ジョン・レノンがオノ・ヨーコと別居していた1973年〜75年は「失われた週末」と呼ばれ、酒浸りになって乱痴気騒ぎを繰り返した傷心の空白期……というイメージが根強い。ジョンがメディアを騒がせたスキャンダラスな期間なのは間違いないが、実はソロ・アーティストとして精力的に活動した時期でもあった。『Walls And Bridges』(74年)、『Rock 'N' Roll』(75年)と2枚の傑作を残す一方、エルトン・ジョンの「Lucy In The Sky With Diamonds」に客演(74年:翌年、全米シングルチャートで1位を獲得)、デヴィッド・ボウイと「Fame」(75年:全米1位)をコラボ、プロデューサーとしてもハリー・ニルソンの『Pussy Cats』(74年)を手掛けるなど、優れた作品をいくつも生んでいるのだ。妻と別居して落ち込んでいるはずのロックスターがここまで旺盛に活躍するだろうか?……という疑問が、どうにもぬぐえなかった。
そんなもやもやを部分的に晴らしてくれるのが、ドキュメンタリー映画『ジョン・レノン 失われた週末』(5月10日より全国順次公開)。中国からの移民としてニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで育ったメイ・パン(1950年生)が本作の語り手だ。音楽好きのティーンエイジャーだった彼女は、運良くアラン・クラインのABKCOレコーズで職を得て、それがきっかけでジョン&ヨーコの秘書として働き始める。まだ20歳そこそこでジョン&ヨーコに信頼されるスタッフとなったメイは、『Mind Games』(73年)発表前にカップルが別居することになったタイミングで、ヨーコからジョンのそばにいて世話をしてくれないかと相談された……「あなた、ボーイフレンドいないわよね?」と。
恐らく、世に広く知られているメイ・パンのイメージは、”ヨーコ不在の間、短期間ジョンの世話をして火遊びもした女性”という程度。実際は真剣な恋仲に発展していたことを、これまでもメイは著書などで明かしていたが、よほどマニアックなジョンのファンでない限り、その顛末を知らないだろう。ジョンのレコーディングに立ち会い、彼と別れてからもレコード会社のスタッフとして働いた彼女は、89年にプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと結婚して2子を授かった(2000年に離婚)。ロック史を裏方として見つめ続けてきた重要人物ながら、メイにスポットが当たる機会は不当と言っていいほど少なかった。
「失われた週末」の真実を初めてメイ側の視点で詳しく語ったこの映画について、メイ自身にZoomで詳しく語ってもらった。
─あなたはもともとかなり音楽通の少女だったそうですね。スパニッシュハーレムでさまざまな音楽に触れていたあなたにとって、1969年〜1970年頃のビートルズは正直に言ってどんな存在でしたか?やっぱりトップスター、それとも、少し時代遅れに見えていたのでしょうか?
メイ:世代にもよりますが、私にとって彼らはタイムレスでした。多くの人は、ビートルズの音楽を聴いたことはあっても、彼らが世代を変えた影響力を理解していません。ひとつのバンドが一世代、世界中の人を動かしていたのです。彼らの音楽には、自らの生い立ちが反映されていた。「僕らはアメリカンミュージックを作り変えて、君たちへ届ける」とジョンが言っていたように、彼らの音楽からは、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、エヴァリー・ブラザースの影響を感じられる。そのことを評価している人はいませんが、たしかに彼らはアメリカンミュージックを受け継いでいました。
ビートルズが着るもの、食べるものを、みんなこぞって真似しました。彼らがトランセンデンタル・メディテーションに興味を示したら、みんなが興味を持った。リヴァプールの存在を世界中に知らしめたのも彼らで、ただのバンドではありませんでした。世代を動かす力を持っていた……その世代とは、まさに私たちベビーブーマー世代のことです。さらに、彼らはのちの音楽における開拓者だった。ブリティッシュ・インヴェイジョン、それに象徴されるバンドに機会を与えたのです。おかげで、私たちは多くのすばらしい音楽に触れる機会を得ました。
メイ・パン
─あなたがジョン&ヨーコの秘書として働き始めた時点で、彼らの関係はどのように見えましたか?
メイ:彼らに初めて会ったのは、誰もが彼らに注目していた時でした。私には、ふたりはカップルのようには映らなかった。親密だけれども、いわゆる”カップル”とは違ったのです。少なくとも私にはそう見えなかった。彼らは頻繁に仕事の話をしていて、お互いが目指すべきところを深く理解し合っている、そういう印象ですね。
─どちらか一方が主導権を持った力関係に見えました?
