スウィング・アウト・シスター(Swing Out Sister:以下、SOS)ほど、聴く人のタイプによってイメージが異なるグループも珍しい。80年代にUKチャートの最新ヒット曲を追っていた筆者にとって、彼らは ”元ア・サートゥン・レイシオのキーボード奏者と元マガジンのドラマーが組み、ワーキング・ウィークのライブで歌っていた女性シンガーを迎えたグループ” であり、ポストパンクのジャンル混交の流れから出てきたユニットとして聴いていた。
1986年にリリースされて全英4位まで上昇した2枚目のシングル「Breakout」が、翌年に世界規模のビッグヒット(全米6位)になってからは、彼らの出自はあまり触れられなくなり、スタイリッシュなポップアイコンとして俄然人気を集めていく。待望の1stアルバム『It's Better To Travel』(87年)は打ち込みを併用したエレクトロ・ポップを主体としながら、ジャズ、ラテンなどの風味もまぶした折衷性の高さが今聴いても新鮮。同作は全英アルバム・チャートでNo.1を獲得、アメリカや日本でも好セールスを記録した。
しかしドラマーのマーティン・ジャクソンが脱退、コリーン・ドリューリー(Vo)とアンディ・コーネル(Key)のデュオに移行した2ndアルバム『Kaleidoscope World』(89年)以降の作品や、日本のTVドラマ用に書き下ろした大ヒット曲「Now You're Not Here」(96年)でSOSと出会った人たちは、バート・バカラックやジミー・ウェッブなどの影響下にあるオーケストラル・ポップ/ソフト・ロック的な作風を真っ先に思い浮かべるはず。また、日本のラジオで頻繁にエアプレイされた「Am I The Same Girl」や「La La (Means I Love You)」など、ソウル古典のカバーがきっかけでSOSのファンになった、という層も少なくないだろう。
久保田利伸や荒井由実のトリビュート・アルバムに参加したり、花澤香菜に楽曲を提供したり、コリーンが野宮真貴のアルバムに客演したりと、日本のミュージシャンとも接点の多いSOS。2020年4月にはコロナ禍の影響で来日公演が中止になるという憂き目にあったが、今年4月に久々の来日が決定。東京・横浜・大阪のビルボードライブを回る。
約40年にわたって多面体的な魅力を保ちながら、独自のポップ哲学を堅持し続けてきたSOS。今回は改めてふたりのルーツを深掘りすると共に、代表曲にまつわるエピソードや、気になる新作のプランまでたっぷり語ってもらった。
2010年の来日公演、ビルボードライブ東京にて
─最初におふたりのルーツから聞かせてください。アンディは子供の頃からクラシック・ピアノのトレーニングを積んできたそうですね。
アンディ:随分すごいことをやってきたように聞こえるね(笑)。イギリスでは土曜の朝にピアノのレッスンがあると「クラシック・ピアノのトレーニング」という言い方をするんだ。実際はそんなに本格的じゃなかったけど、体系的なレッスンではあったね。クラシックの曲もたくさんやったし、音楽を始めるにはいい方法だったんじゃないかな。構造を学ぶことができるし、ちゃんとした楽器の「言語」がわかるようになるから。それを学んでから、どのルールを破りたいかを決めることができるんだ。だから僕としてはとてもいい学びを得たと思っている。今でもクラシックの曲から学んだコードで、よく好んで使っているものがあるよ。どれかは教えない(笑)。
─ポップ・ミュージックとはどのように出会ったのでしょうか?
アンディ:クラシックが生活にあったことはなかったね。どちらかというと押し付けられた感じで、親のためにやっていたんだ。自分の時間があったときはいつもポップ・ミュージックを聴いていたよ。と言ってもそんなに長くはなかったかな……ウェザー・リポートを聴きに行ったときも、まだ学校にいたしね。あれはジャズ&フュージョンのバンドだけど、僕は確かまだ16歳だった。何が何だかわからなかったけど、とにかく興奮したよ。「これはいったい何だ?!」みたいな感じでね(笑)。言うまでもなくとても洗練された音楽だけど、僕にはあまり理解できなかった。でも、理解したいとは思ったね。
1987年撮影(Photo by Vinnie Zuffante/Getty Images)
─コリーンはご両親ともにミュージシャンだったそうですね。そういう環境にいると影響もいろいろ受けたと思うのですが、あなた自身はどんな曲を好んで聴きながら育ったんでしょう?
