2023年10月、明治大学野球部に初の女性主務が誕生したというニュースが飛び込んできた。社会への女性進出を推進しようという動きが進む中、野球の世界はまだまだ男性社会と言っても過言ではない。そんな中、創部以来、ずっと男性が務めてきた主務に、なぜ女性が抜擢されたのか。主務となった岸上さくらさんご本人のほか、同野球部の田中武宏監督と主将の宗山塁さんにお話を伺った。
創部114年目にして初の女性主務
明治43年創部の明治大学野球部。多くのプロ野球選手を輩出している名門だ野球部における主務とは、複数いるマネージャーのトップで、試合や遠征の日程調整、さまざまな書類の作成、部品の管理、OB会や取材陣への対応など、いわゆる裏方仕事を一手に担う大切な役割だ。明治大学野球部では、1910年の創部以来、主務はずっと男性が務めてきた。しかし2023年10月26日、田中武宏監督は3年生の女性マネージャー岸上さくらさんに「主務になってくれないか」と打診。岸上さんはその場で承諾したそうだ。その理由について田中監督は次のように話す。
東京六大学野球で2023年春、明治大を85年ぶりとなるリーグ3連覇に導いた田中武宏監督「もともと主務はマネージャーの中から選ぶのですが、ここ数年、男性のマネージャー希望者が少なく、3年生にいたっては男子マネージャーは1人でした。しかも彼は、選手兼任だったこともあり、だいぶ前から次は岸上さんにと考えていたんです。それは、単に男性がいないからというだけでなく、岸上さんは私が指示をしなくても朝の練習を見学していいですか? と聞いてきたりして、チームのことを人一倍考えてくれているというのが分かったからです」(田中監督)
野球部員は基本的に寮生活をし、選手たちは寮から直接朝練をするグラウンドへ向かう。しかし寮に住めない岸上さんは6時半からはじまる朝練に自宅から通っていたという。そんな岸上さんの姿を見ていた田中監督は、過去に例のない女性主務誕生を実現させるため、OBにも相談をした。
「事前に主務は女性ではダメでしょうか? と相談したところ、岸上さんならいいんじゃないと内諾をいただいたので、後日、本人に打診しました。その場で『良ければやらせてください』と言ってくれて良かったです」(田中監督)
あの高橋由伸氏もタジタジに?
ベンチで選手を指導する田中監督OBにも相談した田中監督だが監督自身は、女性が主務になることをそれほど特別視していなかったという。それには監督の経歴も影響していた。田中監督は以前、日産自動車に所属していた。
「私が日産自動車にいた頃は、ちょうど女性の管理職がバンバン増えていた時期で、私が退職する直前の上司は女性でしたから、女性に能力があるということは十分身にしみてわかっていました。世の中にはそれぞれの得意分野を発揮できる適材適所、男女関係なく力を発揮できる場所があると思うんですよね」(田中監督)
そんな監督が岸上さんの能力を評価した面白いエピソードを話してくれた。
「これはOBから聞いた話なのですが、何かの講演会の時に東京六大学野球部のOBとして慶應義塾大学出身の高橋由伸さんがお話をされたそうです。その後の質疑応答の時間に、岸上さんがいろいろと鋭い質問をして、高橋さんがタジタジになっていたというんですよ。『岸上さん、しっかりしてるね』とOBも褒めてくれて、そういう物怖じしないところがあるんだなと思いました」(田中監督)
戦うよりも理解し合う
2023年10月、明治大学野球部で初の主務になった3年生の岸上さくらさん創部113年の歴史を誇る野球部で、総勢100名の選手やマネージャーを支えていく、女性初の主務を打診されて、岸上さんはどう考えたのだろう。
「打診されたとき、責任や不安は感じましたが、あまり大きく動揺はしませんでした。というのも、その一年ほど前に前任の主務の方から『期待しているから頑張ってほしい』と声をかけていただいて、その時、なんとなく『女性主務』という言葉も聞いていました。ですからもし本当に任せていただけるなら、責任を持って取り組めるように自分なりに準備はしていたんです」(岸上さん)
その準備というのが田中監督が話してくれた朝練活動などというわけだ。田中監督は女性ならではの目線や気遣いにも期待していると話していたが、一方で世の中には女性であることが「女性は●●だから」「女性だからこれは無理」といった否定的な文脈で語られることもある。ましてや前例がない女性初のポジションともなれば、そういった声が本人の耳に届くこともあるだろう。
「そういうこともありますが、あまり気にしていません。世の中にそういうジェンダーギャップがあるということは理解しています。それを平等にしたいという気持ちもありつつ、その上で違いを受け入れて理解する方が今の自分には合っていると思います。もちろんジェンダーギャップがなくなることが一番ですが、戦うよりも、話し合ってお互いを理解して、みんなにとっていいチームを作っていけば、自然と周囲の理解も得られるのではないでしょうか」(岸上さん)
大切なのは素直さと諦めないこと
ベンチから選手をサポートする岸上さん主務になることが確定していない1年も前から、もしも任せてもらえたらと努力をしてきた岸上さんだが、もし監督から打診されなかったら、どうしたのだろうか?
