井上尚弥(大橋、31歳)が強過ぎる。バンタム級に続きスーパーバンタム級でも4団体(WBA、WBC、IBF、WBO)王座統一を果たしたモンスターは、「5・6東京ドーム」でルイス・ネリ(メキシコ、29歳)に6ラウンドTKO勝ちを収め王座防衛に成功した。
この試合の直後には米国のボクシング専門誌『リング』でパウンド・フォー・パウンド1位にも選出された井上は、スーパーバンタム級において敵なしの突出した存在。海外のメディアは、絶対王者に対して早期の階級アップを求めている。
■スーパーバンタム級では敵なし
「天を突くヒザ蹴り」ディーゼルノイ・チョータナスカンを御存知だろうか?
1970年代後半から80年代前半にかけて、ムエタイ中量級(主にライト級)で「無敵」を誇ったファイターである。180センチを越す体躯から繰り出す鋭利なヒザ蹴りで連勝を重ねたが、悲しいことにタイのスタジアムで人気を得ることはできなかった。
何故か?
強過ぎたからである。
ムエタイはギャンブルの対象であり、強過ぎる選手の試合では賭けが成立しにくくなり、その価値が失われる。強かった。でも他の選手を実力で大きく上回ってしまったために、ディーゼルノイの試合は組まれなくなったのだ。
いま、ボクシングのスーパーバンタム級戦線で井上尚弥は「無双状態」にある。「コイツと闘ったら井上も危ない」と思える挑戦者が見当たらないのだ。この状況は80年代前半にディーゼルノイが置かれた状況と似ていなくもない。
とはいえギャンブルの対象であることがすべてだった「80年代のムエタイ」と「ボクシング」は違う。井上の試合がなくなることはないが、相手選び、そして如何に試合を盛り上げるかに陣営が苦悩していることは確かだ。
井上の4団体統一世界スーパーバンタム級王座の次回防衛戦は、9月・首都圏会場で予定されている。
当初、対戦相手はIBF、WBOランキング1位のサム・グッドマン(豪州、25歳)で決まりだと思われていた。5月6日・東京ドームのリングに彼は上がり、ネリに勝利したばかりの井上と対戦を誓い合っていたからである。
だが、どうやら9月に井上vs.グッドマンは実現しなさそうだ。
「7月に別の試合を組んでいる。王座挑戦は12月にしたい」
グッドマン陣営が、大橋ジムにそう伝えてきたというのである。
俄かに信じ難い話だ。目の前に王座挑戦のチャンスがある。にもかかわらず別の試合をしたいという。そんなことがあるのだろうか。たとえ別の試合が以前から決まっていたとしても、優先すべきはタイトルマッチであろう。契約上、違約金が発生したとしても井上戦で得られる多額のファイトマネーで十分に賄えるはずだ。
グッドマンは、逃げたのだと私は思う。
(イノウエと闘っても勝ち目がない)
陣営は、そう判断したのだろう。
多額のファイトマネーは魅力だが、ここまでに築いてきた無敗の戦績に傷をつけたくない。井上が階級をフェザーに上げた後に、スーパーバンタム級王座を狙うのが得策との考え。おそらく12月にも彼が井上と対峙することはない。
となれば、9月の井上の相手は、最新のWBOランキングで2位に浮上したT・J・トベニー(アイルランド、37歳)が有力。そして12月に対戦するのはWBAランキング1位のムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン、29歳)になるだろう。
トベニー、アフマダリエフはいずれも実力者だ、それでもモンスターの敵ではない。大方のファンは勝敗に興味を抱くことができない。実際に試合が決まったならば、海外のスポーツブックには「10-1」「12-1」で井上優位とのオッズが並ぶことだろう。
■階級アップか、壁を越えた闘いか
因縁のネリ戦を終えた現在、スーパーバンタム級には井上のライバルがいない。よってスーパーファイトを作ることが難しい。
となれば適正体重がスーパーバンタム級であり続けたとしても、来年早々に井上は階級アップに踏み切るのではないか。計画より早くなるが、フェザー級に転向し世界5階級制覇、さらには前人未踏の「3階級世界4団体王座統一」に挑むことも、すでに具体性を持って考えているはずだ。
現在のフェザー級世界王者は次の4人。
〈WBA王者〉レイモンド・フォード(米国、25歳)15勝(8KO)1分け
〈WBC王者〉レイ・バルガス(メキシコ、33歳)36勝(22KO)1敗1分け
〈IBF王者〉ルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ、30歳)30勝(17KO)2敗
〈WBO王者〉ラファエル・エスピノサ(メキシコ、30歳)24勝(20KO)
高いKO率を誇るチャンピオンがズラリと並ぶ。ランカーを見てもスーパーバンタム級に比してタレント揃いだ。
私たちが勝敗の行方にワクワクできるのは、モンスターの階級アップ以降のようにも思う。それは来年早々に実現する可能性が高い。
話は戻るが、かつて対戦相手がいなくなったディーゼルノイに特別なカードが組まれたことがあった。
83年12月、バンコク・ラジャダムナンスタジアムでのvs.サーマート・パヤカルン。階級は下だったが飛ぶ鳥を落とす勢いでムエタイ4階級制覇を短期間で果たし、後にプロボクシングWBC世界フェザー級のベルトを腰に巻く男との対決だ。
両者の間を取って契約体重が定められ試合は行われた。この時、ディーゼルノイは苛烈な減量を強いられたが、試合を成立させるためには条件を飲むしかなかったのだ。それでも彼は強かった、サーマートに判定完勝しタイのスタジアムを大いに沸かせたのである。この一戦は、いまでも「伝説の試合」として現地のムエタイファンの間で語り継がれている。
もう半世紀以上も前の話になるが、階級の異なる日本人世界王者同士のノンタイトル戦が行われたこともある。
1970年12月3日、東京・日大講堂でのWBA世界ジュニアライト(スーパーフェザー)級王者・小林弘(中村)vs. WBA世界フェザー級王者・西城正三(協栄)。体重は両者の間を取って56.7キロの契約だった。激闘の末、2-1の判定で小林が勝利。互いにプライドをかけての打ち合いは日本のボクシングファンを熱くさせてくれた。
井上尚弥vs.中谷潤人(WBC世界バンタム級王者/M.T)は、どうだろう。
モンスターの階級アップには逆行するも、実現すれば勝負論のあるエポックな闘いのように思えるのだが─。
文/近藤隆夫