コリーン:そうね……色んな音楽に触れてきたけど、身の周りにあっただけで、自分のお気に入りが何かはよくわかっていなかった。憶えているのはビートルズ、ローリング・ストーンズ、ペトゥラ・クラーク、ダスティ・スプリングフィールド……それから一連のモータウン・シーンから色々。それにリトル・リチャードも……何でも聴いたわ。ラジオの時代だったからね。私の音楽的な形成期は60年代で、みんなずっとラジオをつけっぱなしだったの。だから特に何かを選んで聴いていた訳ではないけど、私が惹かれたのは女性シンガーたちだった。ダスティ・スプリングフィールドをテレビで見た時は「わたしもこの人みたいになりたい!」と思ったものよ。サンディ・ショウやディオンヌ・ワーウィックも。
─ふたりは10代前半でデヴィッド・ボウイとグラム・ロック、そしてハイティーンの頃パンク・ロックに直撃した幸福な世代ですよね。音楽とファッションが密接なそれらのカルチャーは、かなりインパクトのある体験だったのでは?
コリーン:そうね。今思えば、私のセンスを本格的に呼び覚ましてくれたのはデヴィッド・ボウイだった気がするわ。「Life On Mars?」のシングルを思い出すわね。レコード・プレイヤーのボタンを何度も押して、グルーヴに飽きるまでくり返し聴いていたのよ。彼のいでたちにも魅了されたわね。と言ってもビデオがなかったから、頭の中でイメージを思い描いていたの。ただ歌詞に耳を傾けて曲の中に入り込むだけで、色んな光景が浮かんで、自分のイマジネーションのポケットを開けてくれる感じ。「なんて面白いんだろう」と思ったわ。音楽だけじゃなくて、色んな側面があるのよ。音楽を作っている本人がカメレオンみたいにどんどんスタイルを変えていって、自分の音楽の様々な時代に寄り添っているんだもの。ああいう歌詞の書き方は私にも魅力的に映ったわ。意識の流れが音楽にすごく合っていたから、その歌詞を自分が感じるままに解釈することができたのよ。
─アンディは地元のマンチェスターのクラブ、ハシエンダに通ってポストパンクのバンドに関わっていたわけですが。当時のマンチェスターではクラブカルチャーがカジュアルで、キッズにも入り込みやすいものだったのでしょうか? 後から映画で見たハシエンダは結構危険な場所のように見えますが。
アンディ:ハシエンダに通い始めた頃は「キッズ」よりもう少し歳がいっていたよ。もう学校を出ていたし。若い頃は何もかもが目新しいから「よし、トライしてみよう」と思うものだよね。で、特定のものに没頭することがあると、それとはまったく違うもの、あるいはそれらのミクスチャーに惹かれることがあるんだ。「あれ、これって何だろう? 馴染みがないぞ。解明してみよう」と思うからね。当時僕がやっていたバンドは間違いなくそういう流れからやっていた。すごく楽しかったよ。わざわざ選んでそういう経験をした訳では必ずしもないけど、今にしてみればとてもいい経験だった。何が起こっているかについて、それまでとは違う角度からの理解が必要だったからね(笑)。ハシエンダ時代は、振り返ってみると確かにあのシーンはちょっと危険だったような気がする。美化するつもりはないけど、そこには特有のアドレナリンがあった。バランスさえ良ければクリエイティブな場所になる。当時のハシエンダは間違いなく、とてもクリエイティブな場所だったよ。
─一方、コリーンはファッションの世界に進んで、自分のクロージングラインを運営したり、モデルもやっていたそうですね。歌手になるより前にモデルとして日本に来たこともあるとか。
コリーン:歌うことには昔から興味があったのよ。小さい頃からシンガーかファッションデザイナーになりたかった。ダイアナ・ロスが主演した『Mahogany(マホガニー物語)』という映画を観て、「この人両方できるのね!」と気づいたのを憶えているわ(笑)。カレッジでファッションデザインを専攻していた頃、バンドをやっていたのよね。ちなみに同窓生がシャーデー(にっこり)。私たち、間違いなく同じものを目指していたわね(笑)。同じ学年だったけど、ふたりともファッションデザインに進まずにシンガーになったから。
昔から日本のファッション・シーンには興味があったのよ。日本のファッションがイギリスに上陸したときはワクワクしたわ。山本耀司、川久保玲、三宅一生……「Wow!」と思った。まったく新しいクロージングで、伝統的な日本の感性をイギリスのストリート・スタイルとミックスして、クールだったわ。私はYOHJI YAMAMOTOのイギリス1号店でサタデー・ガール(土曜日だけの仕事)をしていたことがあってね。買うお金はなかったけど、服に触れてみたかったのよ。(笑)日本のものなら何でも夢中だったわ。私はプロのモデルだったことはないけど、初めて日本に行ったのはMEN'S BIGIのモデルの仕事だったの。
