今年も間もなくゴールデンウィークだが、どこに出かけるか、検討し始めている読者も多いと思う。相変わらずの円安基調から、海外旅行を避けるという人が多いと思われ、国内の人気観光地はかなりの混雑が予想される。
そこで、都内からわりと簡単に出かけられる穴場を調べてみると、北埼玉あたりが意外と面白そうに思えた。埼玉県の観光地というと、川越や秩父ばかり注目される。北埼玉にスポットライトが当たることは希だが、このエリアには興味深い鉄道史もある。今回は埼玉県行田市をかつて走った馬車鉄道と、北武鉄道について紹介したい。
明治時代、現在の行田市周辺は「鉄道空白地帯」だった
最初に足を運んだのは、行田市の忍城(おしじょう)址。映画『のぼうの城』(2012年)の舞台にもなった城といえばわかりやすいだろうか。
忍城は小田原城の支城だったことから、1590(天正18)年に豊臣秀吉が小田原攻めを行った際、石田三成らの軍勢によって包囲され、利根川の水を利用して水攻めにされた(忍城の戦い)。だが、忍城の守備軍は果敢に抗戦を続け、本丸が浮いているように見えたことから、「浮き城」の異名を持つようになる。
江戸時代には忍藩の藩領となり、享保年間(1716~1736年)に忍藩主が藩士の婦女子に内職として足袋(たび)づくりを奨励したことから、この地域では足袋の生産が盛んになった。明治20年代半ば以降、ミシンや裁断機の導入など機械化が進み、足袋製品の生産量が増大。各地に出荷するための効率的な輸送ルートが必要となった。
ところが、当時の忍町(現・行田市)周辺は「鉄道空白地帯」だった。周辺の鉄道の建設状況を見ると、まず、1883(明治16)年7月に私鉄の日本鉄道によって、現在はJR東北本線(宇都宮線)・高崎線となっている上野~熊谷間(日本鉄道第一区線)が開業。1885(明治18)年3月に吹上駅が開設されたが、忍町の中心からは4kmも南に離れていた。
東武鉄道は1899(明治32)年8月、現在は伊勢崎線となっている北千住~久喜間を開業。1903(明治36)年4月、川俣駅までの延伸にともない羽生駅が設置されたが、忍町の中心からは8km以上の道のりだった。さらに秩父鉄道(開業時は上武鉄道)が、1901(明治34)年10月に熊谷~寄居間を開業させたが、忍町の中心から熊谷駅まで約6kmの距離があった。
そのため、忍町から足袋や織物などの製品をおもな販路であった北関東・東北・北海道に出荷するには、いったん陸路で吹上駅まで運んだ後、大宮駅や秋葉原駅まで移送し、日本鉄道第二区線(現・東北本線)に積み替えなければならず、手間と時間がかかった。
こうした状況を改善すべく、北埼玉エリアを横貫し、日本鉄道第二区線方面に接続する鉄道計画がいくつか浮上した。その中のひとつ、北埼玉鉄道(熊谷~忍~加須~栗橋)を見ると、東京市(当時)在住者が株主の過半を占める中、忍町の有力商工業者も名を連ねており、地元の期待の高さがうかがわれる。しかし、これらの計画はいずれも却下されてしまう。
商工業者が自ら発起人となり、馬車鉄道を出願
こうした挫折を経て、忍町の商工業者は自ら発起人となって馬車鉄道の出願を行った。他所の資本に頼ることなく、自分たちの力で局地的な交通を確実に実現しようという動きである。1899(明治32)年4月に敷設認可を得た忍馬車鉄道は、1901(明治34)年6月までに吹上駅から行田下町まで約5.3kmが開業した。
具体的な路線を見ると、吹上駅北口から出発し、すぐに元荒川を渡っていたが、当時と現在では川の流路や橋の位置も変わっており、この付近は正確な廃線跡をたどることが難しい。元荒川を渡ると北西に進路を取り、現在の県道66号線上を進んだ。
上越新幹線の高架をくぐった先のY字路を右に進み、水城公園(忍城址)方面へと向かう。南大通りに突き当たったら右折し、水城公園の南を行く。
