「黒人のリズム感」みたいな幻想は百害あって一利なしなのでもう手放したほうがいい

中年ミュージシャンのNY通信。音楽メディアでは「黒いグルーヴ」みたいな表現が長らくクリシェ化してましたが、それってどうなの?というのが今回のお話。オスカー授賞式で浮上した差別疑惑の件も然り。筆者もいろいろ思うところがあるようで……。

コロナ禍2年目のこと、私は1冊の本、『アンチレイシストであるためには』と出会った。いまだに私は英語の本を読むのに日本語の100倍くらい時間がかかるし消耗するので、2020年にベストセラーになっているのは横目で眺めながら、翌21年に邦訳が出て、それでようやく読んだわけだ。

この本には、私がそれまで読んだ差別にまつわる書物とはっきり異なるところがあって、それはレイシストを「人種差別主義者」ではなく「レイシズムポリシーを支持する人のこと」と定義づけているところだ。レイシズムポリシーというのは人種間に優劣の差があると考えること、つまり人種主義であり、たとえ具体的な差別被害が発生していなくとも人種主義を採用するものはレイシストということになる。

『アンチレイシストであるためには』(&books:辰巳出版)

この本は150万部ちかいセールスを叩き出したが率直に言って、レイシスト=人種主義者という考え方は、アメリカにおいてメインストリームとはいえないだろう。人や社会が誰かをレイシストと指弾するとき、そこには具体的な差別を伴うケースがほとんどだ。

なぜなら、たぶん世界中のほとんどの人が心のどこかしらに人種主義を抱えているからで、仮にレイシスト=人種主義を採用する人のこと、という定義を厳密に適用すると、社会の構成員ほとんどがレイシストということになってしまう。だいぶラディカルなアイデアといえるだろう。

それでもなお作者は、まず自分はレイシストであったと宣言し、そしてライフイベントのたびに自分のうちに巣食うレイシズムポリシーを発見しては解除していくプロセスを通して、一歩一歩レイシズムを克服していこう、アンチレイシストであろうと語りかける。

そこにはなんだか、ドラッグ中毒の人がダルクに入って、きょうはドラッグに手を出さずに済んだ、明日もなんとか手を出さずに済むよう過ごそう、と日々を重ねていく様子にも似た、痛切な感覚がある。

それくらい人種主義というのはドラッグ的で、私たちはそれにどっぷりと淫している。

以前の私はたとえば「黒人のドラマーはやっぱりビートが強い」みたいなことを当然のように言ったり書いたりしていた。「あのハコはPAがヨーロッパ系だから低音が軽い」とか、「やっぱり日本人は気配りがこまやかだ」とか、「ヒスパニックは陽気でめげないな」とか。

ひとたびネガティブなことが起きればそれは、一気に加速する。大家から家賃大幅値上げのメールが来れば「ユダヤ人まじでがめついなー」。チャイナタウンで信号無視のクルマに轢かれそうになると「チャイニーズには信号って概念がないのか」。そういうことを私たちは、普段の暮らしのなかで、しょっちゅう口にする。

ポジティブであろうとネガティブであろうと、そういった人種に紐づけた考えはレイシズムなのだ、と私はまず受け容れてみることにした。歴史的、構造的、経済的に強化されてきたそれを認識し、解除できないかと試み始めたら、また違った側面が見えてくるようになった。

リズムがヘロヘロのアフリカ系ドラマーというのは、そんな人ツアーで日本に来ることがないので見たことなかったけど、実はけっこういる。人種主義のフィルターがかかっているうちは、私はそれを「例外的な黒人」なのかと勝手に思い込んでいた。でもそれは違った。あるドラマーがポケットをビシッと決めて外さないのは、黒人の血なんかではない。そうなるまで練習したからだ。

自分がいま伴奏を務めているゴスペルクワイヤのひとつには、こう言っちゃなんだがお歌がだいぶメロメロな人が何人かいる。同じことだ。「黒人の魂」がソウルフルな歌唱をもたらすなんてことは、ない。魂にタッチする歌声は、その人が訓練と自己研鑽とによって獲得したものだ。

想像してほしい。あなたが血の滲むような特訓の末に柔道の金メダルを取ったとして、「そりゃ強いよね、日本人だもの」と言われたら。数学がんばっていい点取ったとき「アジア人だからマスが得意で当然」と言われたら。つまり人種や帰属集団によって十把一絡げの先入観を適用させることは、個人の努力や鍛錬を、ひいては人格や尊厳を踏み躙るものなのだとわかってきた。

もっともよかったのは、そうやって人種主義のフィルターをキャンセルしていくことで、自分自身にも救いがあったことだ。

あるフィーリングを持った演奏を「黒人のリズム感」みたいに定義づけてしまえば、自動的に自分にそれを獲得できる可能性はないと結論づけることになる。

でも実体験のなかで私は、「黒人音楽と呼称されてきたサウンド」のカテゴリに、適応どころでない貢献をもたらしてきた非黒人の実例を知っている。

ビッグネームならピノ・パラディーノの名前が真っ先に挙がるだろうけど、たとえばブルックリンのゴスペルミュージシャンのあいだでジュンイチ・アリマというベース奏者の日本人はすごく尊敬されているし、フィラデルフィアにはダイ・ミヤザキがいる。

彼らがいまの立ち位置にあるのは、サウンドやビートのフィールを血だとか遺伝子だとか安易に結論づけず、惚れ込んだサウンドにただただ虚心坦懐に向き合って、それを会得することを諦めなかったからだ。そしてもう一方では、肌の色の異なる異邦人を受け容れてくれるアンチレイシズムの土壌があったからだ(もちろん、アジア人と見るや一緒にプレイしたくないという態度を取るレイシストもいる。いるけど、想像してたよりはずっと少ない)。

と、この原稿を書いているまさに今、アカデミー賞の授賞式でエマ・ストーンが、ロバート・ダウニー・ジュニアが、それぞれアジア系のプレゼンターに差別的な態度をとったとSNSが沸いている(なお大手メディアは静観)。エマのはちょっと様子がわからないけど、RDJのはひと目見てあからさまに無礼といっていい振る舞いで、批判されて当然だろう。

ただ私はアンチレイシズムのポリシーに準じたいので、「白人ってのはいつもこうしてアジア人を使用人みたいに扱いやがる」とは言いたくない。RDJのキー・ホイ・クァンに対する態度はクソだ、と常に個人に帰結させる必要がある。そうやってものごとを個別にいちいち観察して判断するのは、かったるくてめんどうでコストがかかる。人種主義のいちばんのモチベーションは楽で便利なところだ。でもそれをしているかぎり、自分も救われない。

唐木 元

東京都出身。フリーライター、編集者、会社経営などを経たのち2016年に渡米。バークリー音楽大学を卒業後、ニューヨークに拠点を移してベース奏者として活動中。趣味は釣り。X(Twitter):@rootsy

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