インターネットイニシアティブ(以下、IIJ)は、2024年3月15日から東京・上野を中心に開催中の「東京・春・音楽祭」の配信設備に関するプレス向けの説明会を開催した。国内最大級のクラシック音楽イベントを支える配信環境を、機材やネットワークの構成を中心に見ていこう。
20周年を迎えた国内最大級の音楽イベント
日本最大級のクラシック音楽イベント「東京・春・音楽祭」は、IIJの鈴木幸一会長らが「東京から世界へ向けて新たな芸術文化を発信する」ことを目指し、2005年に「東京オペラの森」として創設。2009年に現在の「東京・春・音楽祭」へと名称を改め、以来20年にわたって開催されてきた一大イベントだ。現在も鈴木会長が実行委員長を務めている。毎年3月中旬から4月中旬にかけて、上野恩賜公園の各施設を拠点に、世界中から集まった著名なアーティストにより、オペラ、オーケストラ、室内楽などの演奏会が開催されている。
今年も3月15日から4月21日にかけて、70以上のプログラムが実施される。東京文化会館、東京芸大奏楽堂、旧東京音楽学校奏楽堂といったコンサートホールだけでなく、国立科学博物館、東京国立博物館、東京都美術館、国立西洋美術館、上野の森美術館など、音響的に最適化されていない博物館や美術館での演奏会も開かれるのがユニークな点だろう。
コンサートは現地での観覧に加えて、2021年よりインターネット配信も行われている(アーカイブ配信は行われない)。この配信を担当するのがIIJだ。IIJは以前より自前のスタジオを運営するなど、動画配信に力を入れており、こうした経験が東京・春・音楽祭でも発揮される。今回、この配信の舞台裏がどうなっているのか、プレス向けの説明会が開催されたので、筆者も参加させていただいた。
説明会が実施されたのは東京文化会館。東京都開都500周年の記念事業として1961年に開館したホールで、国内外の著名なオーケストラや歌劇団から高い評価を受けている。「東京・春・音楽祭」でもメイン会場として、多くのプログラムが開催される。
東京文化会館には、オペラやオーケストラのコンサートが行われる大ホール(客席数2,303)と、室内楽などが演奏される小ホール(客席数649)があり、音楽祭ではどちらも使用される。今回はそれぞれの会場で使われる回線や機材などが紹介された。
ところで読者の皆様は、動画配信というとどのような機材を思い浮かべるだろうか。今は小学生ですら、スマホとアプリを使ってお手軽に動画配信できてしまう時代だが、さすがにチケット代を取って数千人以上を相手に配信するとなると、機材等もだいぶ変わってくるはず。筆者が以前、スタジオ撮影のインターネット配信番組に出演したときは、カメラとPCを繋いで配信していたことを覚えているが、コンサートホールの場合はどうだろう。
ネットワークは光+5G
大ホールは前述の通り、約2,300人を収容できる5階建のホール。音響の良さも評価が高く、さらにバックステージが広大なため、衣装やメイクなど大量のスタッフが動員されるオペラなども余裕をもって演じられることから、海外の歌劇場なども好んで使用する名ホールだ。
まず配信に必要な回線だが、これは光回線が使用される。東京文化会館にはフレッツ光が導入済みとのことだが、これとは別に期間内だけ、業務用回線の「フレッツ光クロス」(10Gbps)を引き込んでいる。この回線は小ホール側でも利用するが、この間は有線ではなく、無線LAN(Wi-Fi)を使って接続している。
問題は配線だ。バックステージに引かれた光回線からルーターを通じてLANが構築されているが、カメラとスイッチャーは「SDIケーブル」で接続する。このケーブル、放送用のカメラ機材等で標準的に採用されているケーブルで、ケーブル自体はいわゆる「同軸ケーブル」を使う。これはアンテナとTVチューナーを接続するのに使われるケーブルと基本的には同じものだ。
え、HDMIじゃないの?と思った人もいるかと思うが、HDMIは伝送距離が10m程度と短いのに対し、SDIケーブルは最大で500mまで伸ばせるため、広大な範囲を動く可能性がある放送業務には最適なわけだ。
とはいえ、伝送距離は解像度によって異なり、4Kでは100m以下に落ちてしまう。そこで配線が長い場合は、SDIと光ファイバーをコンバーターで変換し、光ファイバーケーブルを這わせてカメラまでを接続していた。本当は構内の配線を利用できると楽なのだが、残念ながら大ホールの配線にはSDIや光ファイバーが引かれておらず、やむなく会場の隅に目立たないようにケーブルを這わせていた。もし今後改修等の予定があるホールがあれば、ぜひ光ファイバーやSDI、LANケーブル(できればCAT-6以上)等の配線を用意しておくことを検討してほしい。
また、後ほど紹介する字幕用の照明室など、有線が引けない場所もある。このため、館内ではメッシュネットワークを構築できる、PicoCELAのWi-Fiルーター「PCWL-0500」が使用されている。クライアント自体は10台もないそうだが、このルーターをぜいたくに数台使って中継し、小ホール側にも電波を飛ばしている。
また、バックアップ用に複数のSIMを束ねて(ボンディング)使用できるフィールドユニットも使用されている。東京文化会館ではあくまでフレッツがダウンした場合の補助用ということだが、会場によってはメインで運用することもあるという。建物自体が文化財であり、勝手に配線をいじったりできないケースではこうした機材も活躍するとのことだ。