続いて「高源寺前」交差点で左折し、古墳通り(県道77号線)に入る。この角にある高源寺は、忍城の戦いで城の「佐間口」を守備した武将、正木丹波守利英が建立した寺院である。忍城の戦いの後、利英は武士の身分を捨て、僧侶となって戦死者を弔う道を選んだ。映画『のぼうの城』では、利英役を佐藤浩市さんが演じていた。
古墳通りに入ると、すぐ左手に弓なりに旧道が分かれ、佐間天神社がまつられている。馬車鉄道はこの旧道を進んでいた。さらに古墳通りを800mほど進むと、県道128号線に突き当たるので、これを右折する。このあたりが行田の旧市街地の中心である。
このままにぎやかな通りをぶらり歩いて行くと、新忍川のほとりに大長寺という寺院がある。この大長寺の手前を左に入ったところに馬車鉄道の発着所があった。現在、「行田馬車鉄道発着所跡」の石碑が建っているあたりだ。当初の計画では、馬車鉄道はさらに新忍川を渡り、長野村(現・行田市長野など)に至る予定だったが、予算不足により、ここまでで打ち切られた。
こうして歩いてみると、旧城下町ということもあるが、ずいぶんと鋭角の曲がり角が多い路線だったことがわかる。
ところで、この馬車鉄道の経営は非常に厳しかった。旅客数を見ると、1902(明治35)年に年間10万3,965人(1日平均約284人)の利用があったが、3年後の1905(明治38)年には、半分以下の年間4万5,581人(1日平均約124人)にまで落ち込んでいる(数字は行田市郷土博物館提供資料による)。
経営不振の原因は貨物輸送の面にもあり、足袋の輸送に馬車鉄道はそれほど使われなかったという。その理由について、『行田の歴史 : 行田市史普及版』には、「有力な足袋業者の多くが自前調達の荷馬車で輸送したか、あるいは日本鉄道と提携した運送業者(鉄道貨物取扱業者)などに依頼したと推測される」と記載されている。
足袋は軽量なので、吹上駅までならば自前の荷車で事足りたということなのだと思われる。馬車鉄道の設立の意図は足袋輸送の効率化よりも、むしろ公共交通の整備など別の部分に比重があったと見るべきなのだろう。
いずれにせよ、経営難に陥った忍馬車鉄道は1905(明治38)年に解散。同年、新たに行田馬車鉄道が設立され、事業を継承したが、以後も大幅な収支改善は見られなかった。
北武鉄道計画が浮上するも…
一方で、行田の足袋の生産量は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)を通じて軍用足袋の特需があり、「生産量は飛躍的に増大」(『行田の歴史 : 行田市史普及版』)していた。明治10年代後半に年間生産高50万足程度だったのが、明治30年代後半の1905(明治38)年には445万足に達している。
このように、著しく発展した忍町の商工業に着目し、再び北埼玉エリアを横貫する鉄道を敷設しようという計画が持ち上がった。そのひとつが、羽生町(当時)の人々が発起人となって進めた北武鉄道であり、熊谷~忍~羽生間を結ぶ路線が計画された。
だが、このような新たな鉄道計画に対して、忍町の人々は当初、興味を示さなかったという。北武鉄道の発起人を見ると、忍町の商工業者は含まれていない。なぜだろうか。
理由はいくつか考えられるが、まず、忍町の人々は横貫鉄道の必要性は認識していたものの、これまでに前述した北埼玉鉄道をあきらめ、自分たちの手で馬車鉄道を敷設した経緯がある。だから、「なにをいまさら」「どうせ、またモノにならないだろう」という思いが少なからずあったはずだ。
また、最初は羽生町の有志の人々による活動だった北武鉄道計画だが、敷設免許下付後は東武鉄道社長の根津嘉一郎が取締役に就任し、筆頭株主にもなっていた。こうした大資本による実質的な経営支配の動きを「結局は東武鉄道等に二束三文に買収さるるが落ちにて」(「国民新聞」1917年7月8日付)と、地元の人たちは嫌ったのである。