さっきハシエンダが危険だったという話が出てきたけど(笑)、東京にいた時のある晩、クラブに行ったのよ。古いインダストリアルな建物の中にあってね。そこをウェアハウス・パーティの会場みたいに作り直してあった。ところが、そこに警察の強制捜査が入ったのよ! すると、会場が途端にレストランに早変わりしてね。急にたくさんテーブルが並べられて、ウェイターが食事を持ってきて……お手洗いか何かに行っている間に、そんなことになっていて(笑)。私たちは「ディナーを食べているだけです」みたいな顔をして振る舞わないといけなかったわ。日本だってイギリスと同じくらいクレイジーだったのよ! 日本で一番好きなのは新宿。『ブレードランナー』の世界を地で行っている感じだったから。再開発される前の話だけどね。駅の周りにラーメン屋がたくさんあって、古い時代の東京がまだ残っているような感じがしたわ。
─ファッションの世界にいたあなたがワーキング・ウィークで歌うことになったのは、どんないきさつで?
コリーン:NMEに広告が出ていたから、オーディションに出たのよ。あまり長い間は一緒にやらなかったけどね。
アンディ:1週間くらいじゃないか? ごく短期間だったよ(笑)。
コリーン:そうね。でも、いい訓練になったわ。初めてのギグでは、本当に自分がバンドに入りたいのか見極めるためにお客さんとして行ったつもりだったんだけど、「今夜歌う気ある?」なんてハシエンダに向かう途中で訊かれてね。で、そのとき客席にいたのがアンディだったのよ!
アンディ:そうなんだよ、コリーンは気づいていなかったけど。オーディションみたいな感じでね。ギグを観て「あの娘はうまいな」と思ったんだけど、彼女があっちをクビになったから、「なるほど。じゃあ誘ったらうまくいきそうだな」と思った。ハッピーなアクシデントだったよ。
─一方、アンディはア・サートゥン・レイシオやカリマで活動していたし、クアンド・クアンゴのアルバムでも演奏していましたね。80年代前半は様々なジャンルがミックスされていた面白い時期でしたが、あなたにとってはどんな収穫がありましたか?
アンディ:たくさんのものに没頭していると、それぞれが影響し合うと思うんだよね。だけど今は多くの人、そして僕たちも間違ったことをやっているというか……1つのプロジェクトしかやらない。当時は日によって違うプロジェクトに関わっていたし、時には同じ日のうちに別のバンドと別のリハーサルやアルバムのミキシングがあったりして、様々な影響がミックスされてエネルギーが生まれていた。様々なメソッドも段々他への適用性が上がってきてね。だから同じことの繰り返しにならなかったけど、歳を重ねるにつれて一定の軌道に乗るようになると、「これが自分の生業だ」ということになる。あの時代が恋しい気はするね。毎日何が起こるかわからない、どんな状況に置かれることになるかわからない、ああいう状態を再現するのは難しいことだから。そんな中で創作活動をするのはとても楽しかったよ。
アンディが参加していた頃のア・サートゥン・レイシオ、「Bootsy」にはコリーンも客演(1986年)
「Breakout」制作秘話
─コリーンとアンディが出会った頃、イギリスではジャズ・ファンクが全盛でした。アンディとマーティンが最初に作ったデモテープでは52ndストリートのダイアン・シャールメインが歌っていたそうですね。
アンディ:そう、彼女が歌っていた曲があったね。サウンドスケープを作るために、色んなシンガーに歌ってもらっていたんだ。あまりちゃんとしたメロディがないエレクトロな感じのものだった。そこにマネージャーの提案でシンガーを入れることになって、実はあまり気が進まなかったけど、片っ端からオーディションしたんだ。でも誰も気に入らなかった(笑)。ダイアンは素晴らしかったけど、僕たちの音楽には今一つ合わなかったんだ。シンガー探しを諦めかけた頃、僕たちのマネージャーと同じアパートにコリーンが住んでいてね。それでマネージャーがコリーンを連れてきたんだ。「歌いたい! 歌いたい!」って言っていたからね。最初はあまり期待していなかった。ところが一旦歌い出したら、すべてが予想外の形で腑に落ちたんだ。