メイ:それはプロジェクトによりましたが、多くの場合はヨーコが進めていました。
ジョンと共有した「思い出の曲」
─ジョン&ヨーコと働いていた時期の映画、テレビショーなど、あなたが居合わせたさまざまな場面が映画にも出てきますね。その時期で、何が一番の思い出でしょうか?
メイ:当時はありとあらゆること、すべてをこなす必要がありました。私は年中無休で働いていた。その中で好きだった時間は、スタジオで過ごす時間でした。彼らがレコーディングスタジオに行くときが幸せだった……私にとって、音楽が人生でしたから。任されたことはすべてやっていました。ちょっとしたおつかい、事務仕事……本当に何から何まで。目まぐるしい日々でしたが、そのおかげで今があると思います。
(C)2021 Lost Weekend, LLC All Rights Reserved
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─ヨーコからジョンのそばにいるように言われたとき、あなたはかなり困惑したと思います。
メイ:ええ、私が彼のそばにいたかったのではなく、ヨーコにずっと説得されていました。私は断り続けていたんですが、しばらくして、ジョンが直接私に言ってくるようになった。いったいどういう風の吹き回しかと思いました。ヨーコは何も言わなくなって、ジョンから説得されるようになったのです。
─ジョンから直接説得されたにせよ、やはり不安だったのではないでしょうか?
メイ:もちろんです。ただ、当時はアルバム制作の真っ最中でしたし、彼はもっと不安を抱えていたんだと思います。私はアルバム制作が滞りなく進むことだけに集中していました。だから、彼がサポートを求めてきたのは思いもよらないことだった。そのことを感じとってから、私は「心配ない、きっとうまくいく」と、ナースのように振る舞いはじめました。その渦中で、彼は同時に人生を模索しているようでした。
─ジョンと暮らしている間、いろんな音楽、いろんなバンドの話をしたと思います。彼がどんな曲を好んで聴いていたのか教えてくれますか?
メイ:共通して好きな音楽はたくさんありました。アイズレー・ブラザーズの曲。特に、大ヒットした「That Lady」は毎晩のように歌ってくれました。別れてからしばらく経ったある日、ジョンが会いにきてくれたことがあって。「タイトルが分からないんだけど、耳に残っている曲があるんだ」と彼が言うので、口ずさんでもらった曲を聞いてピンときました。私はその曲のレコードを持っていたので、ターンテーブルにのせ、彼に聴かせました……それはリトル・リヴァー・バンドの「Reminiscing」でした。曲を聴いた彼は「この曲をラジオで聴くたびに、君のことを思い出すんだ」と言ってくれた。あれは私にとって特別な意味を持った曲です。
─いい話ですね。逆に、彼が好んでいなかった曲は覚えていますか?
メイ:好きではない曲の話をしている時間は、私たちにはありませんでしたね(笑)。
ジョンとポール、LAでの気さくなセッション
─LAでジョンと親しくしていたキース・ムーン、ニルソン、リンゴ、エルトン・ジョンといった友人たちは、それぞれあなたから見てどんな人柄の人たちでしたか?
メイ:彼らはみんなジョンに会いたがっていて、一緒に出かけるのを待ち望んでいました。ハリー・ニルソンのアルバム(ジョンがプロデュースした1974年発表の『Pussy Cats』)を制作した後の頃ですが、私たちはひとつ屋根の下に住んでいたんです。ある時、キース・ムーンは私にこう言いました──「ジョンにまた会えてうれしい、僕が知っているジョンだった……ただそれだけを言いたくて」と。彼は本当にうれしそうでした。あの頃、キース・ムーン、リンゴ、クラウス・フォアマン、ハリー・ニルソン、マル・エヴァンズ、ジェシ・エド・デイヴィスにジム・ケルトナー。その他にも多くのミュージシャンが同じ場所にいた。みんなでよくライブに行ったり、ジェリー・リー・ルイスのコンサートにも行きました。ジョンは彼のことが本当に好きでしたから、すごく喜んでいましたよ。コンサートが終わってからジェリーに会いに行ったんです。そこで、ジョンは床に両手と両膝をついて、キラーのブーツにキスをしました。
ジョンはこの頃にアリス・クーパー、ハリー・ニルソン、キース・ムーンらと夜遊びチーム”ハリウッド・ヴァンパイアズ”を結成。後年、アリス・クーパーはジョニー・デップ、エアロスミスのジョー・ペリーらと同名バンドを結成する (C)2021 Lost Weekend, LLC All Rights Reserved
─ジョンとアリス・クーパーの交流はどんな感じでしたか?