このように地元での理解が不十分な中では、資金集めも思うように進まず、そうこうするうちに1918(大正7)年4月、北武鉄道の敷設免許は失効してしまった。
北武鉄道は秩父鉄道と合併、行田馬車鉄道も廃止に
一時は頓挫するかに見えた北武鉄道計画だったが、それでも解散することなく再出願をめざすうちに、風向きが変わった。それまで北武鉄道計画に対して距離を置いていた秩父鉄道の幹部が、北武鉄道を敷設することの「有利有望なるを言明」(「国民新聞」1919年3月6日付)し、出資を約束したのだ。これには以下の理由があった。
秩父鉄道は1917(大正6)年9月に影森駅まで延伸し、翌年9月に影森~武甲間の武甲線(貨物線)を開業。セメント原料である武甲山麓産出の石灰石輸送を開始した。当時、浅野総一郎率いる浅野セメント(現・太平洋セメントの一源流)が東京の深川工場の降灰問題を解決し、操業継続を決定するとともに、1917(大正6)年7月からは新たに川崎工場の操業を開始するなど増産体制に入った時期であり、絶好の商機だった。
秩父鉄道は熊谷駅で官営鉄道と接続しており、東京方面への貨物出荷は可能だったが、運賃低減の観点から、北武鉄道を介して東武鉄道との連絡運輸を行うことが有望視されたのだ。こうして事業の成算が立ち、北武鉄道はようやく着工にこぎつけることができた。
1921(大正10)年4月、ようやく羽生~行田(現・行田市)間が開通した。その後、資金不足から北武鉄道の経営陣は東武鉄道と秩父鉄道に合併を打診。これに応じた秩父鉄道との間で、1922(大正11)年4月に合併の協議(仮契約)が行われた。
こうした経緯から、行田~熊谷間の延長工事の一部は秩父鉄道によって施行され、1922(大正11)年8月に羽生~熊谷間の全線(約14.9km)が開通を果たし、9月に秩父鉄道へ吸収合併された。実際には、合併に先んじて8月から秩父鉄道による営業が行われていたようだが、書類上の日付だけを見れば、全通後わずか1カ月で他社へ合併されたことになる。
その後、1923(大正12)年に秩父セメント(現・秩父太平洋セメント)が創業されると、秩父鉄道は「秩父セメントのライバルであった浅野セメント向けの石灰石輸送を縮小し、秩父セメントのセメント輸送にますます特化」(『埼玉鉄道物語』老川慶喜著)していった。
なお、行田馬車鉄道は北武鉄道開業によって打撃を受け、間もなく廃止された。馬車鉄道の廃止にともない行田自動車へ改組され、自動車貨物運送および乗合自動車事業にシフトしていったのである。
行田から足を延ばし、近隣の観光スポットへ
以上、行田馬車鉄道と北武鉄道の歴史を中心に見てきた。北武鉄道の社名に含まれる「武」とは、武蔵国のことであり、現在の埼玉県、東京都、神奈川県横浜市・川崎市の大部分を含む地域の旧国名である。「北武蔵の鉄道」というには、あまりにも小規模で存続期間も短い路線だった。東武鉄道、西武鉄道、JR南武線(創業時は私鉄の南武鉄道)がいまも存続・発展していることを考えると、少し残念な気もする。
ところで、せっかく行田まで来たのならば、近隣の見どころにも足を延ばしてみよう。
鉄道関連であれば、行田駅から大宮の「鉄道博物館」までは意外と近く、JR高崎線とニューシャトル(埼玉新都市交通)で約40分。鉄道廃線跡の散策であれば、本誌でも過去に紹介した東武熊谷線(熊谷~妻沼間)の跡をたどってみることもおすすめしたい(2017年12月1日付記事「東武のディーゼル車『カメ号』が走った熊谷線廃線跡を行く」参照)。
その他にも、鉄道とは関係ないが、平地で埼玉・群馬・栃木の3県が境を接する「三県境」(東武日光線柳生駅下車、徒歩10分)なども一度は訪れてみたいスポットだ。計画を立て、ぜひ有意義な旅行を楽しんでほしい。