何が決め手だったかというと……あの頃の、というか今もそうだけど、シンガーの多くは、アメリカ人っぽく歌うというか、アメリカン・アクセントで歌っていたんだよね。僕たちにとってはそれがリアルに感じられなかった。そこにコリーンがやってきて、話すのとまったく同じように歌うんだ。だからすごくナチュラルに聞こえたし、すぐ「僕たちのシンガーが見つかった!」と思ったよ(笑)。これもまたアクシデントだったね。
─しかしSOSがスタートして間もない頃、コリーンが落馬して大怪我を負ったそうで。
コリーン:あれがきっかけで、「好きなことをやらなくちゃ」と思うようになったのよね。つまり歌をやるってことなんだけど。と言うのも、アンディやマーティンとデモを作っているのと同時進行で、ファッションデザイナーの仕事もしていたから。その頃に作ったデモのひとつが「Blue Mood」で、それが1stシングルになったのよ。でも仕事は続けていたから、「歯医者に行きます」とか言って抜け出さないといけなかった。マンチェスターに行ってデモを作るために「あの、お腹が痛くて」とか言って会社を休んで……ちょっと悪い子だったわね(笑)。
そうやってデモを作っていくつかレコード会社に送ったら、大した成果はなかったけど、一応オファーはあって。クリスマス直後にマンチェスターでデモをレコーディングすることになっていたのよ。私は田舎にある母の家でクリスマスを過ごしていて、そこで小さな馬を飼っていてね。その馬はあまり人を乗せた経験がなかったけど、私は子供の頃に馬に乗った経験があったから、大丈夫だろうと思って乗ったのよ。ところがいざ乗った途端、その馬がクレイジーになっちゃって……とにかく私を振り降ろしたくて暴れ始めたの。気づいたときには4日経っていて、頭蓋骨が折れていた。当然デモも完成させられなくて、契約するチャンスを失ったの。
アンディ:写真を見たらコリーンがパンダみたいになっていたよ。目の周りに大きなアザができていてね。
コリーン:ええ(苦笑)……そのおかげで私はスローダウンを余儀なくされた。何カ月もベッドに寝たきりだったわ。ほとんど話せなかったし、歩けなかった。平衡感覚を失ってしまったから、すべてを取り戻さないといけなかった。唯一できたのがメモを取ることだったの。意味不明のことを書いていたこともあったけど、中にはデヴィッド・ボウイの歌詞を彷彿させるものもあったわ(笑)。意識の流れに任せてとにかく書いていたのよ。心の中から出てくる、とても不思議なことをね。瞑想で自分を見つめ直すようなことを強制的にやっていた。あれは禅みたいな経験だったわ。横になってノートに色々書くことしかできなかったから、書くことですべてを出していって、それが歌詞になったの。
─「Breakout」の歌詞も入院中に書いたんですか?
コリーン:あの歌詞はその時書いたものではなかった。あれはひと晩で慌てて書いたものなのよ。デモの締め切りがあることを思い出して、翌日までに提出しないとレーベルから契約を切られてしまうという話だった。ファッションデザイナーの仕事にも復帰しないといけなかったし、その合間にアンディとマーティンとさらにデモを作らないといけなかった中で、「私、何でこんなことをやっているんだろう?」と思ったのよ。「こんなの私の望んでいる暮らしじゃない」ってね。九死に一生を得るような経験をすると、人生って一瞬で終わってしまうこともあるんだって気づくのよ。だから好きなことをしないと、ということよね。ファッションデザインの仕事では結構いいお金を稼いでいた。でも、「それに何の意味がある? すべてが満たされる訳じゃないのに」と思ったの。
「Breakout」のデモを翌日に提出しなくちゃいけない状況で、アンディとマーティンはマンチェスターにいて、ちょうどアンディはア・サートゥン・レイシオとツアー中だった。私はノースロンドンの自分の部屋で、カセット・レコーダーに歌を吹き込んで……録音機能のついたウォークマンを使って歌いながら録音したの。そうやって最初のデモテープを提出したのよ。あの頃はカセットをたくさん買うお金がなかったから、古いカセットを使いまわしていたわ。新しいものはボーカルを録るときのためにとっておいたの。それをバイクで送ったのよ。
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─そんな状況で生まれた曲だったんですね。「Breakout」のレコーディング中、プロデューサーのポール・オダフィはアンディに複雑な和音を簡略化するよう迫ってきて、ふたりの間で攻防があったと聞きました。当時のエレクトロポップでは使わないようなテンションコードが「Breakout」の魅力ですから、よくぞ妥協せず守りきってくれましたね。