ちなみに大ホールには公演中、携帯電話が鳴って公演の邪魔にならないよう、公演中はジャマーが作動してキャリアの電波が届かなくなるため、携帯網は使用できない。小ホール側にはジャマーがないそうだが、春の音楽祭の開催時期は、上野公園での花見客で賑わうため、携帯電話回線は輻輳してまともに使えないとのこと。ならば衛星を使ったStarlinkは?と質問したところ、検証はしているという。衛星回線はレスポンスが悪いと思っていたのだが、Ping値は50ms前後と、LTEと遜色のない値が出るそうで、これは筆者的にはちょっと驚きだった。
いずれにしても絶対にネットワークは落とさない!という強い使命感が伺えるのは、さすがIIJといったところだろうか。予算にもよるだろうが、配信イベントを計画している人は、こうした回線のバックアップ体制もしっかり計算に入れて準備するといいだろう。
意外とPCレスな配信機材
さて、今度は配信用の機材について見ていこう。今回の配信では基本的に各会場にカメラは1台で固定され、4Kで撮影。配信はFHDで行われるが、視聴者は好きな部分を拡大して見ることができる(画面の切り出し)。撮影には業務用シネマカメラが採用されていた。
実は、昨年まではカメラからの映像をIIJの「SEIL」ルーターを使い、IIJのWANサービスを介してIIJ本社にあるスタジオに転送し、スタジオ側でカメラのリモート操作や映像のミキシング、配信管理を行っていた(配信自体はCDNサービスを使用する)。これで現地にはスタッフをほとんど置かずに済むという目論見だったのだが、結局会場が増えると人員は必要ということがわかり、今回は現地でミキシングした映像を送信しているという。
カメラやマイクからの映像はSDIケーブル(と、変換された光ファイバー)を通じてスイッチャーに送られる。スイッチャーはカメラからの映像やその他の映像素材を集約して合成する機材で、カメラから来るライブ映像信号と、CMなど用意されている素材映像をここで切り替える。スイッチャーからの映像はコンバーターに送られて最終データ化され、パケットに変換されて飯田橋のスタジオに送られ、そこから配信されるとのことだ。
実は、機材はほぼこれで終わり。PCはスイッチャーやフィールドユニットなどの設定時に使用するが、これもブラウザ経由で設定できるので、スマートフォンでも可能だという。一応現場にはノートPCが置かれていたが、ほぼPCレスで配信が行われているのには驚いた。
もっとも、PCベースのスイッチャーで、カメラとPCだけあればいい、という環境も構築できるそうで、別の現場ではそういった構成で使用している例もあるという。業務用の環境というと、手堅い構成で行きそうなものだが、色々なパターンを試しているあたりは実にIIJらしいな、と思わせられた。
最後に、大ホールではオペラも上演されるのだが、この時ステージの左右に大型の液晶モニターが配置され、そこにセリフの日本語訳が表示される。この、セリフを表示するのが、実は人力なのだという。予め用意されたセリフを、上演のタイミングに合わせてボタンを押して表示するとのこと。
このセリフ表示担当は、IIJ社内でもオペラ好きの人(事務担当)が担当しているのだという。数時間にわたる上演を、スコア(楽譜)を見ながらタイミングよく押さねばならないという、なかなかに責任重大で大変な作業だと思うのだが、滅多に見られない角度から観劇できると、喜んで担当しているとのことだった。
小ホールではスマートフォンでの撮影も
室内楽などの演奏が行われる小ホールも基本的には大ホールと同じような構成だが、小ホールにはSDIケーブルやLANケーブルが配線済みなので、スイッチャーとカメラの間は短いケーブルを用意するだけでよかったという。
小ホールでは通常のカメラに加えて、検証用としてiPhone 15 Proが設置されていた。iPhone 15 Proは光学5倍ズームレンズを備えており、カメラ席からでもステージに程よく寄った映像が撮れる。音声はUSB接続のオーディオインターフェースを使ってiPhoneに取り込んでいるとのことで、iPhone 15 ProでUSB Type-Cを採用したことが役に立っているそうだ。
Shall Weクラシック?
機材を中心にコンサートの舞台裏を紹介してきたが、案外シンプルな構成の機材だと感じた方も多いのではないだろうか。もちろん機材そのものはプロ向けのクオリティの高いものを使っているし、ネットワークに関してはIIJの技術をフルに使って性能と安定性を確保しているわけだが、構成そのものはあまりゴチャゴチャさせず、必要最小限で済ませている。これは機材の設置や撤収が素早く行え、荷物も減らせるというメリットもあるわけで、この辺りは昨年の配信時に「バッグひとつで配信できる」という構成にこだわったときのノウハウが生きているのだろう。
さて、肝心の配信は、東京・春・音楽祭のウェブサイトから申し込め、1公演につき900~1,200円で視聴できる。再生はWebブラウザだけで可能で、これまでの傾向としては、スマートフォンで見ている人がかなり多いとのこと。
クラシック音楽というとなかなか敷居が高い、とっつきにくいと感じられる方や、上野までは遠くて行けないよという方もいらっしゃるとは思うが、世界中の著名な演奏家の公演を手軽に楽しめる貴重な機会だ。ぜひ、配信でその世界の一端に触れてみていただきたい。