メイ:とてもスウィートで、いい人でしたよ。ニューヨークやロサンゼルスで何度かゆっくり話す機会がありましたが、彼はとても親切でした。ただ、リンゴやポール、リンダほどの深い交流はありませんでしたけど。
ポールとリンダは私たちがニューヨークに戻ってから住んでいた家にしょっちゅう遊びに来ていました。彼らが最初のゲストだったんです。どうやって私たちの家を探し当てたのかは分かりませんが、突然やってきました。私たちはイースト川に面したアパートに住んでいました。部屋にはディレクターチェアが2脚と、ベッド代わりにしていた小さなカウチソファがあるだけで、家具もほとんどなかった。ベッドルームがひとつとバルコニーのある小さなアパートでした。
そういえば、こんなことがありました。ジョンとポールが部屋でワインを飲み始めた時のことです。床にはラグが敷かれていました。それはジョンが「Imagine」をピアノで弾いたときに敷いていたラグで、彼がオーダーしてイギリスから私たちの部屋までわざわざ送ってもらったものでした。その白いラグに赤いワインがこぼれた……私は髪が逆立ちそうな想いでした。そんな私を見て、ポールは「悪くないんじゃない?」と言い、ジョンも「しかたないよ」と言いました。引っ越したばかりのうえにまだ新しいラグだったので、私はよほどひどい表情をしていたんでしょう(笑)。とにかく……ポールとリンダがニューヨークでも私たちの家を訪ねてくるとは思っていなかった。最初にふたりが訪ねてきたとき、ジョンも困惑していたくらいですから。
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─その前にLAで、ポールがジョンと久しぶりに再会したときのことも教えてください。ふたりはどんな風に打ち解けて、どんな様子でセッションをしていましたか?
メイ:昨日のことのように思い出せます。ふたりは会った瞬間に打ち解けていました。堅苦しさがなく、とてもカジュアルでした。そして、お互いの状況を話したりしていた……彼らはレコーディング・セッションの前夜にセッションをしたんです。リンゴ、クラウス、ジム・ケルトナー、キース・ムーンはもう帰宅していて、ジョンがプレイバックしているときに残っていたのは数人だけ。ポールがやってきたのは、そんなタイミングでした。「もう終わったの?! みんな帰っちゃった?」と言ったポールに対して、ジョンは「ああ。でもジャムをやりたかったらやろう」と言って、セッションが始まったんです。
─デヴィッド・ボウイとジョンの交流も近くで見ていたと思いますが、何か面白いエピソードはありますか?
メイ:パーティーに行った時、突然ある集団が私たちの前にやってきて、その中の一人の女性が「デヴィッドを知ってる?」と尋ねてきました。その場にはジョン、エルトンと私がいて、「いいえ、知りません」と言ったんです。そこにいた男性が「デヴィッドを紹介させてくれ」と言い出したんですけど、結局私たちにデヴィッドを紹介してくれたのは最初に声をかけてきた女性……かの有名な大女優、エリザベス・テイラーでした。
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─明らかに様子がおかしい時期のフィル・スペクターとジョンが関わりを持ち続けたのも不思議です。彼らの協力関係は、どんな風に壊れていったんでしょう?
メイ:なんと言えばいいか……ジョンにはまったく考えられないことですが、フィルがセッションに3時間遅刻するのは、さほど驚くことではありませんでした。様子が最もおかしかった時期、彼は毎晩格好を変えていました。医者の格好をしたり、空手選手のような格好をしたり。セッションの手配も一筋縄にはいきませんでした。セッションの初夜、私たちは27名のミュージシャンを迎える予定でした。そこに、フィルはレッキング・クルーのメンバーを勝手に連れてきたんです。その中にはレオン・ラッセル、バリー・マン、ハル・ブレイン、スティーヴ・クロッパーもいました。有名なアーティストたちが参加したのですが、彼らの名前は予定されていたリストには入っていなかった。そんな風に毎日新しい人を連れてきました。フィルと一緒に仕事をするのは、誰よりも難しかったです。
ヨーコのもとに戻っても電話をかけてきたジョン
─今まで「ヨーコと離れて傷心の時期」ということになっていたLA時代のジョンですが、ただ落ち込んでいたとは思えないほど、この時期に名曲をいくつも作りましたよね。実際は、シラフのときには創造性がかなり高まっていたのでは?