アンディ:アハハ……そうやって感謝してくれる人がいて良かったよ(笑)。ポールは押しの強いキャラクターで、僕が自分の思い描いた通りのプレイをしていると、「今のコードをもう一回弾いてみて」と言う。それで弾き始めると、僕の指を1本だけ鍵盤から離して「この音は要らない」なんて言うんだ(苦笑)。で、僕が指を元に戻すと、また鍵盤から指を離そうとする(笑)、そんな感じだったね。ともあれ、ポールはとてもクリエイティブな人だよ。彼がいなかったら『It's Better To Travel』のようなアルバムができたとは思えない。とてもよく励ましてくれたし、ぶつかることはあったけど、このサウンドを作るために大きな役割を果たしてくれた。彼は稀なコンビネーションの持ち主で、プロデューサーとしてはとても実利的なところがある半面、とてもクリエイティブな面も発揮してくれた。低予算だったから闘う必要もあったしね(笑)。でも回り道を厭わずに、いい道を見いだしてくれる人なんだ。彼と出会えてすごくラッキーだったよ。
「Breakout」を出したときは、あれがヒットするなんて誰も予想していなかった。契約はシングル2枚分で、あれが2枚目だったんだ。作るのにはちょっと時間がかかったけど、すぐにチャート・インした。だけど僕たちはまだアルバムがなかったから、レコード会社が「これはクレイジーな話だ。シングルがトップ10入りしたのにアルバムがないなんて」と言い出してさ。それで慌てて(アルバム作りの)青信号を出したんだ。そこからは大急ぎだったね。それが『It's Better To Travel』では功を奏したような気がする。「もしかしたらこうした方がいいのでは?」みたいに悩む時間があまりなかったからね。時間がありすぎるといじくり回して台無しにしてしまうこともあるし。もっと時間があったら、別の方向に流れてしまっていたかもしれない。まあ、僕らはその後、色んな方向に何度も流れることになる訳だけど(笑)。
ポップとオーケストラの融合、マエストロとの邂逅
─仰せの通りで、2枚目のアルバム『Kaleidoscope World』ではオーケストラルなサウンドへ方向性がガラッと変わりました。マーティンがバンドから抜けて、ああいう路線に進んだのはどのような流れからだったのでしょう?
コリーン:路線自体はおそらく初めからあったものだと思うけどね。ただ、マーティンの要素が……私たちは出会って結成したばかりで、お互いのことをよくわかっていなかったから、お互いの音楽的嗜好やキャパを発見しながら活動していたのよ。私たち3人の間で好みが重なる部分はとても多かったけど、マーティンはもう少しパンク寄りでもあった。彼はマガジンで活動していたくらいだから……インダストリアル・パンクにラテン・ジャズの要素を組み合わせたような感じ。
『Kaleidoscope World』のときはソングライティングにものめり込んでいったのよ。ブリル・ビルディング期のソングライターたちを紐解いてみたら、そこにはバート・バカラック&ハル・デヴィッドがいたし、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー、バリー・マン&シンシア・ワイル、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンもいて、イギリスにはトニー・ハッチとジャッキー・トレントがいた。そんな中でもジミー・ウェッブは……もちろんフィフス・ディメンションとかは子供の頃から聴いてきたけど、誰が曲を書いたりアレンジをしているのかまでは知らなかった。バカラックが手がけていたディオンヌもそう。ジミー・ウェッブやバカラックの足跡を知らない間にたどっていたのよ。
ブリル・ビルディングを訪れたことがインスピレーションになった。プロモーション・ツアーのときに建物の外に立って、壁を触って、「私たちにはこうすることが必要よ!」なんて言っていたわ。そうしたら偶然にも、プロデューサーのポールが「ジミー・ウェッブにアレンジをいくつか頼んでみるのはどう?」なんて言い出して。本当にジミー・ウェッブがスタジオに来てくれて、ピアノでいくつか曲を弾いてくれて、彼が考えたアレンジも聴かせてくれたの。「Forever Blue」と「Precious Words」ではオーケストラも来てくれてね。まさにブリル・ビルディング期のソングライティングへのオマージュだったわ。
─そんなヒーローとのレコーディングは楽しめましたか?
