セイント・ヴィンセントが語る孤高のアーティスト観、不条理だらけの人生を生きる理由

セイント・ヴィンセント(St.Vincent)ことアニー・クラークが、通算7作目の最新アルバム『All Born Screaming』を発表。すべてのペルソナをはぎとった彼女の現在地に迫る最新インタビュー。

初めに映ったのは真っ黒な画面だ。「アーティストはカメラをオンにしない」とスクリーンに書かれている。アニー・クラークは普段からカメラの前に立つのだが、本当の姿を隠すことを好んできた。2007年からセイント・ヴィンセントという名の下にリリースしてきたアルバムごとに、ルックを一新し、様々な仮面をかぶり、神官から女帝、ロボットからロックスターに至るまでの役を演じ分け、アートの内なる核を隠してきた。「仮面をかぶった人は真実を語る。それなしでは、ほとんど語りはしない」と、かつてある人は言った。

2017年に自身のInstagramで、ピンクのミニスカートと半透明のラテックストップを着たセイント・ヴィンセントが、アルバム『Masseduction』に関する定型的な質問や、音楽界における女性の役割、ポップミュージックにおける政治の重要性などに答える皮肉に満ちたクリップを連投した。アニー・クラークとセイント・ヴィンセントは同一人物かと問われると、彼女は一呼吸置いて「正直なところ、本人に直接聞いた方がいい」と答えた。

前作『Daddy's Home』(2021)でクラークは傷ついたディーヴァとして姿を表わし、ブロンドのウィッグや神経衰弱の一歩手前で時おりつまずく姿は、ウォーホルのスーパースター、キャンディ・ダーリングやジョン・カサヴェテスの映画でジーナ・ローランズが演じたキャラクターを想起させた。70年代のクラシックロックに見せかけた彼女の歌は、2010年に4300万ドルもの株価操作の罪で懲役151カ月の判決を受けた父親の釈放に対する感情的な反応を間接的に伝えるものだった。

ほぼ同時期に、『The Nowhere Inn』という映画も公開された。クラークとキャリー・ブラウンスタイン(スリーター・キニーのギタリスト/ソングライターにして、コメディ・シリーズ『Portlandia』の主要人物の一人)が脚本を共作し、二人とも「もう一人の自分」を演じたーーブラウンスタインはセイント・ヴィンセントの「本当の私」を映し出すドキュメンタリーを制作しようと撮り始めるものの、実際のクラークがあまりにも平凡で、退屈で、オタク的な人物であることに気づき、映画をシンプルなコンサートフィルムに切り替えることを提案する。自尊心を傷つけられたクラークは、ステージの外でも自らが造り上げた人工的かつ流動的なステージ上のペルソナを体現し始めるように。彼女はブラウンスタインだけでなく観客も逃れられない鏡の迷宮へと導く、策略をめぐらす魅惑の女となる。最終的にブラウンスタインは、この”アーティスト/アートの人形”を、彼女の父が収監されている刑務所の外れの荒れ地へと連行する。「今、どんなふうに感じているのか教えて」とクラークに伝え、彼女の目隠しが外されると、目の前にカメラチームが構えていることに気づく。

ビデオ通話での取材に応じてくれたクラークは、少しのおしゃべりと再会の挨拶を経て、ついにカメラをオンにしてくれた。「まだゲームは終わってないよ!」とアニーが叫ぶ。彼女は黒ずくめの服を身に纏い、大きなサングラスで目を隠して、ロサンゼルスのオフィスで冷たい朝の光を浴びながら座っている。まるで『マルホランド・ドライブ』や『The Nowhere Inn』の一場面のようだ。

―それではアニー、どんなふうに感じているのか教えて?

セイント・ヴィンセント(以下、SV):私? 私自身のことについて? 今、どんな気持ちか話すべき?

―『The Nowhere Inn』のセリフですね。

SV:(笑)ああ、そうだった。あの時はそれが面白いと感じたの。他の人も面白いと思ったかどうかはわからないけど。

―今のリアクションはすごく面白かったです。映画の中でアニー・クラークはこの質問を受けてとても動揺し、やがてメロドラマチックにこう言いましたよね。「この世界が残酷で、痛みに満ちていて、ゴミだらけだってことは重々承知している。だから私は音楽を作っているの」って。そこに真実はあるのでしょうか?

