このフェラーリ512BBは最高速度188mphを宣伝するポスターに登場した車両そのものだ。今日でも謳われた通りの実力を有しているだろうか?ロバート・コウチャーが多くの子供部屋に貼られた512BBに乗る機会を得た。
【画像】メーター読みで188mph(約302km/h)まで爆走したフェラーリ512BB「ポスターカー」の現在(写真5点)
スマートフォンやソーシャルメディアが登場する前の時代を覚えているだろうか。雑誌の掲載写真を切り抜いたり、中見開きのポスターを外して部屋の壁に貼ったりしていた時代を…。かつてイギリスでは子供が積極的にポスターを購入する時代があった。1976年にはアメリカ人女優、ファラ・フォークのポスターがベストセラーで、次点にはかの有名な『テニス・ガール』が人気を博した。テニス・ガールをご存じない方は、自己責任の上『Tennis Girl』を検索されたい。
”時速188マイルBB”のポスター
若い車好きがやることといえば、部屋の壁に今で言うところの”推し”の車のポスターを貼ることだった。スマートフォンに何千もの写真や動画を保存できる今となっては、あまりに単純かつ時代遅れに聞こえるかもしれない。当時、「ポスターカー」は自動車の世界で何がクールで人気があるかを示す重要なバロメーターという役割を担っていた。アストンマーティン、ジャガー、マセラティ、ポルシェ、そしてフェラーリなどのスポーツカーやスーパーカーが抜群の人気を誇っていたのは言うまでもあるまい。なかでもフェラーリ512BBのポスターを飾っていた子供たちの数は相当なものだった。
シャシーナンバー21689は、927台生産された512BBのうちの1台で、マロリーパーク・サーキットを所有していた有名なレーシングドライバー、クリス・ミークが1977年に新車で購入した希少な右ハンドル仕様車である。
512BBは365GT4BBを大幅に改良して誕生したモデルだったが、フェラーリは「新型車」であることを声高に強調し、最高速度は前人未踏の時速300kmを謳っていた。ただ、残念なことにアメリカ、ヨーロッパ、イギリスで行われた最高速トライアルでこの壁に達した車両は1台もなかった。たとえば、1978年5月6日号の『Autocar』誌のテストでは163mph(約262km/h)にしか過ぎなかった。この数値に不満を覚えた某イギリス人オーナーは、輸入元であったマラネッロ・コンセショネア社を相手取り裁判を起こしたほどだった。
そこでレーシングドライバーであるミークは、512BBが実際にどれほど速いかを正確に知るためにテスト走行を敢行した。場所に選ばれたのは、テストコースではなく、公道の”M1”だった(訳注:ロンドンからイングランド北部の都市、リーズへ至るイングランドを南北に走る高速道路)。ハダースフィールド・ガレージのメカニック、ミシュラン社のスタッフ、そしてフェラーリ本社からの特使が、まだひとけがない午前5時、M1に集結した。カメラマンのマイク・ハーグリーブスを助手席に乗せ、ミークは512BBで”メーター読み”で188mph(約302km/h)まで爆走させた。その時の写真はポスターとして人気を博したし、現オーナーのガレージには今でも飾られている。
また、この時の写真は前述の訴えを起こした原告側に提示され、訴訟が取り下げられることになったそうだ。また、しばらくするとミークはフェラーリ本社に招かれ、エンツォ・フェラーリ本人から労いと感謝の言葉が告げられた。これで名実ともに、”一応”世界最速の車を謳えるようになったからだ。エンツォはといえば、オフィスにこのポスターを飾ったというから、ご満悦だったようだ。
最速のフェラーリ・ロードカー
前の文で「一応」と記したのは、メーター読みと実測には差が生じるからだ。だが、速度計の針が188mphを指している写真のインパクトは大きかった。エンツォ・フェラーリが速度計の誤差を知らないはずがないが、ポスターの証拠写真をもって世界最速のタイトルを再び自身のものにした。エンツォにとってこのタイトルは重要だった。それまで市販車において最速というカテゴリーをほぼ独占してきたが1965年、ランボルギーニ・ミウラの登場により世界最速の座をフェラーリから奪っただけでなく「ミウラこそがスーパーカー」と賞賛されたからだ。エンツォは常日頃、市販車はFRが理想であると信じてやまず、ミウラの登場後、1968年には365GTB/4デイトナを投入している。