アンディ:怖かったよ! ポップ・グループがオーケストラを使う時代じゃなかったし、オーケストラというのはスタジオの中にいたがらないものなんだ。「自分はポップ・アルバムを作るべきじゃない」なんて思っているからね。だからポップ・グループとオーケストラの間には常に摩擦のようなものがある。それに部屋にいっぱい人がいるから緊張感もあって、すごいプレッシャーなんだ。
ジミーがスコアを手がけてくれたときは……通常アレンジャーというのは「ここに問題がある。ここを直して」なんて指揮者に無理難題を言うんだよね、そうできる立場にあるから(笑)。で、みんな座って無理難題を突きつけられるのを待っていた。そうしたらジミーが部屋に入ってきて、みんなひと目で彼だってわかったから、その場が静まり返ったよ。「はい、ミスター・ウェッブ。はい、ミスター・ウェッブ」みたいな感じだった(笑)。彼らがそうやってジミーにリスペクトを示しているのを見るのはステキなことだったね。
コリーン:ジミーがスタジオに来たとき、「紅茶を1杯いかがですか」と訊いたの。「ああ、頼むよ」と言われて、紅茶を淹れに行ったわ。他にどうしたらいいかわからなかったし(笑)。私が部屋を出ていったら、彼がアンディに「今日コリーンはスタジオに来るのかい?」と訊いたので、「今あなたに紅茶を淹れに出ていったのがコリーンです」とアンディが答えたら「(バーブラ・)ストライサンドも(フランク・)シナトラもそんなことはしてくれなかったよ!」と言われたらしいの(笑)。
─ジミー・ウェッブにいい印象を残した訳ですね。それはよかった(笑)。
アンディ:そう、そういうイギリス人的な礼儀正しさが気に入っていたみたいだよ。(笑)。
─この頃ジョン・バリーともお近付きになる機会があったそうですが。
アンディ:ポールが彼の作品のエンジニアを務めていて、仲が良かったんだ。そんなこともあって、「Forever Blue」の一部は『Midnight Cowboy(真夜中のカーボーイ)』へのオマージュみたいな感じになっている。ちょっとひねりを効かせたけど、そうかけ離れていないものができたよ。ポールがその話をジョンにしてくれて、ジョンが僕たちの幸運を祈ってくれた……と口外しているかどうかはわからないけど(笑)、オマージュのことは喜んでくれたと思う。
─もうひとりのヒーロー、バート・バカラックとの接点は?
アンディ:あったよ。実はロイヤル・アルバート・ホールでギグも一緒にやったんだ。僕たちが前座を務めてね。あれはものすごく緊張したな。眠れなかったよ。一番良かったのは……想像してみてほしいんだけど、彼とオーケストラ以外誰もいないアルバート・ホールに居合わせたことだね。サウンドチェックをやっていて、彼が様々なセクションに対して、こうしてほしいああしてほしいと指示を出していた。口調はとても丁寧だったけど、あるべき姿の追求に関しては確固たるものがあったね。ショウはこういう風にやるべきだという素晴らしい指導マニュアルになったよ。
─バカラックはどんな経緯であなた方を前座に抜擢したんでしょう?
アンディ:彼自身のご指名だったとは思わないけど、誰かに勧められたみたいだよ。僕らの2作目は完全に時代からズレていた。当時のロンドンでのトレンドから鑑みるに、まったく理に適っていなかったんだ。オーケストラなんて誰も使っていなかったし、みんなハウスの時代でさ。だからすごく時代に逆らっていたんだ。そんな時代にバート・バカラックがイギリスにやってきたとき、前座ができるグループが僕たちしかいないのは明らかだった。だから自然に僕たちがぴったり合うということになったんだと思う。
ソウル古典の影響、日本との特別な関係
─3枚目のアルバム『Get In Touch With Yourself』では「Am I The Same Girl」のカバーが新鮮で、あれはシャイ・ライツのユージン・レコードが書いて、バーバラ・アクリンが歌った曲でした。あなた方はデルフォニックスの「La La (Means I Love You)」もカバーしていますが、ソウル・ミュージックではシカゴやフィラデルフィアの洗練されたアレンジの楽曲が好みですか?