SV:音楽を逃避(エスケーピズム)とは思っていない。少なくとも私にとってはそうじゃない。でも、私の音楽における自伝的な要素はそれほど大切ではないと感じている。アーティストとしての自分とプライベートな自分を切り離したいという個人的な願望がどうこうというより、そもそも相互に関係があるとは思わないんだよね。なぜなら音楽を作るとき、リスナーは自分たちの感情や経験をもって曲を完成させるから。私が曲を書いたときに何を考えていたか、どんな経験をしていたかなんて関係ない。曲が表現する経験——愛、喪失感、ハートブレイクなど——はすべて普遍的なものだから。だから、私が何を考えてたかは重要ではなく、それが聴き手にとって何を意味するのかが重要なんだと思う。

―となると、最新作『All Born Screaming』には、あなた自身のペルソナは存在しないのでしょうか?

SV:今回はそうですね。かつての私はペルソナという発想や、ロックスター神話の解体、さらにはインタビューという形式を解体することにとても興味があった。でも、少なくとも今のところ、それは以前ほど大事じゃない。私はただ、自分の頭の中にあるサウンドを反映した、感情的に生々しく原初的で、完璧なレコードを作りたかっただけ。何も分解していない、ありのままのもの。私の頭と心から鳴り響く音をね。

―それでも最新作には独自の美的コンセプトがありますよね。インタビューでも黒一色の着こなしでまとめていますし。

SV:ええ、黒と白がこの美的概念を形作っている。それに炎の色もね。

『All Born Screaming』ジャケット写真

―最初のシングル「Broken Man」のMVはまさしくそうですし、それがアルバムカバーのデザインにも反映されていますよね。あなたは白いシャツに黒いスカートを着て、炎に囲まれていた。まさかピンク・フロイドの『Wish You Were Here』を意識していたわけではないですよね?

SV:(笑) 前作のほうがそうだったかもね。もともとのアイデアは最初、アレックス(・ダ・コルテ:(ベネズエラ系アメリカ人のコンセプチュアル・アーティスト、「Broken Man」のMV監督)と一緒にマドリードのプラド美術館で、ゴヤの「黒い絵」を見に行ったときにひらめいたんだ。「ああ、これだ! これこそが求めていたエネルギーだ」と思った。このレコードのエネルギーは、黒と白のようにはっきりしている。生か死のどちらかで、その中間というものは存在しない。そして、その間には炎がある。それが生きるということ。炎には多くの意味がある。再生、灰から蘇る不死鳥。自己犠牲の象徴でもある。火種がなければ炎は起こせない。火はすべてを司るもの。あらゆる創造と破壊が火に含まれている。それこそが(このアルバムの)エネルギー。それは太陽を喰らう土星であり、魔女のエネルギーであり、何もかもすべて。

"死”は永遠の抱擁

―新作に寄せたテキストでも「私は生と死の間に立ち、その折り合いをつけようとしている」と述べていましたよね。もちろん、誰もがそのことに向き合おうとしているけど、人生にはより明確に意識させられる瞬間がある。

SV:まったくその通り。私はどのレコードでも自分の人生、そこで起きていることについて書いてきた。わかるでしょう……(口ごもりながら)それがどんな感じか……自分の一部が誰かと共に去ったとき、もしくはどうにかして人生を乗り越えようとしているときのこと。人生は……人生って……どうしようもないことだらけ。本当にそう。だけど……大きく「だけど」——私たちにはその人生を生きる権利がある。

―人生の暗い局面に陥っているとき、死が何らかの形で身近に迫っているとき、悲しみに暮れているとき、人生が手に負えないように思えるとき、アートはあなたを救ってくれるでしょうか?

SV:それは私個人について?

―ええ。一方で、創作活動は自分の感情を整える手助けにもなるでしょう。他方で、他のアーティストの作品も暗闇を照らす光になりうるでしょうか?

