、東大和市の地元研究グループが、武州鉄道の関連不動産会社などによる土地の買収履歴等を調査し、多摩地区における路線を推定した「幻の武州鉄道」(2006年)という冊子に掲載された推定図は、信頼性が高いように思われる。今回、多摩地区に関しては、これを参考にすることにした。
まず、吉祥寺駅から三鷹駅まで中央線に沿って進み、三鷹駅を出た後は北西に進路を取る。ここから玉川上水に沿って、西武国分寺線の鷹の台駅付近を通過する予定だったものと思われる。さらに西武拝島線(当時は西武上水線)の小川駅と東大和市駅の間をクロス。新青梅街道に突き当たると、今度は西へ進み、現・多摩都市モノレールの上北台駅に達する。
上北台駅から八高線の箱根ケ崎駅までは、さらに新青梅街道に沿って進むが、この区間が多摩都市モノレールの延伸予定線と重なるのである。武州鉄道はさらに青梅街道(新青梅街道と合流)に沿って青梅線の東青梅駅へと進む計画だった。付近には、鉄道ファンにとっておなじみの青梅鉄道公園があるが、現在、リニューアルのため休園中である。
ここから先は、いよいよ山岳地帯へと入っていく。さすがに秩父まで歩くわけにはいかず、車で行くしかない。カーナビの目的地には、飯能市の山中にある「鳥居観音」を設定する。この鳥居観音は、武州鉄道の建設計画と大いに関係がある。概略は以下の通りだ。
武州鉄道の発起人である滝嶋は、前述の通りスクラップと不動産事業で財を成したが、鉄道の建設にかかる莫大な費用は、一事業家の資本だけで賄えるものではない。しかし、滝嶋は人を懐柔するのに長けていたらしく、当時、埼玉銀行頭取だった平沼弥太郎に巧みに取り入った。
その頃、信仰心の厚い平沼は、私財を投じて郷里の名栗村に「鳥居観音」という寺院を建立している最中だった。そこへ滝嶋が現われ、50万円をポンと寄進し、「どんな立派な観音様をまつっても、お参りする人がいなければ『仏造って魂入れず』ではないですか。鉄道を敷きましょう」と話を持ちかけた。これに心を動かされた平沼が、出資を約束。もちろん、鉄道の敷設が郷里の発展につながるとも考えたのだろう。
いずれにせよ、埼玉銀行という資金的な裏付けができたことで、武州鉄道計画は実現性を帯びることとなった。
ちなみに、鳥居観音は山全体を境内とする壮大な寺院であり、実際に訪れてみると、その規模に圧倒される。麓(といっても標高は高い)の登山口から、車で5分、徒歩で40分の山頂(海抜500m)付近にいくつかの塔が立ち、本尊の白衣の救世大観音像(像高23m)が、緑の木々に包まれるようにして屹立している。このような大仏をどうやって山中に建てたのか不思議に思ったが、境内の案内板に次のような説明があった。
「アトリエで六分の一の原型を作り、拡大して原寸大の輪切りの塑像(そぞう=粘土などを材質とする像)を作製し、その雌型をヘリコプターで吊り上げ現地に組み建て、人工骨材を配し軽量コンクリートを流し込んで建築したものである」
平沼はこれほどの大事業を私財を投じて進めていたのだから、滝嶋の鉄道建設の提案に心を動かされたというのは理解できる。後に平沼も、滝嶋に対する債権回収をめぐり、特別背任罪容疑で起訴されることとなったが、結局、無罪になった。
「武鉄の計画はズサン」事業として成立する可能性はあったのか
鳥居観音から先は、本当に何もない山道へと分け入り、次第に「ポツンと集落」や「ポツンと一軒家」すらもなくなっていく。九十九折りのカーブが連続するあたりは、さすがにトンネルにするつもりだったのだろうが、とにかく険しい深山を行く。
当時、西武秩父線の免許を申請し、競願関係にあった西武鉄道は、「武鉄の計画はズサンであり、山間部の多い計画路線を、50億円ほどの金で実現できるはずがない」(『戦後政治裁判史録3』田中二郎ほか)と武州鉄道計画を批判していた。ライバルを牽制する運動とも取れるが、現地を見れば納得である。
横瀬町に入り、国道299号に合流する。芦ヶ久保駅のあたりまで来ると、ようやく人里となるが、これでは沿線住民の利用はほとんど見込めないだろう。吉祥寺~東青梅間は別として、東青梅~御花畑間は資源開発(貨物)や観光路線としての需要を見込んでいたのだろうが、はたして事業として成立する可能性はあったのだろうか。
参考になるのが、1969(昭和44)年10月に開業した西武秩父線(吾野~西武秩父間)の収支である。2013(平成25)年、西武ホールディングスが米国の投資会社「サーベラス」からTOB(敵対的な株式公開買付け)を仕掛けられた際、西武秩父線などを「不採算路線」として廃止するよう求められたのは記憶に新しい。西武秩父線も、少なくとも近年まで、そのような収支状況だったのだ。旧・名栗村付近の山岳地帯は収益性が低い割に維持費がかかることなどからすれば、武州鉄道という弱小資本が路線を維持するのは無理だったと思われる。
さて、国道を走れば間もなく秩父市街に入り、武州鉄道の終点予定地だった御花畑駅に到着する(西武秩父駅も至近)。山々に囲まれた長閑な盆地に、近代的な外観のモノレールが乗り入れる様子を思い浮かべようとしたが、都会よりも早く訪れる山あいの日暮れに、そのイメージもかき消されてしまった。