アンディ:いい洞察だね。確かにそうだよ。「Am I The Same Girl」はニューヨークのクラブにいたときにバーバラ・アクリンのレコードがかかっていて、雰囲気が素晴らしい曲だと思ったんだ。あんな感じの雰囲気をとらえてみたいと思ったね。それで何度も試行錯誤を繰り返してああいう曲を書こうとしたんだけど、その度にイントロのメロディを思い出したから、いっそのことこの曲をカバーすればいいじゃないかと考えたんだ(笑)。
デルフォニックスの曲も同じ感じでね。最初はその曲のムードにインスパイアされて、後になってから「自分たちのバージョンを作ろう」と思ったんだ。わざわざ一から作り直すより、いいバージョンを作ればいいじゃないかと。そうやってリスペクトを示すのもいいことだと思うよ。
コリーン:私は昔からノーザン・ソウルが大好きで……
─そう、実はノーザン・ソウルについても質問しようと思っていました。
コリーン:ソウルとR&Bのシーンがフィリー・サウンドやシカゴ・サウンドとクロスオーヴァーしたのがノーザン・ソウルだと思うの。ある意味ディスコの伏線だったわね。モータウンとディスコの間に位置する感じ。モータウンのライターやプレイヤーの多くが裏でそういう曲を書いていたし、認知度は低かったけどアメリカにもブラック系の小さなレーベルがたくさんあったのよね。そうしたらイギリス北部のDJたちがその中から速い曲を引っ張りだしてきて、ウェアハウス・パーティでかけるようになった。アメリカでは需要がなくて捨てられていたものを私たちがリサイクルしたってことね(笑)。音楽のリサイクルの一番初期の例よ。そんな感じで、ノーザン・ソウルはアンダーグラウンドのカルト的なシーンになっていったの。私はいつも惹かれていたわ。ストリーミングもmp3もない時代だったから、レコードを聴くには、そのレコードを持っているDJがかけてくれるのを(クラブに)聴きにいかないといけなかったのよ。でも一番有名なウィガン・カジノには行かせてもらえなかったわ。母が新聞で悪い噂を読んでいたからね(苦笑)。
その手の音楽をいくつか集めてみたら、バカラック&デヴィッドが書いたものも結構あったわ。映画音楽の編曲家、例えばマイク・ポストやロン・グレイナーみたいに映画やテレビの音楽を手がけていた人が書いたものもあった。彼らのストリングスのアレンジは実に洗練されていたわ。チャールズ・ステップニーみたいにR&Bをたくさん手がけた人もいたのよ。彼はその後アース・ウィンド&ファイアーやエモーションズを手がけたことで最も知られているわね。それからラムゼイ・ルイスも……ディスコ時代の前身みたいな感じだったし、その土台になったんだと思う。あなたよく気付いたわね。私たちのインスピレーションはまさにその辺りよ(笑)。
─ところで、日本で最もポピュラーなSOSの曲は、実は「Breakout」ではなくて「Now You're Not Here」かもしれません。あの曲があれほど大きなセールスを獲得して、長く愛されるようになったポイントはどこにあると思いますか?
アンディ:TVドラマのテーマ曲になったことは、決して過小評価されるべきではないと思うよ。あのおかげでそれまでとは違ったオーディエンス層が生まれた訳だしね。あの曲がドラマに使われたおかげで、日本のヒットチャートに登場する機会ができたんだ。素晴らしい機会をもらったと思うよ。実は曲も日本で書いたんだ。ツアーの後、1カ月くらい滞在してね。渋谷にはよく行ったな。ほら、渋谷に時間を知らせる大きな金属の時計があるの知ってる?(注:渋谷公会堂の前の時計台と思われる)。僕たちは渋谷に小さなホテルを借りて、その時計台のすぐ近くにあるスタジオに通っていたんだ。
「Now You're Not Here」が成功したのは、僕たちとしては珍しいバラードだったからじゃないかな。本格的にバラードに挑戦したのはあれが初めてだったんだ。それがうまくいった。でもどうしてうまくいったのかは僕にもわからない(笑)。ただ、オーディエンスに届いたという実感はあったね。
コリーン:バラードだけど、ラヴ・ソングって訳ではないからかしら。その場に居ない人を思って寂しさを感じるという内容の歌だから。でも切なさというか思慕感があって、そういう感情を日本のオーディエンスが汲み取ってくれたんだと思う。あの曲は他にも色んなバージョンを作ったのよね。……日本で作った曲だったからこそスペシャルだったのかもしれないわ。日本で日本のために作った曲だったし。
アンディ:ミュージシャン陣も日本人だった。リズム・セクションもそうだし、ホーンのアレンジは村田陽一という素晴らしいアレンジャーが手掛けてくれたんだ。彼は仲のいい友人でね。日本ではCHAGE and ASKAのバーニッシュストーンスタジオでもレコーディングしたことがある。確か世田谷にあったよね。