SV:両方ね。とりわけ、自分自身がクリエイティブになることは大きな助けになる。でも、特別なエネルギーやパワーを放つ、些細だけど根源的なものに触れるのも大切かな。例えば、私はスペシャルズやキング・タビーに心底ハマっていて。あのプロダクション全体の実体性にね。リー・スクラッチ・ペリーが音楽を作っているビデオを見ると触覚的な魅力がある。電気とカオスを活用することで、二度と繰り返されることのない儚い瞬間を捉えているというか。

―カオスを受け入れ、感電させられる。人生の不可能性に立ち向かうための優れた戦略ですね。

SV:それは、プロデューサーでもある私にとって本当に刺激的だった。カオスに身を委ねなければならないんだから。それにすべては、回路を流れる電気から始まるべきだから。自分が生きているように感じられ、何かしらの形で燃えているようでなければならない。

―最近、モビー・グレープのドラマー、ドン・スティーヴンソンに取材したんです。若くして亡くなった彼のバンドメイト、スキップ・スペンス(1999年に肺がんで死去)について触れたとき、「灰の中にも美しさがある」というようなことを言ってました。『All Born Screaming』を初めて聴いたとき、その言葉がふと頭をよぎったんです。

SV:へえ、それは実に美しいイメージね。

―ボンド映画のテーマ曲みたいな「Violent Times」で、実際に灰について歌っていますよね。"内側にあるすべての爆弾/隠しているすべてのワイヤー/死と戦う無駄な夜々/ポンペイの灰のなかで、永遠の抱擁の姿で発見された恋人たちのとき”と。

SV:そう、それは私にとって非常にロマンチックなアイデアだった。彼らは灰になったのではない。彼らは永遠に抱き合っているの。

―どういうわけか、"死”という暗いキャンバスは、その前に訪れるすべてのものを、より強烈で意味深く感じさせる。おそらくそれこそが、このテーマを扱った芸術作品にとりわけ魅了させられる理由なんでしょうね。少なくとも私にとってはそう。『All Born Screaming』はあなたの最高傑作だと思います。

SV:ありがとう! いつだって作ったばかりのアルバムが一番好きで、そう感じるのはおかしいかもしれないけど、私も本当にそう思う。リリース直後の高揚感が落ち着いても、それでもそう思えるような気がしている。

―好きなアーティストの作品群と向き合ったとき、明るい作品より暗い作品に惹かれることもありますか?

SV:もちろん。私が好きなアーティストについて尊敬しているのは、作風が多彩だったり、時折リスクを冒したり、ムードやサウンドを変えたりするような姿勢だったりするから。そうでなければ「アーティスト」とは呼べないでしょう。まあ、あなたの言う通りね。ボウイの『Let's Dance』も好きだけど、『Blackstar』を聴く方がずっといい。

「ハレルヤ」がもたらした大罪

スリーター・キニーの最新作『Little Rope』にも、死と悲しみが色濃く反映されていましたよね。あちらは「Hell」という曲で始まりますが、『All Born Screaming』の最初の曲は「Hell Is Near」。最後の曲には”モダンガールのパントマイムだった”という歌詞がありますが、スリーター・キニーにも「Modern Girl」という曲がある。この2作の接点を挙げればキリがないけど、狂ってると思われそうだからやめておきます。いずれにせよ、この両作には繋がりがあるように思ったのですが。『The Dark Side Of The Moon』と『The Wizard of Oz(『オズの魔法使』)』のように。

SV:(笑)キャリー(・ブラウンスタイン)はどんな媒体であれ、お気に入りのアーティストの一人。そして、うん、私たちはアーティストとして、常に何らかの形でお互いと会話しているように思う。電話でよく話すし、文字通りよく会話している。あと、アートを通じてもそう。とても素晴らしい関係を築いている。ケイト・ル・ボン(ウィルコ最新作のプロデュースも手掛けた英ウェールズ出身のシンガーソングライター)も同様ね。同じものを捉え、同じような流れのなかを進んでいると思える人。

―ケイト・ル・ボンも『All Born Screaming』の制作を手伝い、曲を共作したんですよね。

SV:私は彼女に、重要な局面でサポートしてほしいとお願いしたの。

―それはどういう意味で?

