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長い歴史を持つプロ野球の世界では、許されざる行為を行った結果、どの球団でもプレーできない「失格選手」となったプレーヤーが存在。決して数は多くないが、不名誉な形で球史に名が刻まれることとなった。ここでは、日本野球機構(NPB)からを失格処分を受けた歴代選手を紹介する。
笠原将生
投打:右投右打
身長/体重:191cm/95kg
生年月日:1991年1月9日
経歴:福岡工大城東高
ドラフト:2008年ドラフト5位
野球賭博問題が取り沙汰されるきっかけを生んだのが、読売ジャイアンツでプレーした笠原将生だ。
笠原は福岡工大城東高校出身。入学当初は内野手だったが、1年秋からピッチャーに転向。甲子園出場こそ果たせなかったものの、巨人からドラフト5位で指名を受けて入団した。
高卒4年目となる2012年に一軍デビューを飾ると、同年にプロ初勝利を記録。翌2013年には自己最多の30試合に登板し、防御率3.33と一定の成績を収めた。
しかし、翌年以降は成績が下降すると、2015年に野球賭博を行っていたことが発覚。野球界にとどまらない衝撃の出来事だった。
事態を重く見た巨人は、笠原との契約解除を決定。その後、NPBから無期失格処分となることが発表された。
巨人には制裁金1000万円が科されたように、野球界を揺るがす大騒動を引き起こしたことは、疑う余地のない事実だった。
バール・スノー
投打:右投右打
身長/体重:183cm/85kg
生年月日:1945年2月9日
バール・スノーは現役時代の張本勲が絶賛するほど、活躍を予感されていた選手だった。
アメリカ合衆国出身のスノーは、シンシナティ・レッズ傘下で2年間プレー。ただ、目立った成績を残すことはできず、日本でのプレーを希望して来日した。
1974年に日本ハムファイターズの入団テストを受け、3月26日に加入が決定。エースナンバーの背番号「18」を与えられたように、球団から大きな期待を受けていた。
しかし、二軍での登板を告げられた4月25日に突如失踪。球団の捜索でも見つからず、4月30日に日本ハムから契約解除が申請された。
その後も行方不明の状態が続いたこともあり、1974年5月、NPBはスノーを失格選手とした。結局、1試合もマウンドに上がることなく日本球界を去るという、前代未聞の終わり方となった。
永易将之
投打:右投右打
身長/体重:175cm/73kg
生年月日:1942年1月1日
経歴:大工大高 - 電電近畿
大きな社会問題となった「黒い霧事件」に関わっていた選手が、永易将之だ。
永易は大阪工業大学高校から電電近畿(現:NTT西日本)に入社。都市対抗野球で活躍したのち、東映フライヤーズ (現:日本ハム)に入団した。
1965年は40試合に登板して10勝、防御率1.93をマーク。しかし、その後は成績が振るわず、苦しいシーズンが続いた。
1968年から西鉄ライオンズ(現:西武)に移籍し、移籍1年目は35試合に登板。翌年も32試合に登板する働きを見せていたが、シーズン終了間際になって、永易が八百長に関わっていることが発覚した。
いわゆる「黒い霧事件」の始まりであり、永久追放処分を受けることに。最終的に現役としてプレーした期間は6年間。あまりに大きなインパクトを球界に与え、野球界から姿を消していった。
高山忠克
投打:右投右打
身長/体重:177cm/79kg
生年月日:1944年5月18日
経歴:作新学院高
高卒2年目で十分な成績を収めながら、詳細が分からない形で球界から消え去った高山忠克も、プロ野球界から失格処分を受けた。
作新学院高校でプレーした高山は、2、3年時に選抜甲子園へ出場した。
1963年に国鉄スワローズ(現:ヤクルト)へ入団すると、高卒2年目は127試合に出場。打率は.219と苦しい数字に終わったが、18本塁打を放ったように長打力を発揮していた。
1965年以降はレギュラーから外れたものの、毎年90試合前後に出場するなど、一定の出番を得ていた。
しかし、1970年に不振に陥ると、1971年から阪神タイガースに移籍。新天地で再起を図ったが、21試合で打率.097と結果を残せず二軍落ち。
すると、同年7月に選手寮から行方をくらまし、失踪状態に。消息がわからないまま、現役中に失格処分を受けた。
高木京介
投打:左投左打
身長/体重:183cm/90kg
生年月日:1989年9月5日
経歴:星稜高 - 国学院大
ドラフト:2011年ドラフト4位
2023年限りで現役を引退した高木京介。野球賭博への関与で一度は失格処分を受けたが、異例の球界復帰を果たしている。
星稜高校では、3年夏にエースとして甲子園に出場した高木。その後は国学院大学に進学し、1年秋からリーグ戦に登板。“戦国東都”で1部リーグ通算9勝、防御率2.21の実績が評価され、読売ジャイアンツからドラフト4位指名を受けた。
プロ1年目から中継ぎで開幕一軍入りを果たすと、34試合登板で防御率0.57と新人らしからぬ安定感を発揮。その後もブルペン陣の一角を担い、一軍初登板からの117試合連続無敗という新記録を樹立した。
しかし、2016年のシーズン開幕前に野球賭博への関与が発覚。この事件では計4選手がNPBから処分を受けたが、高木以外の3選手が無期失格処分だったのに対し、高木は1年間の失格処分が下された。
これを受けて球団から契約解除が通告されたが、期間を満了した2017年3月に育成選手として巨人と再契約。翌年に支配下復帰を果たすと、2019年にはキャリアハイの55試合に登板するなど、プロの世界で再び躍動した。
その後はけがに苦しむシーズンもあり、2020年、2022年オフにも育成落ちを経験。その度に支配下へ返り咲いたものの、昨季はわずか1試合の登板にとどまったことで戦力外通告を受け、現役引退を決断した。
池永正明
投打:右投右打
身長/体重:175cm/77kg
生年月日:1946年8月18日
経歴:下関商
西鉄ライオンズ(現:西武)のエースとして活躍した池永正明。池永もまた、プロ野球を失格処分となった1人である。
下関商業高校では選抜甲子園制覇を達成。その才能を多くの球団が評価し、読売ジャイアンツや南海ホークス(現:ソフトバンク)など複数球団による争奪戦の末、西鉄の一員となった。
プロ1年目から20勝を挙げる働きで、チームの大黒柱に君臨。1967年には23勝を記録し、最多勝のタイトルを獲得するなど、まさに順風満帆の野球人生を送っていた。
1969年も18勝11敗、防御率2.57と活躍を見せていた池永。しかし、八百長への関与が疑われ、否定したものの「黒い霧事件」に巻き込まれる形で失格処分を受けた。
わずか6年間のプレーで103勝を挙げたが、まさかの形でプロ野球選手としてのキャリアを終えることになった。
【了】