メイ:酒に溺れていたことばかりに注目する周囲の声にジョンは疲れていました。そのことにうんざりして、「失われた週末(Lost Weekend)」と言ったんです。「私と彼が傷心していた時期」と認識されているようですが、そうではなかったことは彼の功績が証明しています。”ジョンはアルコールに溺れていつもハイになっていた”と世間は思いたがるようですね。それは事実ではありません。だからこの映画を作ったんです。彼はそんな人ではなかった。ただ、当時のプレスは、そういった風に報道したかったんでしょう。
─ジョンがあなたに書いたと思われる曲では、どれが気に入っていますか?
メイ:『Walls And Bridges』に収録されている「Surprise, Surprise (Sweet Bird Of Paradox)」です。それと、みんな気づいていませんが、実は「#9 Dream」で歌っていて、あの曲には私の語る声も入っているんです。
─この映画では暴力的になったときのジョンについても触れられています。やはりアルコールが原因? それとも、隠れた荒々しい性格があったのでしょうか。
メイ:それは稀なことで、世間が思っているほどではありません。ジョンはレコーディングスタジオで暴力的だったことはありませんでした。ひどかった出来事は……彼が酩酊していて、そこにあのフィル・スペクターもいたときに起きました。彼自身もその状況を理解していませんでした。
その日、ジョンは「(フィルと)レコーディング・セッションについてちゃんと話し合ってくる」とスタジオに向かいました。私は彼をスタジオの外で待っていましたが、10分後、彼はスタジオから出てくるやいなや「行こう」と言ったので、フィルとの話し合いはうまくいかなかったんだと勘づきました。その時、私の友達がスタジオの中に残っていました。私がジョンに「彼女はどうしたの?」と聞くと、「まだ中にいる」と言うので、「彼女を連れてくる」と言って、ドアを開けて中を覗いたら、みんなが怯えて立ち尽くしていたんです。フィルが「鍵をよこせ!! それを飲み込んでお前らを閉じ込めてやる!!」と絶叫していました。とんでもない状況を目の当たりにして、私は彼女に逃げ出すよう呼びかけ、その場から脱出しました。フィルはとても嫌そうな顔で私を見ていましたよ。
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─ジョンがヨーコのもとに戻ってからも、あなたと会い続けていたことは、多くの人が知らなかったと思います。ジョンはあなたのところに戻りたいと考えていたと思いますか?
メイ:そう思います。でも、物事はそう簡単にはいかないでしょう? 私たちはその後も数回顔を合わせました。こちらから誘ったわけではなくて、ジョンが電話をしてきたんです。「ただ声を聞くだけだ」と言って、どう過ごしているとか、みんなは元気かとか、誰に会ったとか……そういう会話を交わしました。
─ジョンと過ごした日々で、最良の想い出をひとつ挙げるなら?
メイ:思い出がたくさんあって、ひとつを選ぶのは難しいですね。彼といる時間が幸せでした。彼と泳ぎに行った時に撮った写真があります。ジョンが水の上にただ浮かんでいる写真……その情景が思い浮かんできました。とても幸せな時間でしたね。泳げない私に、彼は何度も「教えてあげる」と言いましたが、私は「大丈夫! 必要ないわ」と拒み続けていました。そんなたわいないやりとりを覚えています。カメラ越しに見る彼はとてもリラックスしていました。日差しに照らされた彼の写真が残っています。ジュリアンも一緒で、本当に楽しい時間でした。
『ジョン・レノン 失われた週末』
監督:イヴ・ブランドスタイン、リチャード・カウフマン、スチュアート・サミュエルズ
出演:メイ・パン、ジョン・レノン、ジュリアン・レノン、ポール・マッカートニー、デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン
2022年/アメリカ/英語/94分/カラー/1.85:1/5.1ch
原題:The Lost Weekend:A Love Story 字幕:松浦美奈 字幕監修:藤本国彦
配給:ミモザフィルムズ
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公式ホームページ:https://mimosafilms.com/lostweekend/