しかし、瞬く間にミウラがポスターカーの地位を確立したことを目の当たりにしたエンツォも、市販ミドシップの投入を検討せざるを得なくなった。250LMやディーノ206で得ていたミドシップの知見をもとに、チーフエンジニアだったアンジェロ・ベレイは荷重分布に配慮した鋼管スペースフレームを開発。サスペンションはレースでの実績があるウィッシュボーン式を、ブレーキは当然ながら前・後ともにディスクを採用した。エンジンは伝統的な60度V型12気筒ではなく、マウロ・フォルギエリがF1マシン、312Bのために開発した180度V型(水平対向型)12気筒をベースに進化させたものだった。
365GT4BBのデザインを手掛けたのは、ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティだった。フロントエンドとリアエンドの外板パネルはアルミ製、バンパーや空力パーツはグラスファイバー製で軽量化を図った。1971年のトリノ・モーターショーでお披露目され、1973年から販売が開始された。
BBは「ベルリネッタ・ボクサー」の略で、”ベルリネッタ(2ドアクーペ)”、”ボクサー(水平対向エンジン)"を意味する。この4.4リッター12気筒エンジンは最高出力365PSを誇り、『Road &Track』誌のテストでは0-60mph加速6.1秒、最高速度175mph(約281km/h)を記録した。当時の市販車において、365GT4BBは最速の部類に入るパフォーマンスを誇った。
厳しい排出ガス規制や衝突安全規制が存在するアメリカで、365GT4BBやカウンタックが販売されることは計画されていなかったが、”脱法”の並行輸入車を乗り回すエンスージアストが続出したのは事実だった。また、スクーデリア・フェラーリはアメリカで365GT4BBでのレース活動は実施しなかったが、ルイジ・キネッティ(フェラーリの元レーシングドライバー、エンツォの友人、アメリカ初のフェラーリ輸入代理店経営者)率いるノース・アメリカン・レーシングチーム(NART)は、2台の365GT4BBでレースに参戦した。
1975年のデイトナ24時間レースでは途中でリタイアするも、セブリング12時間レースでは6位フィニッシュ。1977年にはル・マン24時間に参戦し総合16位、1978年には512BB LMを投入し総合6位、クラス1位優勝を飾った。これらは市販車ベースの成績としてみれば、優秀だった。
進化型512BB
1976年、パリ・モーターショーにて512BBが披露目された。エンジンの排気量は365GT4BBの4390ccから4943ccに拡大、圧縮比は9.2:1に高められ、ドライサンプ潤滑と軽量のツインプレートクラッチを備えた。モデル名は従前の1シリンダー当たりの排気量ではなく、5リッター12気筒エンジンから「512」と命名されていた。最高出力は365GT4BBよりも5PS低い360PSだったが、最高出力発生時のエンジン回転数は下げられ、トルクも太くなって、よりスムーズでドライバー・フレンドリーなパワーデリバリーを実現させていた。
フロントのクロモドラ製ホイールは365GT4BBと同じサイズだったが、リアはワイド化され、フロントにはリフトを抑えるためのリップスポイラーを装着。両ドア後方にはNACAダクトを備え、エグゾーストやリアのブレーキ冷却に一役買っていた。
リアのブレーキランプやエグゾーストパイプの数は、365GT4BBの特徴だった片側3個から、512BBでは片側2個と一般的な意匠になってしまった。
・・・【後編】に続く。
編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:Robert Coucher Photography:Barry Hayden