「私は大切にしていることが2つあって、1つは素直さ。そしてもう1つは諦めないこと。今回、主務に任命していただいて報われたとは思いますが、たとえ違う結果になっていたとしても、それまでの過程というのは後々の人生で役立つというのを実感しました。もちろん、失敗もたくさんありましたが、諦めなければ誰かが見ていてくれますから」(岸上さん)
一度決めたことに真っ直ぐに取り組めば絶対に結果はついてくると力強く話す岸上さんだが、そうした自分の姿を見てもらうことで、女性たちが何かを頑張るきっかけになってくれたら嬉しいと笑顔で話してくれた。
そんな岸上さんの話を裏付けるような印象的なエピソードがある。昨年の秋のリーグ戦で、会場となる神宮球場に来場した招待客にチケットを手渡したときのことだ。「明治大学野球部の岸上です、お待ちしておりました」と一言添えたところ、相手は「今までチケットをもらうのに名乗られたのは初めてだし、こんなに丁寧に渡されたのは初めてだ」と喜んでくれたそうだ。もちろん、今までのマネージャーや主務も丁寧な対応をしていたのだろうが、そのたった一言が相手の心にしみたのだろう。
「そんな風に言っていただいて、自分がやってきたこととか、今やっていることは間違っていなかったんだなと嬉しくなりました」(岸上さん)
主将、宗山塁から見た女性主務
2023年10月から明治大学野球部の主将となった宗山塁さんOBや監督からも絶大な信頼を得ている岸上さんだが、選手たちはどう思っているのだろうか。昨年、野球部の主将に就任、今年のドラフトの目玉とも言われる宗山塁さんに聞いてみた。
「監督から主務は岸上でいくからと聞く以前から、チームの中で、そうなるだろうという話は出ていたので、特別驚きということはありませんでした。女性主務は前例がないので、いろいろと難しい点も出てくるだろうという懸念はありましたが、岸上なら責任感を持ってやってくれるだろうと思っていました」(宗山さん)
とはいえ、男性同士、女性同士の方が話がしやすい、あるいは異性だと言い方に気を遣うなどという話は一般社会の中でもよく聞く話だ。そういった雰囲気は野球部の中にはないのだろうか。
「少なからずあるとは思いますが、それではいいチーム作りはできないので、思ったことはしっかり選手側に伝えてほしいし、主務をやる以上は選手からの意見も遠慮なく言わせてもらいたいといった心構えについて、岸上とは話をしました。お互いにしっかりと話し合える関係性を築いて、いいチームを作っていきたいと思っています」(宗山さん)
宗山塁さん(左)と岸上さくらさん(右)今回の取材は時間の都合上、それぞれ別の時間に話を伺ったのだが、三人が共通して話していたことがある。それは「コミュニケーションの大切さ」と、そこから生まれる「信頼関係」だ。田中監督は「一人で抱え込まず、同期のマネージャーや選手などとコミュニケーションをとって、信頼関係を築き、チームの顔として活躍してほしい」と岸上さんにエールを送った。宗山さんは野球部では普段から何かあったらきちんと上の人に相談すること、挨拶や礼儀をしっかりするといった指導をされていることを踏まえ、「主将として自分一人でチームをまとめていくのは当然難しいので、主務やマネージャー、選手みんなで協力して、いいチームを作っていきたい」と抱負を語ってくれた。
そして、岸上さん本人も普段から気をつけていることとして、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)とコミュニケーション」をあげてくれた。
「私には頼もしい同期のマネージャーが3人いるんですが、4人で選手が野球に専念できるにはどうしたらいいかといったことを、日々話し合ったり、一緒に考えることができるのが、自分自身の活力にもなっています」(岸上さん)
いい組織を作る上で障害になるのは、女性か男性かや、年齢、立場などではなく「コミュニケーション不足」とそこから生まれる「不信感」なのかもしれない。今回の取材のテーマは「女性初の主務」だったが、明治大学野球部のように「いいチームを作ろう」「このチームで頂点を目指そう」という目標に向かって性差を乗り越えて協力しあう人たちが増えれば、いつか「女性初」をテーマに取材をする必要がなくなるのではないかと感じた。
text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
写真提供:明治大学野球部