─何度も訪れてきた日本ですが、この国からはどんな刺激を受けましたか? スタッフやファンとの交流も長年重ねてきたと思うのですが。
コリーン:他のどこよりもインスパイアされてきたわ。それも日本のオーディエンスがずっとついてきてくれたからだと思うの。西洋のオーディエンスは移り気というか……どのバンドも2ndアルバム、3rdアルバムは売れるのが難しいのよ。すぐに飽きてしまって他に行ってしまう。でも、日本のファンはずっと通して支えてくれている気がするの。日本人の継続性は、何かをひとつ残らず集めたがる性質とも関係があるのかもしれない。コンプリートするのってすごく日本人的なことだと思うのよ。全色、全レコードを集めたい、みたいなね。私たち、日本ではCDやヴァイナルを買い漁って、スーツケース3個分くらいCDを買ったわ(笑)。世界の他のところでは忘れ去られていたタイプの音楽を、日本で山ほど知った。
アンディ:日本ではレコード店巡りが一番楽しいね。ライセンスの問題でイギリスでは手に入らないものも多かったし、宝探しみたいな感じだったよ。時間の感覚も不思議な感じになるんだ。びっくりするくらいコンテンポラリーなものがあるかと思えば、誰も持っていないような、ビーチ・ボーイズのレアな1965年の作品があったりするからね。
ただ、近年数回行ってみて、今は日本らしいカルチャーを探し出すのが難しいと感じた。もっと画一化されてきて……それは日本だけじゃなくて、世界中そうだけどね。世界がひとつの場所になってしまった感があるよ。今じゃ秋葉原に行く必要もないんじゃないかな? 全部スマホ1台で手に入るし(苦笑)。でも、あの場所は大好きだったよ。
現時点の最新作『Almost Persuaded』(2017年)収録曲「Happier Than Sunshine」
─さて、ニューアルバムは7年近くご無沙汰ですが、今はどの辺まで進んでいますか?
アンディ:(苦笑い)常に進めてはいるけど、問題はいつ終わるかなんだよな~。今3つ4つ進めているものがあるけど、どれも完成図が見えない。
コリーン:ひとつは完成しかけているわ。ビッグ・バンドのアルバムの話をしようかしら。と言ってもスウィング時代のビッグ・バンド的なアレンジじゃなくて、私たちの曲を映画音楽版みたいな感じのアレンジでやっているの。アンディの誕生日のお祝いにやったもので、彼自身もアレンジに参加して、ビッグ・バンドでショウをやったの。その時の録音があって、あとはそれをどう使うかってことなんだけど、色んな考えがあって。もう少しで考えがまとまると思うわ。
アンディ:でもコリーンも言っていたように、元々は僕へのバースデープレゼントだった。つまり「僕のもの」だから、自分のためにとっておきたいな。シェアしたくないというか(笑)。シェアする前にもう少し自分で遊びたいね。ちなみに「Now Youre Not Here」のステキなアレンジも入っているよ……ともあれ、いつかは完成させるよ。
コリーン:ライブ盤として出すのもいいかもよ(笑)。
前回の来日公演、2018年10月のビルボードライブ東京にて撮影(Photo by Masanori Naruse)
スウィング・アウト・シスター来日公演
2024年4月1日(月)〜3日(水)
ビルボードライブ東京(1日2回公演・3DAYS)
1stステージ 開場16:30 開演17:30/2ndステージ 開場19:30 開演20:30
2024年4月5日(金)
ビルボードライブ横浜(1日2回公演)
1stステージ 開場16:30 開演17:30/2ndステージ 開場19:30 開演20:30
2024年4月8日(月)〜9日(火)
ビルボードライブ大阪(1日2回公演・2DAYS)
1stステージ 開場17:00 開演18:00/2ndステージ 開場20:00 開演21:00
チケット;
サービスエリア¥12,800-
カジュアルエリア¥12,300-(1ドリンク付)
メンバー:
Corinne Drewery / コリーン・ドリュワリー (Vocals)
Andy Connell / アンディ・コーネル (Keyboards, Vocals)
Gina Foster / ジーナ・フォスター (BGV)
Tim Cansfield / ティム・キャンスフィールド (Guitar)
James Ahwai / ジェイムス・アーウェイ (Bass)
John Thirkell / ジョン・サーケル (Trumpet)
Jody Linscott / ジョディ・リンスコット (Percussion)
Nic France / ニック・フランス (Drums)