SV:私はすごく気分屋で怒りっぽかったんだーー子供がかんしゃくを起こすように。反抗的だった。

―何に対して怒っていたんですか?

SV:音楽に対する怒りと、レコードを制作しているときに頭の中でぐるぐる回っている雑念で自分を見失ってしまうような、ちょっとした自己破壊的な怒り。 そこでケイトが力になってくれた。 私たちには何年もの友情があって、彼女はいつも不思議なほどに落ち着かせてくれる。手を握って、冗談を言ったり、ビールを勧めたり。彼女はこのアルバムの誕生に大きく貢献してくれた。 それに彼女は、言葉で言い表せないほど愉快なマザーファッカーなの。

―デイヴ・グロールについても同様の評判をよく聞きますが、彼もアルバム中の2曲に貢献していますよね。

SV:その通り。私たちはバディ(仲間)だから。

―ロサンゼルスで暮らしていると「スター」の友達がたくさんできる、ということですか?

SV:(笑)「ミュージシャン」の友達ね。私たちはみんな同じバトルを戦っている。デイヴとは、2014年にロックの殿堂でニルヴァーナと一緒に演奏して以来、連絡を取り合っているの。 プロデューサーとしては、特定の効果を求めるときに誰を呼ぶべきか把握しているのは大切なこと。新しいアルバムは自分でプロデュースしていて、「Broken Man」の最後でドラムの音を(フルテンを超える)11にしたかったから彼に連絡してみた。 彼以上の適任者はいないから。

―今作のように個人的なレコードを作るとき、他のミュージシャンはどのくらい重要ですか?

SV:彼らを通して自分自身がどういう人間なのか発見するというか。 他の子供たちと遊び場で遊んでいるようなもの。幼い子供のようにね。ちょっと憂さ晴らしをしたときに、自分が何者なのかがわかるんだ。

―10年前にアルバム『St. Vincent』をリリースしたとき、マイルス・デイヴィスの自伝から「他の誰かのようにではなく、自分らしく演奏できるようになるためには、とても長い時間練習しなければならない」という一文に言及していましたが、『All Born Screaming』で自分らしさに近づくことができたと思いますか?

SV:そうね。もっとも、学んで習得できることもあれば、天性というものもあるし、到底身につけられないこともある。だからこそ、私たちはお気に入りのアーティストに魅了されてきたわけで。例えば、エラ・フィッツジェラルドの作品を少し聴けば、それがエラだとすぐわかる。史上最高の歌声の持ち主だもの。マイルスもそう。彼のような音色を鳴らせるのは彼しかいない。私は今でもそれこそが達成しうる最も偉大なことだと思う。アーティストにとって最大の挑戦は、自分の声を見つけること。それがどれだけ良くても悪くても、醜くても美しくてもね。そのプロセスを追い求めることが大事で、願わくば目標に少しでも近づけたらと思っている。

―つまり、最新作のタイトル曲で歌っているように、自分はもはや「レナード・コーエン『Hallelujah』のカラオケ・バージョン」ではないと?

SV:(笑)自分を貶めることはあるけど、あの一節はそのなかでも最悪だと思う。だって、一番やっちゃいけないことなんだから。「Hallelujah」は歴史上でも最高の曲だし、最高の歌詞をもっている。生と死、神、愛、欲望、あらゆる複雑さを完璧に捉えている。それなのに、世間はそれを理解できないまま、『アメリカン・アイドル』で賛美歌みたいに歌ってしまう。本当にクレイジー。音楽における大罪でしかない。

―コーエンに言及したあの曲も生と死、愛と欲望、そしておそらく神とも向き合っているように思います。 いずれにせよ、あの曲はゴスペルのような幕切れですよね。

SV:むしろ恍惚としたマントラのようね。 そして、その恍惚がクライマックスに達したとき、(物語は)終わりを告げる。 それは私にとって、このレコードが円弧を描く瞬間でもある。 アルバムの前半は地獄と言えるかな。 そして後半で気づくのーー人生はありえないことだらけ。だけど、私たちは生きていてもいいんだって。みんな同じ船に乗っている。そして、一つだけ生きる理由があるとすれば、それは愛だということ。

セイント・ヴィンセント

『All Born Screaming』

発売中

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